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Artist Interview
ロック世代の津軽三味線奏者 ヨーロッパ公演に臨む上妻宏光に聞く


永遠の詩
5枚目のアルバム「永遠の詩」(東芝EMI)


──意志が強くなければ、できないことですね。
目標を大きく持っていたのが良かったと思います。津軽で生まれた津軽三味線は、津軽の人間でなきゃ表現できないと地元の人に言われたことも、僕には原動力になっています。生涯、津軽三味線を弾き続けると思いますが、死ぬまで、『おまえは茨城の三味線だ』と言われ続けるでしょう。でも、津軽三味線の精神性を理解し、津軽三味線を愛していることにかけては誰にも負けない。津軽の民謡というカテゴリーで考えず、世界の中の楽器のひとつで、日本人の上妻が音楽を表現するという意味では何をやっても問題はないと思います。

──今でこそ、三味線でロックを演奏することも、異分野の音楽と共演することも当たり前になりましたが、上妻さんがロックを始めたころは風当たりも強かったのでは。
『三味線じゃない』と言われて厳しかったですね。ライブをやっても客は入らない。三味線は着物を着て、こういうサウンドだという固定観念があって、違うアプローチをすると批判される。変わったのは、ここ4、5年です。それまでも、三味線で新しい表現をしようという試みはありましたが、『津軽じょんから節』のバックに同じビートでドラムをつけるといった形が多くて、アンサンブルにはなっていません。僕は小学校のころからラジオの深夜番組などで、ロックやブルース、ユーロビートを聞いていて、三味線で合わせられそうだと思っていました。運良く17の時にロックバンドから誘いがあり、実際にやって三味線でもロックができると確信しました。毎回のライブが実験の場でした。ロックが生まれた時から三味線が入っていたわけではないので、民謡の音色やフレーズそのままでは当てはまらない部分が出てくる。バンドの中でどういうバランスで奏でるか、音を1つ変えることで広がる音楽を実感しながら、自分のスタイルを追求していきました。

──古典から新しい音楽に活動の重点を移したということですか。
古典は時間をかけて築き上げてきただけに、壊せない型があるでしょう。壊す必要のないものもあります。一方では型を壊しながら新しいものを作っていかないと、今を生きる人間の感性に合う音楽ではなくなってしまう。守る一方では演奏者も聴衆も減ってしまう。古典を勉強したい思いは強いのですが、それ以上に若い世代が受け入れやすい、身近に感じてもらえる音楽を作っていきたい。人と違うことをやると風当たりが強いのは、どの時代も同じです。多少の前例があれば、後に続く者はやりやすいでしょう。僕は前例を作っていく使命があると思っています。

──海外で演奏しようと考えたのはロックを始めてからですか。

高校を出たら米国に留学したいと考えていたんです。初めて聞いた海外の音楽が米国の音楽でしたし、日本のポップスは欧米の影響を多大に受けています。オリジナルを作る国、人間、環境を体験したい。そこで、どういう影響を受け、僕の弾く三味線がどう変わるか挑戦したかった。ところが、18歳で本格的なプロ活動を始めたために実現しませんでした。しかし、いずれは海外で自分のコンサートをやりたいという目標はありました。海外公演は1990年から年に1、2回しています。民謡にユニットやロックバンドの一員として香港や中南米にも行きましたが、どこでも見たことも、聞いたこともない楽器にとても興味を示してくれて、演奏後の反応もよかった。三味線が弦楽器でありながら打楽器的な強い音のするところに引かれるのだと思います。確実に日本を感じる楽器なんですね。
 
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