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黒田育世
黒田育世(KURODA, Ikuyo)
6歳で谷桃子バレエ団に入団。以来、小・中・高校、大学卒業まで、クラッシック・バレエ一筋。大学時代にロンドンのラバンセンターに留学したのを機に、コンテンポラリーダンスの世界に引き込まれ、ダンサーとして本格活動を開始。2000年から「伊藤キム+輝く未来」のダンサーとして国内外の公演に多数出演。
2002年、初の振付作品『SIDE-B』で「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ(旧バニョレ国際振付賞)ヨコハマ・プラットフォーム」の「ナショナル協議員賞」を受賞し、同年4月に女性だけのダンスカンパニー「BATIK」を設立。2003年には、静岡県舞台芸術センター主催「SPACダンス・フェスティバル2003」の「優秀賞」、「トヨタ・コレオグラフィーアワード2003」のグランプリ「次代を担う振付家賞」を受賞。2004年に『花は流れて時は固まる』『SHOKU』の演出、振付、出演に対して「第4回朝日舞台芸術賞」「キリンダンスサポート賞」を同時受賞するなど、デビューから瞬く間に振付家としての地位を確立。この他の振付作品に『アウラ』『Last Pie』など。
http://www.my-bb.com/batik/index.html
SIDE-B
BATIK『SIDE-B』
撮影:Shinji Suzuki
●BATIK欧州ツアースケジュール
10月1日、2日 20:00
モウソントゥルム(フランクフルト)
http://www.mousonturm.de/neptun/
neptun.php/oktopus/page/1/6


10月6日、7日、8日 20:30
パリ日本文化会館(パリ)
http://www.mcjp.asso.fr/

10月12日、13日 19:00
トゥルク・コンセルヴァトワール内シギン・ホール(トゥルク)
10月14日 午後
ワークショップ/トゥルク・コンセルヴァトワール内シギン・ホール(トゥルク)
http://www.turunkonservatorio.fi/
pdf
an overview
Artist Interview
2005.9.23
Questioning the Body at its Limits What is this world of Ikuyo Kuroda?  
身体の極限に問う 黒田育世の世界とは?  
2002年2月、初の振付作品『SIDE-B』で鮮烈なデビューを飾り、振付家の登竜門と言われる賞を次々に受賞した新星、黒田育世。彼女の作品は、バレエのテクニックを基礎としながら、ダンサーの身体を酷使することによって、誰もが身体の奥底に抱え込んでいるヴィジョンを鮮烈に表現している。今月下旬から、代表作『SHOKU』を携えてドイツ、フランス、フィンランドをめぐるヨーロッパツアーを敢行する黒田育世に、カンパニー立ち上げから約3年間の濃密な活動の軌跡と今後について聞いた。
(インタビュー:石井達朗)


──日本の社会では、お習い事として女の子がピアノやバレエをはじめることは珍しくないですが、20歳前後まで持続する人はそれほど多くない。
そうですね。バレエが好きだったので、大学3年生の時にロンドンのラバンセンターに行く前までそれだけをずっと続けていました。まあ、他に知らなかったし(笑)。

──バレエ一筋でやっていた人がラバンセンターに行くと、みんな運動着を着て自由に動いていて、何だか今までと違うなみたいな違和感はありませんでしたか?
もしコンテンポラリーダンスを日本で始めたとしたら、きっと違和感があったと思いますが、ロンドンに行って環境が一気に変わったから。すべてのものが目新しくて、そういう変化のうちのひとつだったのですごく自然に捉えられました。ダンスに限らず、ひとりで現代美術を観たり、音楽を聴きに行ったり、お芝居を観たりしました。何もかもカルチャーショックで面白かった。ラバンセンターもそういうカルチャーショックのひとつでした。プレイス・シアターなどの小さい劇場にも行きましたが、日本では大きな劇場でバレエばかり観ていたので、すごく新鮮でした。ロンドンが私の全てを変えたという感じです(笑)。

──ラバンセンターではどんなレッスンを?
リリース・テクニックや、グラハム・テクニック、ホートン、ホセ・リモンのテクニックなどをやりました。また、ロンドンで活躍している振付家の方が指導してくれる授業があって、マシュー・ボーンなどのワークショップを受けました。

──帰国してから、どういう経緯で「伊藤キム+輝く未来」に入ることになったのですか。
大学4年の夏に帰国した時は、もうバレエじゃなくて違うことがやりたいと思っていたのですが卒業制作が忙しくて。その後時間ができてからさあ何をしようかという感じで、いろいろと探し始めました。木佐貫邦子さん、二見一幸さん、山崎広太さんのワークショップを受けたり、セッションハウスなどで外国人のレッスンを受けたり……。その頃、日韓のダンスコラボレーションの公演を見に行き、偶然、キムさんのワークショップのチラシを見つけた。キムさんの公演は観たことがなかったのですが、受けに行くことにしました。

──伊藤キムさんは舞踏出身ですが、その時点で舞踏についてあまり知らなかった?
知りませんでした。玉川大学の授業で、大野一雄さんとか、山海塾などがあるということぐらいは習いましたけど。伝統芸能だと思っていたぐらい(笑)。それでキムさんのワークショップを受けたら、「これダンス?」って感じだった。だけどやらなきゃ気が済まない質ですから。運動神経は悪い方じゃないし、たいてい何でもなんとかこなせた。でも、ドルフィン・ジャンプという、床にうつぶせになって、身体を波打たせながら跳ねる動きがあるんですが、それができなかった。本当にくやしくて、絶対次も受けようと、ワークショップやショーイングに参加するようになりました。はじめてキムさんの作品に出演したのは99年の『on the map』で、2000年初めに正式メンバーになりました。

──谷桃子バレエ団を続けながらキムさんの作品でも踊っていたわけですが、この2つは同じ「ダンス」であっても全然違います。自分の中でどのようにバランスをとっていたのですか。
キムさんの作品はすごく楽しくて、貴重な経験でしたが、これだけをやっているとダメだというのを何か直感していたように思います。バレエでバーレッスンをやって、毎朝謙虚な気持ちになりながら、キムさんの作品で身体をバラバラにしたりする……こういう往復が私にはちょうど良かった。バレエを切り捨てることは簡単だけど、バレエで身体に染みついたものを捨てて、こっちだけになるのは嘘っぽいんじゃなかと。
それと、キムさんのところやBATIKでやっていることとバレエは、身体の使い方とか考え方とか違うところの方が多いですが、一つだけ共通するところがあるんです。私は、キャラクテールよりコールドの方が好きで、『白鳥の湖』の三幕とかで盛り上がってくるとコールドをやっていても凄く興奮して列に並べなくなっちゃう。実は、そういう自分の感情みたいなものはコールド・バレエにはいらないんですが。こんなこと言うと、谷先生に怒られそうだけど(笑)、いらないんです。つまり、自己否定です。私の作品でも、とにかくダンサーを疲労させて、「自分はこういう人です」と言えない状態にまで身体を追い込みます。自己否定ですよね。そういうところは共通しているかなと……。

──初の振付で女性だけの『SIDE-B』が生まれた経緯は?
ラバンセンターから帰ってきた2年後の2001年、22歳か23歳のときにつくりました。
キムさんが海外に行って不在だったので、カンパニーがふと暇になったんです。ポッと時間ができたら、いきなり『SIDE-B』の構想がワッと、ポロポロポロって出てきちゃった。それがたまたま全員女性だった。その場でマニキュアのビンをダンサーに見立てて並べながら、動線をつくれるぐらい、ものすごく鮮明な絵がポロポロポロって出てきました。それが全員黒いスカートをはいて、髪の毛で顔を隠している女の子たちのイメージだったんです。
そのポロポロポロってなった瞬間に、これは形にしないと気が済まないというせっぱ詰まった感じになって、すぐに絵コンテを描いて、音も全部決めました。知り合いのダンサーに、今こういう作品のイメージがいきなり沸いてきたので(作品をつくるのに)付き合って欲しいと電話をかけまくりました。ダンサーには、絵コンテをもって行って、「ビデオ撮りだけ付き合って欲しい、10回のリハーサルで仕上げるから」と言って説得しました。その時は6人のダンサーを集めてビデオ撮りだけをして、2002年2月に横浜で初演するまでずっとほったらかしにしていました。

──その時は、発表する予定はなかった?
全然ありませんでした。とにかくもう、形にしたくてしたくて仕方がなかったんです。ビデオを撮った後は、また、踊り手としてやっていたのですが、2002年のヨコハマ・プラットフォームに参加してナショナル協議員賞をいただき、その時は本当にびっくりして腰が抜けてしまいそうでした。
 
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