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井手茂太
井手茂太(IDE, Shigehiro)
ダンスカンパニー「イデビアン・クルー」主宰。イデビアン・クルーは、95年に『イデビアン』で旗揚げし、以来、国内外で公演活動を行っている。日常的な身振りや出演者の個性を活かした動き、オリジナリティのある群舞などの振り付けで注目される。現代美術家・椿昇や音楽家・ASA-CHANGなど、異分野のアーティストとのコラボレーションにも取り組んでいる。 最近では、『AMERIKA』(松本修演出)、『ルル』(白井晃演出)、『クラウディアからの手紙』(鐘下辰男演出)など演劇やミュージカルなど多数の舞台作品の振り付けを担当し、高い評価を得ている。04年に振付家として初めて読売演劇大賞優秀スタッフ賞受賞。
http://www.idevian.com/
『井手孤独【idesolo】』
『井手孤独【idésolo】』(2005年)
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Artist Interview
2006.2.28
Inside the mind of Shigehiro Ide, a unique talent of the contemporary dance world 
コンテンポラリーダンス界の異才 井手茂太の発想とは? 
日本のコンテンポラリーダンスシーンの中でも異彩を放っているイデビアン・クルーは2005年で結成10年を迎えた。主宰の振付家・井手茂太は、独自の解釈に基づいた音楽、身振り、空間造形により、バレエから日本のお葬式まで多彩なモチーフをダンス作品にしてきた。近年では、自身のカンパニー活動のほか、現代美術、演劇、ミュージカルなど異分野とのコラボレーションにおいてもその才能を発揮。井手のオリジナリティ溢れる発想の原点に迫った。
(聞き手:石井達朗)


──井手さんはこれまで数々の作品を手がけていて、なかにはダンス以外の演劇の人たちとのコラボレーションもたくさんやっていますね。井手さんの振付を見ていても、だいたいダンス的でない部分が多いのではないか、という気がしています。そういう意味で、ダンスの活動以前の生い立ちについて興味がわいてくるのですが。
僕が育ったのは佐賀県武雄市という焼き物で有名なところです。近くに有田や伊万里があります。父も陶芸をやっていて、その周辺は5〜6人に1人は父親が焼き物か陶芸をやっている家でした。父はどちらかというと作家として作品をつくる人で、僕も小学校のころはよく、ろくろなどで遊んでいました。僕が高校を卒業する頃までは、家にも大きなガス釜とかあったんですが、その後全部壊してしまいました。やっぱり田舎なのでそういうのは商売にならなかった。
母は美容師です。同居している叔母が地元でチェーン展開をしている美容会社を経営していて、そこを手伝っていました。ですから、うちは母親と叔母、二人の姉、さらに美容院の住み込みお手伝いさんやインターンがいるという、女7〜8人に男2人という家庭でした。親父は仙人のような人で無口。親父らしい親父ではなかったし、井手家はうちの叔母が全部仕切っていました。

──井手さんの振付作品では、女性がたくさん登場するんですが、それは美容院と関係がありそうですね。小さい頃から、意識なしに女性たちの中に同化していたというか。その時はまだダンスは始めてなかった?
ダンスへのきっかけは不思議なものでした。子どもの頃、一番上の姉が日本舞踊を、2番目の姉はクラシックバレエを習っていました。僕だけは何も習い事をさせてもらえなくて。でも、姉たちに踊りの相手役をよくやらされていました。夜、店を閉めた後イスを全部取り払うと、美容室が鏡でいっぱいのスタジオになるんです。例えば、今度アイドルの振付を学校でやるからと「ピンクレディーのあんたミーちゃん、私ケーちゃん」などと言って、姉にいつも相手役をやらされてた。一番上の姉の時代は、ヴィーナスというバンドの『キッスは目にして』という曲が流行っていて、みんなポニーテールにして、女の子がシューッとスライディングする踊りとか。そういうときの相手役です。今思えば美容室はいいスタジオでした。
真ん中の姉がバレエのレッスンに行くときは、わざと早めに迎えに行って見学することもありました。女の子たちはレオタードを着ていて、男の人も大人もいるのに、なんで僕だけやってはいけないのかなと思ったりして。日本舞踊やバレエをやっている姉たちを見て、ダンスに対する憧れみたいなものがなんとなくありました。
そういう姉弟だったんで、小学校の頃から何かのイベントのたびに、井手の姉弟を踊らせろ、みたいな感じでよく踊っていました。小学校のレクリエーションの時間などで、姉の発表の相手役をやったり、家の美容室スタジオでやったものをそのまま、僕も出て学校で発表したりしました。その頃には人前に立つ楽しさに目覚めてましたね。本当は超シャイなんですが(笑)。ああ、こうすれば受けるな、とか、こうしたらきれいだと思うんだ、みたいなことを考えていました。
うちは貸衣裳屋もやっていたので、着物などの特別な衣裳にも昔から興味がありました。今も自分の作品のなかに着物を使おうということになると、実家の貸衣裳を使ったりすることもあります。この前のソロ公演(『idésolo井手孤独』)の時は女性の結い髪のかつらを借りてきました。

──別に習っていたわけじゃないけど、子どもの頃から踊る環境はあったんですね。
親戚もほとんどみな美容師という美容師一家のなかで、もう自動的に「お前は美容師だ」という環境だったんです。だから僕は、ちょっと言えば美容師のホープみたいな感じで育てられました。そういうプレッシャーもあってか、高校を卒業して半年もしないうちに美容師の見習い修行をやめてしまい、福岡でプータローしていました。
そんな時に、もう一度学生をやりたいと思って探していたら、東京にダンスの専門学校があるのを知りました。こんなのが世の中にあるんだと思って、なんとなく行ってみたいなと。上京して、渋谷の「日本ヘルス&スポーツ学院」という全日制のダンス専門学校に入学しました。その学校にはモダンダンスの人、ジャズダンスの人、バレエの人など、いろいろな学生がいました。先輩に能美健志さんなどもいます。ちょっと不思議な学校だったかもしれません。

──そこで初めて本格的にダンスを習った。
そうですね、授業ではあらゆるダンスをオールラウンドにやっていた感じです。グラハムテクニックとかバリバリやらされましたよ。1年目は必修で、2年目からは選択になるんです。基本的にはジャズダンスとかヒップホップみたいなものに人気があって、その他にモダンダンスや、当時のコンテンポラリー、クラシックバレエもありました。朝からレオタードを着せられて、泣きながらバレエのレッスンなどを受けていました。また、ダンスの理論や歴史に関する講義の時間があったり、身体や骨の勉強をしたり。その後またジャズを踊ってモダンを踊って、英会話の授業があって、なぜかボイストレーニングもあって。月から金、朝から夕方まで踊りっぱなしでした。バレエ振付家の望月辰夫さんや、評論家の長谷川六さんらが講義に来たり、ロイヤルバレエ団やローザスの人など海外からの講師も多くいました。
当時面白いと思ったのは、学校では夏休みが1カ月以上しっかりあるのですが、踊りずくめの毎日だったのが、夏休みになった瞬間にボーンと太るんですよ。僕だけじゃなくてクラスの女の子みんな。それが、学校が始まってまた同じようなプログラムを毎日こなすと、1カ月で元の体重に戻る。若かったせいもあると思いますが、それこそ10キロ近く太って3〜4週間で元に戻るほどハードなプログラムでした。だから、座学の講義の時間はみんな居眠りしていましたよ。そこでも、まわりは女の子ばかりでした。1クラスに女性が25、6人いるうち、男が1〜2人ぐらいしかいなくて。2年目になってやめていく男もいたから、僕は目立ってた(笑)。
学校では毎月1回、パフォーマンスの発表会のようなものを行っていました。作品タイトルやユニット名などを決めなければなかったのですが、ある時、モダンダンスの外国人講師のクラスで、カリビアンダンスの振りを踊っていたら、妙にウケたんです。そしたら「あなたはカリビアンじゃなくてイデビアンだね」と言われて、それで僕らのユニットを「イデビアン」にしました。
とにかくダンス学校での2年間は、バリバリ踊っていました。自慢じゃないですが、僕は成績優秀だったんですよ。2年時には級長をやって、その後卒業公演のまとめ役になって、ずっとみんなを仕切るリーダーでした。

──そこでの仲間がイデビアンのメンバーになっているのですね。
そうですね。今残っているのは4、5人ですけど。結局そこを卒業してみんな何をしているかというと、ほとんどがダンスをやめて結婚してしまいました。今ダンスを続けている人はあまりいないかもしれません。
 
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