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内藤裕敬
内藤裕敬(Hironori Naito)
南河内万歳一座・座長。1959年栃木生まれ。高校の時に状況劇場『蛇姫様』(作・演出/唐十郎)を見て芝居の道へ。1979年、大阪芸術大学(舞台芸術学科)に入学。4年間、秋浜悟史教授(劇作家・演出家)に師事。その間、“リアリズムにおけるインチキの仕方”を追求。1980年、南河内万歳一座を『蛇姫様』(作・唐十郎/演出・内藤裕敬)で旗揚げ。以降、全作品の作・演出を手がける。 現代的演劇の基礎を土台とし、常に現代を俯瞰した作品には定評があり、劇団外での作・演出も多数。世界的ピアニスト・仲道郁代企画の異色コンサート「仲道郁代のゴメン!遊ばせクラシック」全国ツアーでの構成・演出も手掛ける。2000年、OMSプロデュース『ここからは遠い国』で、読売演劇大賞・優秀演出家賞受賞。2005年、『調教師』(作・唐十郎)を演出、東京シアターコクーン・兵庫県立芸術文化センターにて上演。2003年本拠地となっていた扇町ミュージアムスクエア閉館後、ウルトラマーケット(大阪城ホール・西倉庫)の演劇活用に邁進。著作に『内藤裕敬/劇風録其之壱(内藤裕敬・処女戯曲集)』『青木さん家の奥さん』がある。
http://www.banzai1za.jp/
ロビンフッド・楽園の冒険
ロビンフッド・楽園の冒険
糸賀一雄記念賞舞台芸術祭『ロビンフッド・楽園の冒険』
[日時]2006年11月19日
[会場]栗東芸術文化会館さきら
[作・演出]内藤裕敬(南河内万歳一座)
© 滋賀県社会福祉事業団
*秋浜悟史(あきはま・さとし)
1934年岩手県生まれ。早稲田大学文学部演劇科卒。在学中の56年に『英雄たち』を発表。卒業後、岩波映画に8年間勤務。62年から73年まで劇団三十人会に参加し、『ほらんばか』(60年)、『冬眠まんざい』(65年)、『しらけおばけ』(67年)などを創作。66年に『ほらんばか』で第1回紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞。69年『幼児たちの後の祭り』(68年)で「新劇」岸田戯曲賞を受賞。79年から大阪芸術大学舞台芸術科で教鞭をとり、また94年からは国内初の県立劇団である兵庫県立ピッコロ劇団の初代代表として、若者の指導に当たり、演出家としても活躍。98年にはピッコロ劇団の舞台成果で紀伊国屋演劇賞団体賞と芸術祭優秀賞を受賞。
2003年の退任後もピッコロ演劇学校の参与・演劇教育アドバイザーとして活躍。2005年逝去。
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Artist Interview
2007.2.16
Hironori Naito talks about 30 years of theater projects with the mentally challenged  
知的障害者との舞台づくり 30年におよぶ活動の軌跡を内藤裕敬に聞く  
2006年11月19日日曜日、滋賀県の栗東芸術文化会館さきら大ホールで「糸賀一雄記念賞舞台芸術祭」として『ロビンフッド・楽園の冒険』と題した公演が行われた。その舞台には約230人もの障害者たち(知的障害等)が、中には介助のスタッフ付きで立っていた。これは、79年から滋賀県にある知的障害者施設の「あざみ・もみじ寮」で5年に一度行われてきた寮生による「舞台発表」の活動が県全体に広がって実現したものだ。滋賀県内各地で8チームに分かれて約5年間にわたって実施されたパーカッション、合唱・リズム、ダンス、演劇表現等の活動の成果をもちより、今回はじめてひとつの舞台作品として発表した。
劇場は大きく様相を変え、客席は前3分の1が取り払われて広い車いすスペースになり、ステージの前面に出入りするための特設スロープを設置。演出家はその車いすスペースの最前列、ど真ん中に陣取り、上演中ずっとステージに向って指揮を取り続ける。出演者は基本的に全員が客席と相対するようにステージ上にスタンバイしたままで、お客さんと一緒にお芝居を見ながら、自分の番がくれば出演し、時にはスタンバイした状態で参加する。
探し物が何かも忘れてしまったペンギン達がいろいろな生き物と出会い、冒険の旅をするという物語をかりて、障害者も健常者もともに笑い、ゲームに興じ、生きている喜びをわかちあった舞台だった。全員が舞台に乗って稽古したのは公演前日の公開ゲネプロがはじめてであるにも関わらず、これだけエネルギーに溢れた舞台ができあがった背景とは? 演出の内藤裕敬に聞いた。

(聞き手:神山典士)



──舞台上で出演者の介護もしていた演出助手や施設の先生方は何人くらいいたのでしょうか。
 単純には数えられないけれど、障害の重度の人には2人の介護がついているケースもありました。舞台上で芝居の進行係をやっている演出助手(介護者)はだいたい障害者5人に1人。裏方として舞台装置の出し入れとか舞台転換をしたスタッフは舞台の上下に7、8人。彼らは芝居の台詞のフォローや動きのフォロー、あるいは舞台袖にいて危険な動きを回避するためのケアもします。持ち道具の出し捌けとか舞台転換の誘導もしなければなりませんから。
 今回集まった演出助手をはじめとするスタッフたちは、他に仕事をもっていて完全にボランティアです。だから僕は本番10日前に寮に入りましたが、それができずに本番間近になってかけつけた者もいました。

──そもそもあざみ・もみじ寮での演劇活動はどんなきっかけで始まり、なぜ内藤さんがかかわっていらっしゃるのでしょうか。
 僕の大阪芸術大学時代の恩師の秋浜悟史先生がまだ岩波映画社に在籍していた時代に、滋賀県にある重症心身障害児施設・びわこ学園の療育活動を記録した『夜明け前の子どもたち』という作品をつくるためにシナリオハンティングに訪れたのが始まりと聞いています。先生の奥様の実家が幼稚園をやっていた関係もあって、滋賀県とのかかわりができたのでしょう。
 その寮が現在の場所に移ったときに、寮生で演劇ができないかという相談を秋浜先生が受けて、最初にそれをやったのが1979年でした。それは僕が大学に入る前の話しなので、その頃のことは知らないのですが。
 ただ、その時に京都大学の児童心理学の権威の田中昌人教授が、芝居の前とあとで寮生全員に面接したのだそうです。そしたら、顕著な例では「人間の絵を描きなさい」というと顔から手足が生えるような、相当発達が遅れている子でも、劇が終わったあと描かせると首があって胴体があってそこから手足が出る絵を描いた。飛躍的な変化があるということがわかったのです。そのことから、人の発達にとって演劇体験はすごく貴重なものだということが認識されて、以降、寮の中でクリスマス会や雛祭りのときに先生の指導で小さな芝居をつくるようになり、5年に一度大きな会場で秋浜先生の指導の下で芝居をやるのがならわしになりました。
 僕が初めてこの芝居づくりに参加したのは2回目の時、ちょうど大学を卒業した1984年でしたが、秋浜先生に「ちょっと手伝え」と呼ばれたのがきっかけです。それからは5年に一度、参加するようになりました。
 その間、秋浜先生が指導した学生などが増えて、宝塚北高校生、大阪芸大生、ピッコロ劇団の人たち、そしてそのOBたちがボランティアで手伝いにきてくれるようになり、数日間かけて稽古して、徹夜で大道具をつくって、発表会をするようになりました。
 ボランティアなので無償ですが、寮に泊まれますし、食事は寮でみんなと一緒に食べられる。演劇をやっているやつらは貧しいですから、ここにくれば普段より美味しいものを食べてます(笑)。
 今回の公演では、僕は11月8日から寮に入りました。それから公演までずっといたのは15、6人で、あとのボランティアは都合がつき次第順次手伝いに入ってきました。スケジュールは午後1時半から稽古。終わってから夜中まで大道具つくり。翌日午前中は打ち合わせ。夜7時頃に誘導の稽古というサイクルでした。

──あざみ・もみじ寮では過去に5回の公演が行われたわけですね。
 そうなりますね。寮生も最初は30歳代だったけれど、今では皆60代70代になってきて、足元よろよろで危ない人も増えました。5年前にやったときに、「もう体力的に無理だ、これで最後にしましょう」と言ったのですが、終わったら寮生たちが「またやろう、またやりたいよ」と言い出して、今回につながったというわけです。社会的にはこの間、「障害者自立支援法案」ができた関係で障害者施設の予算が削減されたり、こういう取り組みに理解のあった滋賀県知事が変わったりして、決していい環境ではありません。滋賀県は第二次大戦の直後から障害者施設を建設するなど日本におけるこの領域の先駆者として尽力された糸賀先生の歴史を受け継ぐ障害者王国というけれど、厳しい状況になってきているというのが僕の印象です。
 
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