The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
川口隆夫
川口隆夫(Takao Kawaguchi)
1962年佐賀県生まれ。パフォーマー、アーティスト集団「ダムタイプ」メンバー。大学時代にスペイン語劇サークルで活動し、その後パントマイムを基礎としたムーブメントシアターのテクニック「ミーム」を学ぶ。実験演劇からダンス、パフォーマンス・アートまで数々のプロジェクトに参加。88年6月、初の自主公演として、テネシー・ウィリアムズ原作『話してくれ、雨のように』の実験パフォーマンスを中野テルプシコールで公演。同年9月から1年間、スペイン政府給費留学奨学生としてバルセロナ自治大学に留学。帰国後、90年よりダンサーの吉福敦子らとダンスカンパニー「ATADANCE」を結成、95年に解散。96年からアーティスト集団「ダムタイプ」に参加し、『OR』『メモランダム』『ヴォヤージュ』に出演する。これらの作品はダムタイプのレパートリーとして現在も海外で公演されている。2000年以降は、ジャンルを超えたアーティスト、音楽家、パフォーマーらとのコラボレーションを積極的に行いながらソロ活動を展開し、『夜色』(2001年)、『ディケノヴェス』(2003年)、『D.D.D.』(2004年)、『テーブルマインド』(2006年)などを発表。『D.D.D』は、テクノロジーと身体をテーマに作品を発表しているホーメイ歌手の山川冬樹とのコラボレーション作品で、2005年9月にクロアチア共和国ザグレブ「クィーアザグレブ・フェスティバル」、2006年6月「ヴェネチア・ビエンナーレ」、2007年6月ソウル「MODAFE 2007」、2007年7月シンガポール「エスプラネード」公演など海外でも上演されている。
http://www.kawaguchitakao.com/
view clip
川口隆夫『ディケノベス』
© Takao Kawaguchi
view clip
川口隆夫『D.D.D.』
© Takao Kawaguchi
pdf
an overview
Artist Interview
2007.8.28
Exposing his own body as a platform for art -- A look at the mixed-media performance art of Takao Kawaguchi  
自らの肉体をさらけ出し、ミクストメディア・アートに挑む川口隆夫の歩み  
医療機器を使って心臓の鼓動などの身体機能を音、光、映像表現とシンクロさせるアーティスト山川冬樹、蛍光灯の放電ノイズを増幅する“オプトロン”という強烈な光と音の装置を操るアーティスト伊東篤弘などと自らの肉体ひとつでコラボレートするパフォーマー川口隆夫。90年代のアートシーンで伝説となっているパフォーマンス/アーティスト集団「ダムタイプ」の現メンバーとしても活動する川口の軌跡に迫る。
(聞き手:石井達朗 インタビュー:2007年8月10日 協力:山口情報芸術センター)



──私が理解している川口さんには3つの側面があります。まずは、何といっても1990年代のアートシーンを席巻したパフォーマンス/アーティスト集団「ダムタイプ」に96年からメンバーとして参加されていること。2つ目は、このことを知っている人は少ないと思いますが、数年前まで「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」のディレクターを務められていたこと。3つ目はもちろん、現在、日本のコンテンポラリーダンスの世界で、さまざまな分野のアーティストたちとコラボレーションしながら、舞踊という枠を超えて画期的なパフォーマンス・アート作品を発表されていることです。今回のインタビューでは、1つ目と3つ目の面でお話をうかがいたいと思います。
川口さんはダムタイプのメンバーになる以前、80年代末から幾つかのユニークな活動をされています。自らの肉体を使って表現活動をするようになった経緯を聞かせてください。

いろいろと辿っていくと、子どものころにさかのぼりますが、幼稚園では『こぶとり爺さん』の主役、小学校では音楽会の指揮者、中学の課外授業では演劇、高校の体育祭の仮装行列では『不思議の国のアリス』のアリス役で優勝(笑)とか。ともかくどこに行っても前に出て、すごく目立つ子どもでした。
高校3年の夏にアメリカに留学したのですが、そこでも現地の生徒たちとミュージカルをやったりして、いつの間にか演劇やミュージカルがすごく好きになっていました。
大学ではスペイン語を専攻して、スペイン語演劇のサークルに入り、俳優としてロルカの『イェルマ Yerma』などを原語でやっていました。

──海外公演のための作品ノートを英語で書かれるなど、語学が堪能だということは知っていましたが、外国語学部だったとは知りませんでした。
大学時代にはアルバイトで日本に住む外国人向けの英語情報誌『Tokyo Journal』のパフォーミングアーツ欄のリスティングやリコメンデーションを書いたりしていました。そういうことを10年以上続けましたが、80年代当時の日本は、海外からたくさんのパフォーミングアーツが来日するようになり、百花繚乱ともいうべき状況でした。僕も仕事と趣味を兼ねて演劇、ダンスを問わず、いろいろな舞台をたくさん観ていました。その中で最も印象に残っているもののひとつが、86年に初来日したピナ・バウシュの『春の祭典』『カフェミュラー』です。
自分の活動としては、もちろんスペイン語劇も続けていたのですが、それだけでは飽き足らず、大学3年のときにムーブメントシアターのワークショップに参加しました。フランスの「テアトル・ド・ラ・マンドルゴール」で学んだ西森守さんの主宰していた劇団で「ミーム」というパントマイムを基礎とした表現のテクニックを学びました。面白かったので、劇団の年間を通じたトレーニングのコースに入り、2年後には本公演にも出演しました。その劇団でやっていたのは、言葉や台詞よりも身体のテクニックを主体にしたもので、演劇を身体的に分析し、パントマイムの技術を突き詰めた抽象的な表現でした。その劇団での活動は大学を卒業してからも続けました。
その頃福島県の尾瀬の玄関口にある檜枝岐という村で「檜枝岐パフォーマンスフェスティバル」が行われていたのですが、そこで水島一江さん(現在は、空間に張りめぐらせた糸をパフォーマンスしながら演奏するストリングラフィ・アーティストとして活躍)、山崎広太さん(コンテンポラリーダンサー)と一緒に長谷川六さんの作品にダンサーとして出ました。檜枝岐のフェスティバルには、当時既存の芸術の枠にとらわれない前衛的なことをやっていた人たちが多数集まってきていて、多くの舞踏家や、モレキュラーシアター(Molecular Theatre)の豊島重之さん、実験映画の飯村隆彦さん、パフォーマーの浜田剛爾さんなどもいました。僕も20代前半にして、ある意味、その洗礼を受けたと言えます。
それと同時期に、コンテンポラリーダンスの勅使川原三郎さんや、黒沢美香さんのワークショップも受けていました。黒沢さんとは、綱島のスタジオに半年ぐらい通って、最終的には彼女の作品『Eve and/or eve』シリーズに出演もしました。

──自分の作品を初めてつくったのはいつですか。それはどんな作品でしたか。
88年6月に、テネシー・ウィリアムズの二人芝居『話してくれ、雨のように』を基にした作品を中野テルプシコールでやったのが初めてです。自分で脚本・演出・出演し、その時も水島さんが音楽でしたが、リアリズムの演劇ではなく、テキストも解体して反復したり、動きも抽象的で、発声も普通ではないパフォーマンスとして自由にアレンジしました。それが今でも僕が目指す舞台の原型であるような気がします。
スペイン文学の古典から現代演劇まで勉強したくて、88年9月からスペイン政府の給費留学生としてバルセロナの大学に1年間通いましたが、大学院レベルでついていけなくて、結局劇場通いをしていました。
スペインの演劇はもちろん、パフォーマンス集団の「ラ・フラ・デルス・バウスLA FURA DELS BAUS」やロシアの前衛演劇などもよく観ました。ベルギーの「ローザスRosas」の『オットーネ・オットーネOttone, Ottone』も観ました。また、実験演劇の劇団のワークショップにも参加しましたが、バルセロナは新しいものを吸収しようとする精神が旺盛だったのでいろいろ共感できることが多かったです。
 
| 1 | 2 | 3 | 4 |
NEXT
TOP