The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
Portraying the tough but humor-filled lives of an ethnic minority   An interview with the Japan-resident Korean writer Chong Wishing
マイノリティたちのタフでコミカルな生き様を描く在日コリアンの人気作家・鄭義信
『冬のひまわり』
初演年:1999年
文学座公演
12月30日の昼下がり。潮騒とカモメの鳴く声が聞こえる、民宿「かもめ莊」。季節はずれの民宿で暮らす、いわくあり気な人々。捨てられた女、男を愛する男……孤独で、そして身勝手な彼らのストーリーが、喜劇タッチで描かれる。


『ロはロボットのロ』
初演年:2001年
オペラシアターこんにゃく座公演
舞台が明るくなると、四方八方から「ギイ、ガチャガチャ」とロボットたちが現れる。ここはウエストランド。パンが上手に作れなくなったパン製造ロボットのテトは、自分をつくったドリトル先生に直してもらうため、イーストランドを目指して旅に出る……。1台のピアノの演奏に合わせ、8人の出演者が30役以上を演じる、ノスタルジックなオペラ作品。


『杏仁豆腐のココロ』
初演年:2002年
海のサーカス公演
クリスマス・イブ。中年夫婦の別れ話。父親から継いだチンドン屋を切り盛りしていた女と仕事がなくて主夫をしていた男は、チンドン屋の廃業を機に別れることに。ふたりはおどけたり、ふざけあったり、笑ったりするうちに、互いに伝えきれなかった想いが溢れ出し、真実が明らかになっていく。2000年のクリスマスに一夜限りの企画として上演されたが、観客の支持により「海のサーカス」のレパートリーとして毎年再演を続けている。
映画館の暗闇から光さす演劇の舞台へ

──同志社を中退した後、横浜にある日本映画学校(当時は横浜放送映画専門学校)に入学します。
映画をみているうちに、ああ、スクリーンの向こう側へ行ってみたい、映画の仕事で生きていけたらと思うようになって。映画学校に2年通い、それから映画会社の松竹で装飾助手を経て美術助手をやりました。その頃、黒テントに在日コリアンの先輩がいて、誘われて、当時、黒テントがやっていた「赤い教室」というワークショップに参加しました。
「演劇は誰にでもできる」とのスローガンのもとに、主婦や素人のおじちゃんたちがいっぱい来ていて、「これはこれでおもしろいな」と。「赤い教室」の卒業公演のときに、山元清多さんが演出したんですが、僕、いきなり主役やることになって。全然できなくて、山元さんに随分とダメ出しをもらいました。役者をやろうなんて全然思ってなかったですからね。山元さんに「おまえは(人間じゃなくて)機械の言葉を喋っている」と云われて。今でもよく覚えています。それでその公演が終わったときに山元さんから「おまえ、黒テントに入るだろ」と云われて、「はいっ」て二つ返事で応えてしまった。ね、流されるままでしょ(笑)。
黒テントでは、女優の金久美子(キム・クミジャ)が印象深いです。『西遊記』をみたときに、久美子だけ仮面をかぶっていなくて、ああ、何て綺麗な人なんだと思った。僕と同じ在日ですし。残念ながら彼女は2004年に亡くなってしまいました。

──黒テントの公演は以前からみていたのですか。
高校生のとき、姫路で『阿部定の犬』の公演があったんです。僕はひとりでみに行って、ラスト、黒テントが外に向かって開くシーンでは興奮しました。演劇は初体験に何をみたのかが大きいと思いますが、僕の場合は、唐十郎さんの紅テントではなくて、佐藤信さんや山元清多さんたちの黒テントだったんです。ちなみに、初めてみた紅テントの公演は『女シラノ』でした。

──黒テントに入ってすぐに処女戯曲『愛しのメディア』(86年)を書いています。
「タイタニック・プロジェクト」という黒テントの新人育成企画がありまして、どういうわけか僕が選ばれて台本を書くことになったんですが、先輩たちが「おまえが書いたホンなんだから自分で演出もしろ」と。そんなつもりはなかったし、スタッフも自分が集めなくちゃいけなくてとても苦労しました。

──でもそこで鄭さんが選ばれたのは、すでに何か、持っているものがあったんでしょう。黒テントをきっかけに演劇の世界に入り、退団後、1987年に先ほど話が出た金久美子や状況劇場にいた金守珍らと新宿梁山泊を結成します。『千年の孤独』(88年)や『映像都市(チネチッタ)』(90年)、『人魚伝説』(95年)など数々の傑作を発表された後、現在はフリーで小劇場からミュージカルまで実に幅広い仕事をされています。鄭さんの作品に共通するのは「こういう人はいるな」「こういう場所はあるな」「こういう時代があったな」という“想い”です。ご自分の生いたちや姫路の原風景がその想いに投影されて、そこからリアリティが立ち上がってくる。
昔は、自分の生いたちとか、「在日」の話とか、そういった自分の身の回りの話を書くことには、凄く特殊なところにそれを押しこめて書かないと受け入れてもらえないんじゃないかと思っていました。それが、93年にヤン・ソギルさんの原作をはじめて脚色させてもらった映画『月はどっちに出ている』がヒットしたのを契機に、映画の中に韓国人・朝鮮人が出てくるのが当たり前になってきました。“韓流ブーム”もあったし。韓国人や朝鮮人がそのまま出てきてもすんなり受け入れてもらえるように変わってきたんです、時代の流れが。
もちろん、マイノリティであることを卑下する必要もないし、そのことを誇張する必要もない。今は、自分にとって等身大に近い人たちをそのまま書いていけばいいんだと思っています。かつての新宿梁山泊時代を知る人たちには、劇作が凄く変わったと思われているようですが、描く絵が少し変わっただけで、自分自身の根底は変わっていないと思います。

「在日コリアン」の作家として

──鄭さんは韓国籍ですか。
元々は朝鮮籍でしたが、『千年の孤独』を韓国で公演するときに韓国籍に変えました。その後、家族も全員韓国籍に変わりました。父親もいろいろありましたけど、韓国に墓を建てるというので韓国籍にしました。日本人の多くが誤解していると思うのですが、朝鮮籍の人間は、北朝鮮の人間というわけではありません。1947年に外国人登録令が発せられた当初は、すべて「朝鮮」籍であったのが、1948年に大韓民国が樹立され、「朝鮮」から「韓国」に切り替えていく人が次第に増えていったんです。韓国籍に変えなかったからそのまま朝鮮籍という人が多い。父親も元々、忠清南道というソウルから少し離れたところの出身です。「朝鮮」籍を有する、ほとんどの「在日」が地理的に韓国出身の人たちではないでしょうか。

──在日コリアンの作家の先行世代というと、つかこうへいさんが有名ですが、つかさんのことを意識されたことはありますか。
ちょうど今、つかこうへいさんの劇団に所属していた石丸謙二郎さんと一緒に芝居(『僕と彼と娘のいる場所』)をやっていますが、石丸さんが出演された『寝取られ宗介』(82年)と、他にもう1本ぐらいしかつかさんの芝居はみていません。僕にとっては、やっぱり黒テントや状況劇場ですから。

──つかさんは『娘に語る祖国』(90年)を出されて自分が在日コリアンだということを告白されたのですが、韓国で『熱海殺人事件』を上演したときは韓国語が話せないということで、かなりつらい思いをされたと聞きます。
僕も韓国語は話せないのですが、ずいぶん時代状況が変わったので、わりと温かく迎えてもらっています。
実は12月に僕の戯曲集が韓国で初めて出版されることになり、金久美子のために書いた『アジアン・スイーツ』から始まって、『人魚伝説』『20世紀少年少女唱歌集』『冬のサボテン』『秋の蛍』と、いろいろな傾向の作品を収録しています。公演もいくつかやっていて、新宿梁山泊時代にやった『千年の孤独』と『人魚伝説』とくに『人魚伝説』は300人入ればいっぱいのテントに700〜800人もお客さんが来てくれて、びっくりしました。文学座の松本祐子さんが韓国の俳優を使って上演したのですが『20世紀少年少女唱歌集』も凄く評判がよかったです。それから、『杏仁豆腐のココロ』、こんにゃく座の『ロはロボットのロ』、わらび座の『響』とここ数年、毎年、韓国で公演が行なわれています。今年もこれから『冬のひまわり』の国立劇場公演が予定されています。ようやくそういう状況(日本の現代文化が自由に紹介できる状況)になってきたのではいでしょうか。
 
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