The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
ひびのこづえ
ひびのこづえ(Kodue Hibino)
コスチューム・アーティスト。1958年静岡県生まれ。82年東京芸術大学美術学部デザイン科視覚伝達デザイン卒業。88年のデビュー以来、雑誌、ポスター、テレビコマーシャル、演劇、ダンス、バレエ、映画など幅広い分野で、ファッション・デザイナーと異なる視点で独自のコスチュームをつくり続ける。1984年、日本グラフィック展・奨励賞受賞。1989年、日本グラフィック展・年間作家新人賞受賞。1995年、毎日ファッション大賞・新人賞、資生堂奨励賞受賞。1997年に作家名を内藤こづえより、ひびのこづえに改める。
2007年8月〜10月、茨城・水戸芸術館現代美術センターにて「ひびのこづえの品品 たしひきのあんばい」を開催。20年に及ぶコスチューム・アーティストとしてのキャリアの集大成とし、家具や生活用品のデザインへの新たな展開を見せる大規模な展覧会となった。
NODA・MAP第13回公演『キル』
(2007年12月〜2008年1月/Bunkamuraシアターコクーン)
作・演出:野田秀樹
衣裳:ひびのこづえ
キル
キル
キル
キル
キル
キル
キル
撮影:谷古宇正彦
NODA・MAP第1回公演『キル』
(1994年1月〜2月/Bunkamuraシアターコクーン)
作・演出:野田秀樹
衣裳:内藤こづえ(現ひびのこづえ)
キル
撮影:伊東和則
pdf
an overview
Artist Interview
2008.1.22
play
Pioneering a new realm of creative design   The world of costume artist Kodue Hibino  
造形的なデザインで新たな世界を開拓 コスチューム・アーティスト、ひびのこづえの感性とは?  
雑誌文化が時代をリードした80年代、その表紙を飾った造形的でポップな衣装により、一躍時の人となったコスチューム・アーティストのひびのこづえ。日本で唯一、コスチューム・アーティストを名乗り、1990年からは同じく80年代の感性を代表する演劇人として一世を風靡した野田秀樹の舞台衣装を担当し、時も所も特定できない彼の架空の世界を表現してきた。また、映画、テレビだけでなく、新演出歌舞伎の衣装にも新風を吹き込み、近年は家電のデザインにもチャレンジするなど、軽やかな感性で活躍の場を拡げている。活動20周年で大規模な展覧会を終えたばかりのひびのこづえに、その感性の歩みを聞いた。
(聞き手:大堀久美子)



──ひびのさんは現在、「コスチューム」を中心に幅広いデザイン・ワークを手掛けていらっしゃいます。どういう経緯でデザインに興味をもつようになったのですか。
子どもの頃から絵を描くのは好きだったのですが、仕事にも就けないで油絵を描いているみたいなのは違うと感じていました。最初は漫画家になりたかったぐらいだから、それが仕事になるようなことがしたかったのですが、私の子どもの頃は情報もあまりないし、デザインという言葉もそういう仕事があることも知らなかった。
たまたま同級生のお姉さんに芸大のデザイン科を受験する方がいて、遊びに行った時に「デザインは面白い」という話を聞いて、ふうん、そういうのが仕事になるんだと、興味をもったのがはじまりです。 

──東京藝術大学美術学部デザイン科に進まれますが、大学ではどのようなことを学ばれたのですか。
芸大というところは、大きな意味で「表現すること」は教えてくれるのですが、デザインのハウツーやスキルのようなものは授業に組み込まれていない。それが逆によかったとも言えますけど。ですから、大学で一番大きかったのはやっぱり友達との出会いですね。同世代なのに、自分にはない知識や個性を持った友人たちと話すことで、新しい情報や刺激を次々に受けました。
私が大学生だった80年代は、ポップアート全盛期で、アンディ・ウォーホルやリキテンシュタイン、映画では『アメリカン・グラフィティ』などアメリカン・カルチャー一色で、世の中も楽しい雰囲気が溢れていた。大学の中にこもって絵を描いている場合じゃない、街に出ればいくらでも新しく刺激的なことに出会える、そういう時代だったと思います。ファッションもDCブランドが出たてのころで、それまでは「アイビーか普段着」のような選択肢しかなかったのが、一気にいろいろなデザインの洋服が出てきました。

──その頃、大学の友人たちと一緒に「ダイアモンド・ママ」というグループを作り、創作活動をしていたそうですね。
グループ名は日比野(克彦。こづえ氏のパートナー)がつけてくれました。所属していたのはみな、大学というアカデミックな場になじめず、教授陣から“目の上のたんこぶ”扱いされていた生徒ばかり(笑)。何回かはグループ展を開いたりもしましたが、どちらかといえば集まる口実というか、サロンのような集まりで、私にとっては刺激を受ける良い環境でした。
そんなことばっかりやって、本当に楽しいだけで大学4年間を過ごしてしまい、初めて現実の厳しさに触れたのは卒業直前。就職先を探す段になり、私は広告代理店を受けるつもりだったのですが、募集枠もない状況に気づいてショックを受けました。
結局、当時はやっぱり雑誌が面白かったので、気になっている雑誌を刊行している出版社をいくつか回りました。その時も「自分の好きな雑誌に関わる仕事ができたらいいな」というぐらいの軽い気持ちで、それほど危機感もありませんでした。就職先を探すというより、自分が気に入っているものはどんなふうに作られているのかを、自分の作品ファイルを見せながら話を聞かせてもらう、という感覚でしたね。

──その頃は、洋服やファッションへの興味はあったのですか。
それほど明確なものはありませんでした。先ほども話したようにDCブランドの誕生や、アメリカの古着文化が入ってきたのを目の当たりにし、「洋服って面白いな」とは思っていました。卒業制作では作品として、洋服の柄のようなものを発表したのですが、あの時点ではイラストレーターや誌面のレイアウト・デザイナーになれたら、と思っていただけです。

──仕事として「服」にまつわる創作(デザイン)をはじめられたのはいつからですか。
実は記憶が定かじゃないんですね。卒業してから、日比野がパフォーマンスをするときの衣装を手掛けたり、舞台を観に行って知り合った小劇場の「ブリキの自発団」の衣装を手伝ったりはしていたのですが、本当にいつの間にか仕事になっていた、というのが正直なところです。
自分の年譜では「88年よりコスチューム・アーティストとしての仕事を始める」と書いていますが、それも自分の気持ちのうえで整理がついたのがその頃、というだけです。その年に、イラストや他のジャンルでの創作など色々やっていたことをすべてやめて、「洋服一本でやろう」と心に決め、仕事として洋服の創作(デザイン)をはじめました。

──どうして洋服の創作(デザイン)だけをやろうと決意したのですか。
簡単に言うと、他は才能がないと思ったんでしょうね(笑)。洋服を私みたいに創作(デザイン)する人は他に見たこともなかったし、何かいいんじゃない(笑)、という感覚的なことです。洋服以外の仕事には何かストレスを感じるんだけど、洋服には自分のオリジナリティが出せているような気がしたし、自分がやりたいことが出来ているように思えたんです。仕事とはいえ、精神的に楽しかったというのは大きいですね。
それで「コスチューム・アーティスト」と名乗ったのですが、そういう名前にすることで、“何でもできる、やっていい”という余白(自由度)もできるような気がしました。舞台衣装もつくっていますが、正直に言うと、デザイン科で勉強して広告的な仕事を希望したのが出発点ですから、舞台衣装家になるというつもりでは全くありませんでした。

──初期の代表作として有名なのが、情報誌「とらばーゆ」(※リクルート社が1980年に創刊した女性対象の週刊転職情報誌)の表紙です。ひびのさんが造形したパステルカラーの立体的なコスチュームを着たモデルを撮影したこの表紙は、当時の雑誌文化の中でも特筆すべきものとして高く評価されています。モデルを「生きたオブジェ」のようにする雑誌の仕事と、「動くこと」を前提にする舞台衣装の仕事は全く異なるものだと思います。
私の創作にとっては、どちらも基本的には同じです。だから舞台の仕事を始めたばかりの頃は、舞台衣装なのに重くて動きづらいものを平気で作り、俳優さんたちを大変な目に遭わせてしまった(笑)。そういった苦情は直接私の耳には入らないのですが、一番長くお仕事をしている野田秀樹さんからは、「本当に暑い」「動きにくいなぁ」と、たまに愚痴をこぼされることもありましたね。それを聞いて「次はもっと薄手に作ろう」とか、少しずつ舞台衣装向きの作り方を身に着けていきました。発想に違いがあるとすると、舞台衣装にはストーリーやキャラクターがある、という部分だけです。
 
| 1 | 2 | 3 |
NEXT
TOP