The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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天児牛大
©Yuji Arisugawa
天児牛大(あまがつ・うしお)
http://www.sankaijuku.com/
『金柑少年』
[初演]1978年/日本消防会館ホール
金柑少年
金柑少年
金柑少年
金柑少年
金柑少年
©SANKAI JUKU
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an overview
Artist Interview
2009.2.28
dance
The unending challenge of butoh artist Ushio Amagatsu, a leader in the international dance scene for over 30 years  
30年以上にわたり世界のダンスシーンを牽引 舞踏家・天児牛大のあくなき挑戦  
天児牛大が、麿赤兒率いる舞踏集団・大駱駝艦から独立して<山海塾>を設立したのが1975年。たった4人の男性メンバーによってひそやかに立ち上げられたこのカンパニーは、77年に『アマガツ頌』で旗揚げを行い、78年に出世作『金柑少年』を発表。80年には早くも海を越えてフランスへと飛び立つ。そして渡欧1年目にして、春のナンシー・フェスティバル、夏のアヴィニヨン・フェスティバル、秋のボルドー・シグマ・フェスティバルを制覇。またたくまに欧州全土にSankai JukuとButohの名を広めていく。また82年からパリ市立劇場との共同製作公演を開始。以後、2年に1度のペースでこの劇場を拠点に新作を発表し、2006年度の朝日舞台芸術賞グランプリを受賞した『時のなかの時―とき』や最新作『降りくるもののなかで―とばり』など、今も四半世紀以上にわたり共同製作を続けている。現在までヨーロッパ、アジア、アメリカ、オセアニアと、世界43カ国延べ700都市以上での公演を敢行。「ル・モンド」のコレット・ゴダール氏がナンシー・フェスティバルで山海塾の舞台を初めて目にし、「息つくことも忘れてしまう、2時間の途方もない旅」と称してから30年あまり。加速も減速もせず、淡々と自らの舞踏哲学に従い創造の旅を続ける天児牛大に話を聞いた。
(聞き手:岩城京子)



──山海塾は80年に初めて欧州へと渡り、2年後の82年からは早くもパリ市立劇場との共同製作(コ・プロデュース)が始まります。極東から出てきた若いプライベート・カンパニーに対して、なんと勇気のある破格のオファーを持ちかけるのだろう、と当時は驚かれたのではないでしょうか。
 今でも、オファーをいただいた時のことはよく覚えています。確かあれは81年。パリ市立劇場のディレクターであるジェラール・ヴィオレット氏とコンサルタントを務める故トーマス・エルドス氏が連れだって、私たちがその時『金柑少年』を上演していたリヨンの劇場を訪れてくれた。そして『金柑少年』ともう1本新作をやらないか、もちろん新作に関しては共同製作というかたちを取らせてほしい、と依頼してきたのです。けれど……これは今となっては笑い話でしかないのですが、当時の私はパリ市立劇場のことをそれほどよく知らなかったので「ちょっと考えさせてほしい」とその場ですぐに承諾することを渋った。後年、ヴィオレット氏には、「うちからの依頼を受けて考えたいと言ったのはおまえが初めてだったよ」と笑われました。
 今改めて振り返ってみると、最初の出逢いからここまでパリ市立劇場との共同製作が続くとは思いもしませんでした。26年で12作、ストレートに言ってすべてが大成功だったとは思いません。それでも絶えずオファーし続けてくれたヴィオレット氏には心から感謝しています。声をかけ続けてくれたことにより、拠点のない我々のようなプライベート・カンパニーを支え、育ててくれたように思います。正直、今の山海塾は、パリ市立劇場をはじめとするフランスの文化基盤に支えられてきたからこそ、存続してこられたように思います。あくまでも仮の話ですが、私が80年にフランスに渡る決断をせず、そのままずっと日本にい続けていたら、早々に踊りをやめていたかもしれません。

──そのヴィオレット氏が、昨年末に退任されました。代わりにディレクターに就任されたのは演劇畑出身の三十代の若手演出家。今後、山海塾とパリ市立劇場との関係はどのように変容していくのでしょう。
 現段階ですでに2010年の春シーズンに新作を発表することは決定しています。喜ばしいことに新ディレクター、エマニュエル・ドマーシー=モタ氏の下でも、コ・プロデュースの関係性は継続できるように思われます。ただ、山海塾は別に劇場とフランチャイズ契約を結んでいるわけではありません。今までも、これからも、先々がどうなっていくかの保証はない。あるのは毎回新作を発表した時点での、クリエーションの出来映えによって下される、ディレクターの冷静な判断だけです。
 そのジャッジにアーティストとの個人的癒着はまったく介在しません。共同製作の関係が何年続いていようが、新作のクオリティがあまりにも良くなければ、それっきりということになる。実際に私は、パリ市立劇場から依頼を受けた若いカンパニーが、先方の望んでいるインプレッションある作品を提示できず、その後、声が掛からなくなった例をいくつも知っています。すべては作品の良し悪しのみの結果論。とても厳しくクリアな世界です。

──判断するディレクターにも重大な責務が伴ってきますね。
 そうですね。だからこそ彼らは、見る、聞く、会うことを非常に重視します。そしてプロフェッショナルとしての自負をもって、自分の目と耳で判断して、納得のいくものだけをプログラムに組んでいく。そう考えると、山海塾が82年以後、パリ市立劇場でワールド・プルミエール(世界初演)を続けてこられたことはとても意味のあることだったと思います。やはりどれほど素晴らしい作品を創ったとしても、ファーイーストで上演される舞台を、欧州のディレクターたちに目にしてもらうことは難しいですから。定期的にパリで上演して見続けてもらえたからこそ、山海塾はこれだけ世界に活動の場を拡げられたのだと思います。
 ちなみにフランスの劇場は、地方であれどこであれ、そのほとんどが税金で賄われています。ですから半端な作品を上演し続ければ、プログラムを組んでいるディレクターが、観客の矢面に立たされます。ものを生み出すアーティストがいて、それをジャッジするディレクターがいて、さらにそれを判断する観客がいる。この国では個々の役割がとても明解。だからこそ、私自身も他の雑事に惑わされず、自分としてやるべきこと──つまりクリエイターとしてクリエーションに徹底して向き合うこと──に集中していくことができたように思います。

──初の欧州ツアーで最も多く上演された『金柑少年』では、本物の孔雀を抱いたソロが披露されたり、千数百匹のマグロの尾が壁面に打ちつけられたりと、斬新な演出が多用されていました。初めて山海塾を目にした時の、欧州のダンス関係者の反応はいかがでしたか。
 当時のフランスの現代舞踊の主流は、15分足らずの小品を並べて連作として見せるというモダンダンス的なもの。そうした状況下で、突如、ドイツに現れたのが、ピナ・バウシュによるタンツ・テアターでした。彼女はそれまでのダンス界に全くなかったもの、つまり壮大な舞台美術で空間をつくり、切れ目のない数時間の大作を発表する、という新風を吹き込んだのです。
 このような新しい潮流が生まれていた頃だったので、私が80年に初めてナンシー・フェスティバルで取材を受けたときには「あなたのやっていることはタンツ・テアターに近いのか?」という質問を受けました。確かに山海塾の作品は、舞台美術を使い、空間をデザインし、一本の長時間な作品を提示するという意味ではタンツ・テアターに似た側面があります。けれど私のダンスへの入り方はやはりピナとは異なる。私のダンスへの入り口は間違いなく舞踏にある。そこで、以後、取材でこのような質問を受けた場合には、先達の土方巽さんや大野一雄さんの名前をあげて「私のやっていることは舞踏です」とレスポンスしていくことにしました。
 
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