The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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鈴木ユキオ
鈴木ユキオ(すずき・ゆきお)
1972年生まれ。1997年アスベスト館にて舞踏を始め、室伏鴻などの作品に参加。2000年より「金魚」として活動を開始。切実な身体を並べた、ドキュメンタリー的演出・振付方法が注目を集める。近年は東京シティバレエ団ダンサーへの振付や「アジアダンス会議」参加など、振付家としての活動も幅広く展開。また、舞踏のメソッドを基礎にワークショップも実施。身体を丁寧に意識し、自分だけのダンスを作り出すプログラムを各地で開催している。2003年STスポットよりラボアワード受賞。2004年セゾン文化財団ネクストネクスト公演ファイナル参加。2005年度セッションハウスレジデンスアーティスト。2007年京都芸術センター舞台芸術賞2007ノミネート。トヨタコレオグラフィーアワードでは、2005年にオーディエンス賞、2008年に次代を担う振付家賞(グランプリ)を受賞。
http://www.suzu3.com/
『言葉の先』(2008年)
演出・振付:鈴木ユキオ
出演:鈴木ユキオ、安次嶺菜緒、やのえつよ、川合啓
言葉の先
言葉の先
言葉の先
言葉の先
©Shinsuke Hatashima
『沈黙とはかりあえるほどに』(2007年)
演出・振付:鈴木ユキオ
出演:横山良平、安次嶺菜緒、原田香織、鈴木ユキオ
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沈黙とはかりあえるほどに
©Yohta Kataoka
沈黙とはかりあえるほどに
©Takayoshi Susaki
沈黙とはかりあえるほどに
沈黙とはかりあえるほどに
©Shinji Kubo
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an overview
Artist Interview
2009.3.31
dance
The new realm of contemporary dance pioneered by Yukio Suzuki, an inheritor of the compelling body movement of butoh  
舞踏の切実な身体の継承者 鈴木ユキオが切り開く新たなコンテンポラリーダンス  
2008年度トヨタコレオグラフィーアワード「次代を担う振付家賞」を受賞、今、最も注目される振付家・ダンサーの鈴木ユキオ。アスベスト館(舞踏の創始者故・土方巽の拠点)の「からだの学校」や室伏鴻から舞踏を学び、鍛え上げられた自らの身体をもとに生み出す作品は、切実で緊張感に満ちている。自らが率いるカンパニー「金魚」で活動を行い、ソロ、ミュージシャンとのコラボレーション、グループ作品を発表するほか、室伏が率いるKo & Edge Co.にダンサーとしても参加。1972年生まれの鈴木がどのようにして舞踏と出会い、何を目指しているのか。その舞踊観に迫る。
(聞き手:石井達朗)



──鈴木さんは1997年からアスベスト館で舞踏を始めます。鈴木さんの活動の原点はそこにあると思いますが、それ以前に何かダンスに関わるようなことをやっていたのですか?
 高校生まではサッカーをやっていて、スポーツ少年でした。生まれは静岡で、1990年代の初めに東京の大学に行くために上京し、最初に出合ったのが映画でした。寺山修司の映画やデヴィッド・リンチの作品、ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』などに夢中になり、自分で撮りたいと思うようになりました。でも映画を撮るのにはお金がかかるような気がして、身体ひとつでできる役者をやろうと、小さな劇団に入りました。そこで2年ぐらい芝居をやったのですが、何か、セリフに違和感があって……。特に稽古で即興の演技をする時など、抵抗感があって言葉が上手く出て来ない。元々人と喋るのが得意ではなかったし、絶叫するような演技に照れもあったのだと思います。
 そんなときに、劇団の仲間が、「舞踏」という凄いものがあると教えてくれたわけです。舞踏が何なのか全く知らなかったので、公演を探して観に行ったのですが、それは面白くなくて、凄いとはとても思えなかった(笑)。その時にもらったチラシの中に、アスベスト館のワークショップのお知らせが入っていたのを偶然見て、自分で試せば凄さがわかるんじゃないかと、参加することにしました。
 そのワークショップは2カ月ほどの連続企画で、色々な舞踏家が指導してくれるというものでした。土方と競演していた大野一雄さんにも教えていただきましたし、大野慶人さん、笠井叡さん、玉野黄市さん、山本萌さんなど、みなさんそれぞれが確固たるスタイルをもった、錚々たるメンバーが入れ替わり立ち替わりでアスベスト館に来て指導してくださいました。舞踏だけではなく、写真家の細江英公さんによる写真のワークショップもありました。

──土方巽が亡くなってから夫人の元藤燁子さんがアスベスト館で始めた「からだの学校」に参加したわけですね。舞踏だけでなく各界の素晴らしい講師陣を呼んで、少人数制の寺子屋スタイルでやっていました。土方が生きていた時代のアスベスト館は彼が帝王として君臨していたわけですが、彼が亡くなり元藤さんの時代になってからは、おおらかなスタイルで運営されていたと思います。それが鈴木さんと舞踏との出合いなのですね。
 その時に実際に舞踏を体験して、身体を使うのは面白いと感じました。すべてが新鮮でした。例えばバレエだったら凄いと思ってもすぐにはできないけど、舞踏は違う。ただ身体があればいい。声を出したければ出せばいい。大学は結局中退して、バイトをしながらアスベスト館に通う状態が続きました。97年〜98年、24歳ごろのことです。大学に行っていた頃は引きこもりがちで、本ばかり読んで頭でっかちになっていた。舞踏の人たちは言葉を大切にするところがありますが、そういう舞踏で身体を動かすことによって、言葉(頭)と身体の関係がしっくりきたような気がしました。

──そこで実際に人前で踊るという経験をするのですね。
 元藤さんの作品にかなり出させていただきました。土方巽の十三回忌と重なったこともあって、水戸芸術館や愛知芸術センターなどでの公演に参加しました。元藤さんと、大野一雄さん、慶人さんの3人がメインで踊られて、僕らはオブジェとして出たり、ちょっと群舞的なことをやったりしました。裸でずっと立ってるだけとか、ジャンプしてるだけとか、色々ありましたね(笑)。
 それから生徒たちで小さな自主企画公演をやるようになり、自分の小作品をつくるようになりました。その後、大駱駝艦を辞めた人が結成したグループ「大豆鼓ファーム」「サルヴァニラ(SAL VANILLA)」「若衆(YAN-SHU)」などに参加しました。そこで初めて大駱駝艦系の稽古の仕方を経験して、またひとつカルチャーショックを受けました。

──大駱駝艦系の舞踏は、ある種の厳格なフォルムを通して作品をつくっていきます。それは、鈴木さんが元藤さんや大野一雄さん、慶人さんから学んだ舞踏とはかなり違うものですよね。
 はい。アスベストで身に付けたものより、もっともっと“形”や“群舞”があるというか……。最初によく言われたのが、「やっぱりオマエはアスベストだよな」と。それがすごくコンプレックスで、初めは苦労しました。でも徐々にその楽しさもわかってきて、実際に大駱駝艦に入って勉強したほうがいいのかと思った時期もあったのですが、「オマエは染まりやすいから行かないほうがいい」と助言してくれた人がいて。それがなかったら、今頃、大駱駝艦のメンバーとして踊っていたかもしれません(笑)。

──何人かの違った先生からいわゆる「舞踏」の手ほどきを受けた後、自分が舞踏という領域の中で表現者としてやっていこうと意識したのはいつからですか。何かきっかけがあったのですか。
 大駱駝艦出身の人たちは“一人一派”という、皆、独立して自分の表現を追求するという考え方をもっていて。当時参加していたサルヴァニラでも、ここを踏み台にすればいい、自分のやりたいことをやればいいと言ってくれていたので、並行してソロ公演をやるようになりました。98年ぐらいから定期的にやって、2000年には仲間に声を掛けて、「ブルドッグエキス」という名前でカンパニー活動をスタートしました。メンバーはアスベストと、大駱駝艦系で知り合いになった人たちです。バンドやろうかな(笑)、みたいな感じで、バンドのノリを身体で表現するグループをつくろうと思いました。その頃、自分に課していたのは、年に1回グループ公演とソロ公演をちゃんと打つということ。それ以来、公演は欠かしていません。

──その時、自分のやっていることは「舞踏」だという意識はありましたか。
 実は、僕は舞踏がダンスだということを知らなかったんです(笑)。舞踏は舞踏、ダンスはダンス、演劇は演劇だと思っていた。でも海外に行くと、舞踏ダンサーと言われるし、だんだん、舞踏はダンスなんだというのがわかってきた。舞踏を始めた最初の頃は、単純に、白塗りをして、舞踏の身体に成るだけで満足していたところがありました。けれども次第にそういう形ではなくて、自分の踊りを踊りたいと思うようになり、ブルドックエキスを始めた時は、白塗りもせず、普通に服を着て、舞踏とは全く違うことをやろうとした。でも、お客さんは舞踏の仲間ばかりだったので、何これ?って、わかってもらえなかった。
 
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