The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
梅田哲也
梅田哲也(うめだ・てつや)
https://www.siranami.com/
festival communimusica 04 "Experimental Intersound
(2004年/山口情報芸術センター[YCAM])
(C)Tetsuya Umeda
『門』
(2008年3月/アーカススタジオ)

門
Photo: Yosuke Kawamura
『0才』
(2014年2月〜3月/大阪市西成区山王一帯)

0才
0才
Photo: Ujin Matsuo
0才
Photo: Yasutake Watanabe


(C)Breaker Project
『Composite:Variations/Circle』
(2017年5月)

Composite
Composite
Composite
©Titanne Bregentzer
フィリピン・マウンテン州カヤン村でのワークショップ(2014年10月)
カヤン村
カヤン村
Photo: Yasutake Watanabe
Artist Interview
2017.7.14
play
The Wonderland of Tetsuya Umeda Creating “situations” to generate “phenomena”  
“状況”をつくり、“現象”を起こす梅田哲也のワンダーランド  
梅田哲也は1980年生まれの大阪在住のアーティスト。2000年代初頭から、水や石、電球や扇風機など、日常生活にありふれた物を用いて、それまでに見聞きしたことのない音や動きを発生させる“現象”をつくり出すライブ・インスタレーションを展開。美術館やギャラリーなどではインスタレーションと言われ、劇場や音楽フェスティバルではパフォーマンス=演奏と呼ばれる彼の表現は、ジャンルを自由自在に横断しつつ、その場を共有した人々に独特の体験を残してきた。また、近年ではミュージシャンのテニスコーツ、アーティストの雨宮庸介、さわひらき、ダンサー・振付家の捩子ぴじん等との共演のほか、さまざまな参加者とともに“現象”をつくりだすプロジェクトを展開。2017年5月には先鋭的な舞台芸術を紹介することで知られるベルギーのクンステン・フェスティバル・デザール2017の招きで、ブリュッセルに住む出自の異なる人々とともにパフォーマンスを行い、異彩を放った。物や人とともに“現象”をつくり出す梅田哲也の表現について、原点から辿るロングインタビュー。
聞き手:山下里加[アートジャーナリスト]

観客のいないライブハウスから始まった

──そもそも創作を意識し始めたのはどの辺りですか。

 小学校の低学年時代までを熊本県の天草列島のいちばん先端の島で過ごしました。家にはテレビがなく、周りにあるのは虫や動物、山や川、海など自然だらけで、小さい頃はみんなとサッカーや野球をするのではなく、ひとり遊びばかりしていました。“探検”と称して崖や洞窟などあちこち出かけて行っては、何度か危ない目にあって死にかけました(笑)。石とか木とか、そこら辺の物を触って勝手におもちゃをつくっていましたね。
 大阪には大学に入学した98年から住んでいます。当時は映画の真似事をしながら映像作品をつくっていました。この頃の大阪はクラブカルチャー全盛期で、大小いろいろな店があったので、お金がなくてもけっこう簡単に自主興行でイベントができた。それでそこに物を持ち込んでやるようなパフォーマンスをはじめました。

──映像作品でも美術作品でもなく、パフォーマンスから始まったのですか。
 はい。当初は8ミリ映画をつくっていたのですが、フィルム代や現像代が高いのでやめてしまいました。発表をするのにギャラリーを借りるのもお金がかかる。だけど、イベントベースのクラブだったら、何人かでお金を出し合えば安く借りることができて、多少お客さんが来てくれたら元手ぐらいは回収できた。だから自然とパフォーマンスをやるようになりました。とは言っても、僕自身は人前に出て何かを演じたり、演奏したりするのは苦手だったので、ゴミ(物)を持ち込んでそれを組み合わせて観察するみたいな、まあ今とあまり変わらないことをやっていました。

──当時、影響を受けた人はいますか。
 明らかに影響を受けたのは日本のオルタナティブバンドのボアダムズ(BOREDOMS)です。これは大阪にいたら避けて通れなかった。90年代から2000年代まで続く関西のオルタナティブ・ロックの盛り上がりの流れをつくったのがボアダムズだったと思います。活動も独特で多岐にわたっていて、インディペンデントな活動のまま海外でも爆発的な人気を得ていました。
 学生の頃に友人が関わっていたイベントで、ボアダムズのリーダーの山塚アイに出演をオファーしたことがあったらしいのですが、そのときの山塚さんの返事が「ギターとベースと洗濯機を用意して」だったんです。それを聞いた時に、僕は頭の中にギターとベースがものすごい爆音のノイズを鳴らしながら洗濯機にかけられているイメージが浮かんで、「そんなのもありなのか」ってワーッとなってしまった。「何でもやっていいんだ!」という開放感があった。結局、そのイベントは山塚さんを呼べなくなってしまったので、本当のところ何をしたかったかは謎のままですが。ボアダムズは周辺のメンバーの活動も含めて、とにかく自由を感じる風通しのいい雰囲気がありました。その意味でものすごく影響を受けていると思います。もちろん彼らの音も大好きで、CDもよく聴いていました。もっとボアダムズに近い世代だと反発しあうこともあったかもしれませんが、僕らは少し歳が離れていたこともあってその自由さを素直に受け入れていました。

──90年代後半から2000年代前半の大阪には、ボアダムズに代表されるような自由な空気感があったのでしょうか。
 非常にあったように思います。クラブやライブハウスだけでなく、ライブをやらせてくれるような小さなバーやカフェ、ギャラリーなんかがあちこちにあって、そういうところでわかりにくい音楽をやる人がたくさんいました。でもやる側の人ばっかりで、見る側、お客さんは本当に少なかった。お客さんがいないと必然的に出演者同士でその場限りのネタ見せ合戦みたいなことになるわけです。そういう経験の中で、あれも出来る、これも面白い、といったことを発見していった。ダンサーの東野祥子さんもCafe Qというバーをやっていて、そこにも僕はよく出演していました。実ははじめて仲間とやったオールナイトのクラブイベントにはお客さんが1人も来なかった(笑)。
 当時は、誰から頼まれようが、どういう条件であろうが、誘われたものはすべて受けていましたね。「なんでこんなことをやらなきゃいけないんだ」と思っても、その場所に行って、やってみると意外な発見や出会いがあったりする。だから、自分の判断、先入観を信用せず、話が転がって来たものはとりあえずやってみました。

──その場所の環境やそこにある物、あるいは何かしらの制限とのやりとりを楽しんでいた、ということでしょうか。
 そうですね。制限はあったほうがやりやすい。というか、むしろ制限がないとやることの的が絞れない。環境や物は常にアイデアのヒントになります。


即興音楽との出会い

──2002年、大阪市がフェスティバルゲート(遊園地と店舗の都市型複合施設。2007年閉鎖)の空き店舗内にアーティストの活動拠点をつくる「新世界アーツパーク事業」を立ち上げます。その一環として誘致したライブスペース「BRIDGE」(ギタリストで即興音楽家の内橋和久が主宰)にオープン当初から参加されています。

 もともと神戸でやっていた即興音楽のフェスティバル「F.B.I.(Festival beyond Innocence)」が、2002年のオープンに併せてBRIDGEでの開催になりました。知名度もない僕に内橋さんが声をかけてくれて、飛び入りのように出演したのですが、灰野敬二や鈴木昭男、マゾンナといった真の意味でのオルタナティブな音楽の草分け的な人たちも出演されていました。このときに独特で個性的なパフォーマンスを塊でガツンと浴びてしまった。僕自身はF.B.I.が即興音楽をテーマにしたイベントだというのもよくわからないまま出演していたので、そこで出会ったミュージシャンたちから「良い演奏だった」と言われて、自分がやっていることを“演奏”と呼んでもいいのだと逆に気付いたぐらいでした。
 この頃から大小いろいろなイベントに声をかけてもらえるようになりましたが、どこでやっても本当に場違いな感じでした。でも自分がやっていることが、その場で期待されることとはズレたものであることを自覚していたので、どうすれば受け入れてもらえるのか、どういう仕掛けを施せばパフォーマンスに集中する空気をつくれるのか、というメソッドを自分なりに開発していくのが楽しかった。
 また、2000年代前半には大阪港の赤レンガ倉庫を活用したアートセンターの大阪アーツアポリアでも実験的な音の表現を追求する「サウンドアート・プログラム」が行われていました。そこに呼ばれてパフォーマンスをやるようになった頃から、ギャラリーや美術館での展示依頼も少しずつ増えていきました。

──ちなみに鈴木昭男さん(1941年生まれ)は日本のサウンドアートの先駆者で、BRIDGEや大阪アーツアポリアでもしばしば活動されていました。梅田さんはサウンドアーティストと捉えられることもありますが、先駆者として影響を受けたところはありますか。
 もちろんあります。鈴木さんはパイオニアで、もう別格なので(笑)。2005年の和歌山での展覧会には驚かされました。竹を節ごとに切って並べただけのインスタレーションで別に音は鳴っていないのですが、もの凄く音楽的なんです。触ることが出来る作品でしたが、触らなくても豊かに鳴っていることが想像できる。切り口が本当に綺麗で、ご自分でひとつひとつ手ノコで切っているのだろうと想像しました。僕のやっていることがサウンドアートという言葉に当てはまるのかどうかわかりませんが、自分は空間や物の配置、素材を“音”として聞く性質なのだと思います。直島にあるウォルター・デ・マリアの作品を見た時も素材や形や配置がものすごく良い音楽だと感じました。

──梅田さんが初期にやっていたパフォーマンスはどういうものでしたか。
 つくった物を持ち込んで動かして、壊れるまでを観察したり、物質が変容していく過程を観客と一緒に共有する、ということです。最初の頃から今でも一貫して扱っている素材に“水”があります。例えば石や木なんかが風化したり変化していく過程には数カ月とか数年かかったりしますが、水は短い時間で気体にも液体にも固体にもなる。現象の始まりから終わりまでを見せることができます。

──見ている“人”もある種の現象を起こす物として捉えている?
 そうですね。例えば、歩き回っている最中にいきなり真っ暗くなったり、大きな音が鳴っていた周囲の環境が突然静かになると、人は動作を止める。ものすごく小さい音とか小さい動きに注目している時にいきなり大きい音がドンと鳴ると、身を屈めてしまう。低い位置に穴が開いていれば体制を低くして覗こうとする。天井に物があれば見上げる。そんな風に動いた人のリアクションを、第三者が俯瞰した目線で見る環境をつくることが面白い。なんてことない身動きの集合体を第三者が見ると、謎の状況だったりもするので、「何が起こっているんだろう?」って興味がわく。時間を過ごすごとにそれがどんどんとひも解かれて理解されていくような過程が、文字や言葉で説明されるよりも作品の強度があるんじゃないか。健全な見え方なんじゃないかと感じています。


“人”から起こる現象

──集団でパフォーマンスするようになったエポックの作品は何ですか。

 2009年に横浜国際映像祭のオープニングでやった『停電EXPO』という作品に参加したことや、いろんなことが並行しています。中でも2006、7年頃からミュージシャンのテニスコーツと活動するようになったのは大きいと思います。彼らはすぐに現場の人を巻き込んでしまう。一緒にツアーをすると、行った先々で現地の人たちをいとも簡単にステージに上げるんです。それが面白くて、自分でやるライブでも即興的に主催者やチケットもぎりのスタッフとかを巻き込んだパフォーマンスをやるようになりました。
 観客を巻き込んだ例としては、2010年に神戸のグッゲンハイム邸とあいちトリエンナーレの展覧会場で同時にやったパフォーマンスがあります。僕は名古屋の展覧会場にいながら神戸のグッゲンハイム邸で行われたイベント「軽音楽とジャンボリー3」に遠隔出演しました。神戸のお客さんが庭に出て、庭の木の下をスコップで掘り進むと、だんだん名古屋の観客の歌声が聞こえてくるという仕掛けです。事前に庭にスピーカーを埋めておいたんです。
 名古屋の方は、観客に恥じらいなく歌ってもらうために会場を真っ暗にしました。神戸にいる協力者と電話を繋いで神戸の状況を知らせてもらい、名古屋で歌っている観客に実況中継しました(ホワイトボードに神戸の状況を文字で書き、そのホワイトボードを時々ライトで照らす)。「いま、何十センチ掘りました」「声が聞こえてきました」「みんなどこから声が聞こえるかわからずウロウロしだしました」といった神戸のお客さんのリアクションを伝えると、名古屋のお客さんたちの歌声がどんどん大きくなって、最後はウワーッと大合唱になり、すごく面白かった。神戸の方にいた知人からは、幽霊の声を聞いているようだった、と言われました。

──初期は観客ではなくスタッフを巻き込んでいたのですか。
 今でもそうです。イベントでは記録のカメラマンが観客の前に陣取るとか、展覧会でも監視員が作品に近づきすぎないように観客を注意することがありますよね。作品と作家が一番重要視されて、観客はその地位を維持するためのルールに従わなければならないような、そういうヒエラルキーが生まれる状況がつまらないので、これをどうにか壊せないかと毎回思います。それには、スタッフをパフォーマンスや展示の一部として巻き込んでしまうのがいちばん手っ取り早いと思っています。人と物、作品と観客の間に境目がないような、フラットな状況をつくりたいのです。

──作品という世界のなかではすべてが平等でありたいと?
 そう言うと特別なユートピア観を持っているようですが、ある特定の政治思想やコミュニティのようなことを言いたいわけではありません。むしろ、それぞれが独立し合って存在しているような状況です。理想を語っているわけではなくて、作品においてはそれが可能ですし、現実にもそういう生活をしている人たちとこれまで世界中で出会ってきました。
 いま、世界では人を分断していく強くて大きな力が働いていますが、価値観や個々人の活動においてはそこに抗いつづけることが可能だし、バラバラでありつづけることが重要だと思っています。へたに群れると一網打尽にされてしまい、数で闘うと負けてしまうようなことでも、小さいものがポツポツあちこちに存在していれば、それをすべて消すことはできませんから。

──他にエポックとなったような作品はありますか。
 2008年3月に、茨城県守谷市にある滞在創作施設のARCUSで、日没に始まって夜明けに終わる展覧会を行いました。『門』という作品です。これは展覧会とパフォーマンスの中間にあるような内容で、元小学校だった建物の各教室で僕は一晩中インスタレーションをつくり続けていて、展示そのものが常時変化していく様子を、観客は見ている。バスが早い時間に終わるので、見にきた人は帰ることが出来なくなり、一晩ずっと一緒に過ごします。疲れたら宿直室で寝て、お腹が空いたら家庭科室でご飯を食べる。ゲストも招き、「○時から○○室でパフォーマンスが始まります」と黒板に書いて、校内放送で知らせると、人がゾロゾロ移動して来る。これはいい作品だったなと、今も思っています。

──どういった点で?
 展覧会だとかパフォーマンスだとかいう枠にとらわれることなく、作品をどう見せるかという公開の形式から僕は考えるのですが、『門』のときはとくに作品と相性の良い導線をつくることができたと思っています。設営期間が1日だったか2日だったか、とにかく短かかったので、公開も2日間だけにして、展示には不安定な素材ばかりを使用しました。初日と2日目で内容も変化し続けて、公開しないお昼の時間も含めて、2日間でひとつの長いパフォーマンスのようでした。桜の咲く季節で、2日目が終わった朝はお客さんも含めてみんな変なテンションで、パーッと運動場に散って行った。


個々人であることが居心地いい導線(秩序)をつくる

──梅田さんは展覧会、パフォーマンス、ライブなどさまざまな形式で表現活動をされています。この使い分けはどのようにされているのですか。

 主催側から決められた表記に従っているだけですけど、展覧会と言ってパフォーマンスのようなことをやることもあれば、その逆をやることもあります。展覧会だと思って来る場合と、パフォーマンスだと思って来る場合で、観客の態度は違いますよね。例えば、パフォーマンスと言うと基本的には始まりと終わりがあるもので、起承転結というか、時間的にある種の展開を期待されがちです。そうした文脈や思い込みを利用して、時々逆手に取ったりもしながら、状況に適した形式で発表できればいいと思っています。形式や表記のあり方も、作品の“導線”の一部なんです。

──展覧会を見ようという態度で会場に行ったら、逆に自分が見られていたという“導線”のつくり方に興味があるのですか。
 それをそのままタイトルにしたのが金沢21世紀美術館で制作した『見ているを見られているは、見られているを見ている』です。中庭に動く大きな物が置いてあって、中庭に突き出たガラスケースのような部分にマイクを1本立てた。何の説明もないのですが、いかにもマイクを通してコントロールできそうな気配があるので、見に来た人は当然のようにガラスケースに入り、マイクに向かって「動け」とか「ワーッ」とか言って物を動かそうとします。でも実際にはそのマイクと動く物の間に因果関係は存在しません。「なんで動かないんだよ!」と言う人もいるし、たまたま動くタイミングと合うと「やったー」と喜ぶ人もいる。この声は、別室の展示で中継されているので、後になって、自分の声も中継されていたことに気付く。担当の学芸員の方がこの声をICレコーダーで録音してくれたのですが、これが本当に面白い。6時間くらいありますが、聞いていていっこうに飽きないんです。マイクを差し出して「さあ、しゃべってください」と言われて出した声と、聞かれていることや見られていることを意識しないで出た声は、全く違う。

──自分の身体の有り様に無頓着になっている、素になっていることが面白い? 素の存在を作品として表現したいということですか。
 意図せずやってしまうこと、出ちゃった動作、みたいなことが好きです。「その人そのまま」であること、癖だったり、習慣だったり。後、何かに没頭したり、集中しすぎて別の意識が欠落した状態だとか、一生懸命何かをやろうとして出来ない状態とか。例えば、知的な障害をもつ子どもを中心にしたバンド「音遊びの会」のメンバーには、舞台に上がって自分が大スターであるかのように振る舞う子もいれば、見られる事に全く無頓着な子もいて、そのどちらにも美しさがある。出番なのにフラっとどこかに行ってしまう子もいる。どこかに行ってしまわず舞台上に居続けると「よくできました」と拍手されたりもするのですが、僕はそういうことには興味がなくて、むしろフラっと舞台からいなくなれることがすごいと思うし、そこの視点を引っ繰り返すのが自分の仕事だと思っています。

──「人と同じであることが居心地いい」という秩序をつくる方がやりやすいですよね。「個々人であることが居心地良い」という秩序を考えていくべきなのに。
 人と同じであることが居心地いい人ばかりじゃないですからね。自分の作品の中で、全体の連帯感みたいなこととか、場の一体感が生まれそうになったら、そうならない方に舵を切ってバランスをとります。僕は、個々人バラバラであることと、それがひとつの集団にまとまることは併存できると思っています。だけど、今は集団の同調圧力がそこかしこにあるので、まずはそれを壊したいのかもしれません。そもそも僕はお客さんが全くいないところから始めているので、孤立することは怖くない。一方で、僕のやっていることを本当に好きで理解してくれている人が世界に30人か50人ぐらいいることも知っているので、それで十分に楽しく生きていけます!
 今、アートの世界でもとても大きな力が働いて、うっかりしているとその力の一員になってしまいそうになる。でもできるだけ、そういう大きくて強いものを回避しながらやる別の方法がないかと考えています。ときどき判断に迷った時は、必ず小さくて力のない方を選ぶ。わからなくなったら、とにかく周囲の小さいことに注目しておけば活動の方向性を見誤ることはない。


場を『0才』にする展覧会

──2014年2月に大阪の街中で展開しているアートプロジェクト「ブレーカープロジェクト」の一環として大阪市西成区の山王地区で展覧会『O才』を開催しました。古い文化住宅、昔ながらの商店街、古い遊郭の名残がある飛田新地など、あちこちに作品を仕掛けて、観客は地図を片手にまちの中を歩きながら作品を見て回るものでした。

 あの地区でやったのは、2011年から2014年の3年間のプロジェクトです。1年目に福寿荘という古いアパートで『小さなものが大きくみえる』展を開催し、2年目には閉鎖されていた空家で、近所の人達だけに回覧板で告知する展覧会を行いました。3年目にやったのが『0才』です。山王地区には古い家が多く、屋根が落ち、壁や床がボロボロになった空家もある。住民が、地域にそうした家があるのが恥ずかしい、外から来る人たちに見られたくないと思っているのを、面白いものとして捉えなおすことができる、という価値観の反転を近所の人たちと共有することが必要でした。

──住民の反応はいかがでしたか。
 当然のことですが、作品に対して「面白い」という反応がすぐ返ってくるはずがありません。正直、作品への理解なんて求めていない。ただこの人(僕)は本気なんだな、ということだけわかってもらえればいい。何をするのかわからないがやらせてみよう、と思ってもらえれば十分です。あの地区は、ちょっと余所者が入りにくそうな雰囲気がありますが、いったん懐に飛び込むと人と人との距離感がおかしいぐらいに身近になる。

──私も地図を持って歩きましたが、次々と地元の人に案内されて迷う暇がなかった(笑)。
 勝手にツアーを組んで先導するおばさんもいましたからね。雨が降ってきて雨宿りさせてもらった人もいるそうです。だから見に来た人の体験がそれぞれで違っている。展覧会なのに会場が示されない、オープンもクローズもない。一応、作品を見て回るという型はあるけど、配っている地図の内容がバラバラなので同じルートを辿れない。他の人が見たものを自分は見ていないという状況が多々発生するわけです。
 『O才』開催中に、ゲストの一人であるデビッド・ホプキンスさんが酒屋の倉庫で古い蓄音機で音楽を掛けながらレクチャーをやりました。そしてその声や音を商店街に中継した。すると、耳を傾ける地元の人がいる。自転車で通りがかったおじさんが、倉庫の前に立ち止まってじっと聞いている。展覧会の観客が、その状況を横目でみながら通りすぎていく。一昔前はそうやって1枚のレコードをみんなで一生懸命に聴いていたでしょう。美しい状況だなと思いました。

──早々に「全部見てやろう」という気が失せます。
 展示のあちこちに監視もかねてスタッフが何人かいましたが、普通に監視をしてもつまらないし、観客の邪魔になるのでいろんなことをやってもらいました。路上の長いひもをたどっていくと細い地下道に繋がっていて、その突き当たりには開かない扉があるのですが、扉の前にスタッフが立っていると、だんだん後ろに観客の列ができていったそうです。扉は開きませんから、その後、勿論、何も起こらない。スタッフに聞いても何も答えないので、奇妙な時間が流れた後、「あれ、これって何も起こらないんじゃないの?」と気づいて、わらわらと散っていく。そんな、ただ小さな状況を生み出すためのスイッチのような仕掛けを、いたるところでつくりました。

──こうした地域でのアートプロジェクトを行う場合、どのぐらいリサーチするのですか。
 数日だったり数年だったり企画によってまちまちですが、山王地区では3年かけています。そもそも僕が大阪にいないことが多いので、他のプロジェクトの隙間をぬいながらですが。それと、10年以上にわたってブレーカープロジェクトがあの地域で継続的に活動してきたから出来た作品だと思っています。あそこは歴史的にいろいろなことを背負っている地域ですが、強い意味があるからこそ、その意味を斜めにずらすようなことが出来たら面白いと思いました。

──梅田さん自身が時間をかけて受け止めた面白さを、他の人も発見できるような“導線”をつくっていくということですか。
 そういう場合もあります。青森の「十和田奥入瀬芸術祭」では、半年間、廃墟の掃除だけして何にもつくりませんでした。志賀理恵子、contact Gonzoと一緒に、半年間ひたすら掃除しながら見出した場所の面白さを、観客が短時間で見られるようにする。取り残された場所・空間に添い遂げるレクイエムのようなことだと思っています。


海外でのプロジェクト

──近年、海外でのプロジェクトも増えています。その最新の取り組みが、今年の5月にベルギーのクンステン・フェスティバル・デザールで発表した『Composite:Variations/Circle』です。

 もともと仕事の依頼は国内よりも海外からの方が多いのですが、舞台芸術の現場は確かに増えています。『Composite』は2014年にカヤン村というフィリピンの山奥でつくった作品がベースになっています。当時マニラの国際交流基金にいた三富章恵さんが企画してくれました。美しい自然の中、ガスも水道も通っていない、電気も停電ばかりという場所で、8歳から18歳までの子どもたち30人くらいと1週間かけて作品をつくりました。最終日の夜に村の小学校で発表した時には、村の人たちが集まって、小さなお祭りのようになった。
 翌年、マニラの現地キュレーターであり民族音楽の研究者でもあるダヤン・イラオラの計らいで、マニラでも再演しました。『Composite』というタイトルはそのときに彼女がつけたものです。マニラに行ったことがある子どもは1人だけで、長距離移動したことも、そもそも車に乗ったことすらない子もたくさんいる。そういう状況で、みんなで数台のミニバンにギュウギュウ詰めになって出発するんです。悪路の山道だから、みんなすぐに車酔いしてゲロゲロになるけど、それも含めてこの子たちにとってこれは一生に一度の旅です。こんなふうに、作品の影響が発表される場だけでなく、私生活にまで飛び出していくことには興味があります。親がいなくて3人の弟妹の面倒をみている男の子は、この旅で出会った人がちょっとしたきっかけになって、映画に主演しました。日本でも劇場公開されましたよ。

──『Composite』とはどんな作品ですか。
 僕は、“合唱”と呼んでいます。見た人は誰もそう言いませんが(笑)。声と動きを使った作品です。例えば、歌う言葉と身体の動きが完全にシンクロしていたり、4拍子の動きを3拍子や2拍子に変えながら動いたりとか。周囲の声やリズムに意識を集中しないとできないのですが、必ずしも上手にやる必要はありません。

──梅田さんにとって『Composite』のコンセプトは何ですか。
 クンステンで参加者に訊ねられたときは、“This is not my cup of tea, but I drink it, because it’s interesting, isn't it?”と説明しました。日本語なら「苦手な事をやる、嫌いな物を食べる、知らないところに行く。だってそれが面白いから!」ってとこでしょうか。

──舞台芸術の多くは集団でひとつの表現を実現していくことにチャレンジしているように思います。でも、梅田さんの表現は集団で人を扱いながらも、個々の素材、個々の人に向かっているような気がします。
 僕が関わりの深い、音楽、美術、舞台芸術といった3つの領域から俯瞰してみて、舞台芸術は特に舞台に上がっている参加者のためにあるのではないかと思うようになりました。観客よりも参加した人が優先されていると考えないと辻褄があわないことが多いし、そこが面白いところでもある。
 僕は学生の時に、大阪の「だんじり祭」を撮影する仕事をしていたのですが、参加する一部の人たちにとって、祭はまさに生き甲斐であるかのように存在しています。1年に1度、その数日のために死んでもいいという気持ちでやっている人たちがいる。いつか東北の祭を見てまわったとき、弘前のねぷたなんかを見ていても感じましたが、観光客のためのショーではなく、どこか空(くう)に向かってエネルギーを放っているようで、祈りを捧げるようにやっている人たちがいる。これこそが舞台芸術の原点なんじゃないでしょうか。
 例えば展示作品をつくるときに、僕が興味あるのは、空間でも建物でもモノでも、分解する、構造を知るということです。人間も一緒で、社会的な地位や所属や権威ではなくて、それを脱いだその人そのものの構造を知っていく…ということに興味がある。何というか、自由にする、自由をつくることを目指しているんですよね。
 自由というものは、実はつくるのがすごく難しい。「何でもやっていい=自由」とすると、人を殺すのも独裁も自由ということになってしまう。そうではなくて、大きいものと小さなもの、強いものと弱いものが同時に存在できるような自由をつくるための秩序が必要になる。僕にとって作品をつくるというのは、そのバランスをどうとっていくか、なんです。

──クンステン・フェスティバル・デザール2017では、『Composite』をどんな人たちとつくったのですか。
 打ち合わせのときに、できるだけ属性がバラバラで、プロフェッショナルじゃない人たちを集めてほしいと伝えていました。参加の仕方が3段階にわかれていて、1週間のクリエイションをともにするメンバーが12人、本番前の3日間に2時間ずつリハーサルに参加するメンバーが14人。これに加えて、毎公演、パフォーマンスの直前1時間前に来るだけのメンバーが入れ替わりで10人ずつというリクエストをしました。
 僕の担当になったインディペンデント・キュレーターの女性が地元に強いネットワークがあったので、彼女からの働きかけて本当に多様な人が参加してくれました。参加者は、ベルギー、スペイン、アメリカ、フランス、コロンビア、ブラジル、ボリビア、カメルーン、コートジボワール、ギニア、コンゴ、日本など、いろんなところにルーツを持つ人たち、20才から50才ぐらいまでです。

──本当にバラバラですね。
 面白いエピソードがあります。ちょっとフォーマルなスピーチを入れようと思って、僕が友人に手伝ってもらって英語で書いたものを、ベルギーの公用語のひとつであるフランス語に訳そうと思い、みんなで訳してほしいとお願いしたら、議論が始まってしまった。全員がフランス語で生活しているのに、独学の人が多いのでフォーマルなスピーチがうまく訳せない。例えば、“Ladies and gentlemen”という一言を訳するのに、みんなバラバラなことを言う。この状況を眺めていて、面白い作品になりそうだとワクワクする自分がいました。
 クリエイションの過程でもいろいろありました。僕がつくったルールは、まず誰かがやり始めた動きがあり、それを受けてリアクションがあり、さらにリアクションが重なっていくという構成で、最初の基準になる人が常に入れ替わっていくというもの。当然だけど、動きを覚えられない人もいれば、リズムを取れない人もいる。僕が何も言わないでいると、「あの人が出来ないから、私たちの動きがとまってしまう」と非難する人もでてくる。でも、僕にとって重要なのは、指示された動きができるかどうかではなく、集中して他人の動作や音に反応するということ。むしろ出来ない人を基準にしたときの作品にこそ広がりがあるわけです。実際、本番ではそれが作品の多様性に繋がったし、その場にある “音楽”が豊かになっていると感じました。観客の想像を超えていくような現象は「この人は何なんだろう?」って思わされるような個々人のいびつさからはじまる。だから、僕が最初に何を期待しているかではなく、作品が勝手に転がりはじめて、そこでしかあり得ないことしか起こらなくなっていくことが面白いんです。

──現地でのレビューは賛否両論に割れていたそうですが、批評家がベルギーにおける移民のストーリーとして読み解こうとする、現代社会の問題を投影したくなる気持ちもわかります。
 もちろん、僕もそういう場所であることは意識しながらやっているので、いろんな切り口から見たときに、それぞれ別の意味で深い内容の作品になるよう目指してはいます。でも必ずしも特定の物語だけが重要なわけではない。僕がやったことはいつもと同じで、“状況”をつくり、そこでいろんなものが関わり合って、同時に成立していたり、消滅したりするような“現象”を起こしただけです。

──属性の異なる大人を参加者にした今回のクリエイションで発見したことはありますか。
 そうですねえ…。今回、強く思ったのは大人も子どもと一緒だなということですかねえ(笑)。僕はよく子どもと作品をつくる機会がありますが、大人でもこれだけ属性が違う人たちが集まると、個々のそれまでのルールが適用されないのでなかなか集団にならない。最初からバラバラ。みんなそれぞれ不安な中やってくれて、ありがたいなと思っていました。最後はみんなとても仲良くなりましたよ。


今後の展開

──大友良英さんがゲストディレクターを務める札幌国際芸術祭(2017年8月6日〜)に梅田さんも参加されて、使われていない元デパートを使ったプロジェクトを展開されます。

 2016年から何度かリサーチに入っていて、閉店した金市舘ビルの1フロアをすべて使用します。それとロンドンで知り合った方のツテで紹介していただいた古い石蔵の2カ所。どちらもインスタレーションです。

──その場所に関する記憶を持っている人を募集されていました。
 「記憶」というと誤解されそうですが、僕はその場所の思い出話を聞きたいのではなく、その場所を理解していく手がかりが欲しかった。壁が取り払われた跡やカウンターらしき跡などいろいろな痕跡が残っているのですが、それが何だったのか自分で納得しておきたかった。土地に根ざしたものって強いから、リサーチして知っておかないと、強いものに負けてしまうというか、物語のなかだけに回収されてしまうので。

──確かに、いわゆる地域アートというのはその土地に根ざした記憶を呼び覚ますといったものが多いですよね。でも、『0才』もそうですが、梅田さんの作品はどこまでが事実かわからない、地面から浮いているような印象を受けます。最後に、札幌に限らず、これからやってみたいことはありますか。
 青森の大きな山で馬を飼っている面白い人がいるんですけど、その人の山で完成に100年くらいかかる作品をつくりたいなという構想だけはあります。仮で『100才』と呼んでいます。

──『0才』と『100才』!
 ずっと穴を掘ったり木を植えたりしながら、100年後ぐらいに何となくかたちが見えてくるかもしれない、みたいなぼんやりした企画ですね。その人ももう75才だし、僕もあんまり長生きしないかもしれないし、ちょっと急がなくちゃいけないかなとは思ってます(笑)。結局、動機しかなくて、目的が無いことをやりたいんです。
 
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