The Japan Foundation
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野村誠
野村誠(のむら・まこと)
http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/
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「野村誠の老人ホームREMIX#2 ドキュメンタリー・オペラ『復興ダンゴ』」
ピアノ:野村 誠
ダンス:砂連尾理
ビデオ:上田謙太郎
(2012年2月18日、19日/STスポット)
撮影:杉本文
復興ダンゴ
復興ダンゴ
『復興ダンゴ』ホームでの取材の模様
撮影:杉本文
復興ダンゴ
復興ダンゴ
*1 はないちもんめ
古くからある日本の子どもの遊びのひとつ。2組に分かれて行い、じゃんけんで勝った組が、負けた組から指名したメンバーをもらう。「はないちもんめ」の童歌を歌いながらゲームを行い、どちらかの組のメンバーがいなくなったら終了。
*2 ハイ・レッド・センター
高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之により1960年代前半に結成された前衛芸術グループ。メンバーの姓の頭文字を組み合わせて、高(ハイ)、赤(レッド)、中(センター)と名乗り、山手線のホームや車内でオブジェを舐め続けた「山手線事件」、銀座の街頭に白衣にマスク姿で現れて清掃を行った「首都圏清掃整理促進運動」などのハプニングを仕掛けた。
Artist Interview
2012.3.23
music
Connecting to the communities with collaborative composition   The music of Makoto Nomura  
共同作曲で社会とつながる 野村誠の音楽  
音楽には全く縁のなかった老人や子ども、DVの被害者女性などをパートナーに即興で交流し、ユニークな共同作曲を行っている作曲家・ピアノ奏者の野村誠。2012年2月には、12年間にわたり通い続けている横浜の特別擁護老人ホーム「さくら苑」の老人たちとのコラボレーションによる「野村誠の老人ホームREMIX#2 ドキュメンタリー・オペラ『復興ダンゴ』」を発表。東日本大震災を踏まえて、戦後の厳しい状況から立ち上がり、生き抜いた老人たちにインタビュー。老人たちの声や語り、言葉、身振りなどに触発された音楽とインタビュー映像をシンクロさせ、野村自身のライブ演奏とともに上演したものだ。即興によりいろいろな表現の境界に身を置き、共同作曲により日常の中の美しい音楽を形にしてきた野村の仕事とは? 幼少期から現在までを駆け足で追った。
[聞き手:山下里加(アート・ジャーナリスト)]

──遡って恐縮ですが、音楽との出合いから聞かせてください。
 幼稚園の音楽教室で足踏みオルガンを覚えたのが最初です。初めての作曲は、小学2年生の3学期に1カ月ほど入院した時。16小節の2部形式のピアノ曲でした。その後、山田誠津子さん(のちの遠藤誠津子)にピアノを習い始めたんです。バルトークを聴かせてもらって小学生なりに持っていた「音楽」の固定概念を覆された。「なんて変わった音楽なんだろう。こんなんだったらやりたい」って思ったんです。それから「現代音楽の作曲家になる」って言い始めたんだと思います。小学3年生くらいですかね。

──小学校3年で現代音楽ですか(笑)。早熟というかすごいですね。即興演奏を始めたのはいつからですか。
 小学6年生のピアノ発表会で即興演奏をしました。課題曲は決まっていたのですが、他の発表者の演奏を聴いているうちに「なんか違う」と思って、舞台袖で先生に「これから即興で弾いてもいいですか」と聞いた。もちろん、先生からは止められたのですが、押し通してやった(笑)。でも当たり前ですが、自分の思うようなものは弾けませんでした。

──小学生から作曲家を目指していたのに、進学したのは京都大学の理学部です。どうしてですか?
 高校1年生のときに音大受験を見据えて「作曲家に弟子入りせねば」とピアノの先生の紹介で、作曲家である戸島美喜夫さんを訪ねたのです。当時の僕は全然知らなかったのですが、戸島さんは「グループ・音楽」という1960年頃に活動していた即興音楽グループのメンバーでした。同じグループには小杉武久さんや塩見允枝子さんなど、後にニューヨークを拠点とした前衛芸術運動のフルクサスに参加する人も所属していました。
 戸島さんには、2つのことを言われました。1つは、僕が作曲した楽譜を見て「これは君の『作品』というよりは『演奏』だね」って。でも、16歳の自分には何を言われているかわからなかった。2つ目が、「作曲家を目指していて、先生に直されたことをそのまま直す学生は一流にはなれない」。それももちろん何のことだかわかりませんでした。
 僕はこの人に音大受験のテクニックを教わろうと思っていたのに、先生に言われるままに直してたのでは一流になれないってことは……。「二流になりたいんで、直してください」なんて言い出せないじゃないですか。かなり迷って、何も言わずに帰りました。
 これで音大には行けないな、と思ったんです。音楽の道に進むことしか考えていなかったのに、お先真っ暗ですよ。ずいぶん経ってから戸島さんに再会した時、「え、そんなこと言ったっけ。全然覚えてないな。いい加減なこと言うもんじゃないね〜」って笑われました。

──京都大学に入学されたのは1987年ですが、大学でどんな活動をしていたのですか。
 その頃の京大には、音楽を志す人がけっこういたんです。先輩には河合拓始さん(ピアニスト、即興演奏家、作曲家)、芦津直人さん(ジャズピアニスト)がいて、同学年では大井浩明くん(現代音楽のピアニスト)など、皮肉なことに大学に入った途端に音楽をやる仲間が増えた(笑)。
 こんな面白い人たちがいるんだからと、1回生の終わりに作曲グループ「LAS」を立ち上げました。これがとても勉強になりました。ゼミ形式でメンバーが音楽関係の本を読んで順番に発表してディスカッションすることにしたのですが、みんななかなか発表をやる人がいない。仕方ないので、僕が毎週「和声の歴史」や「音楽と認知」など、いろいろな本を読んで、プレゼンして、ディスカッションすることになった。今思うと音大に行っていてもこんなに勉強しなかったと思います。
 同じ頃に大学の教養部で「世界民族音楽大系」というレーザーディスクを見つけたので、「民族音楽を鑑賞する会」を企画しました。毎週、5〜10人ぐらいが集まって、東アジアや北アフリカなど地域ごとに4時間ぐらい延々と民族音楽の映像を見続けた。その後、飲みに行って語り合ったりして、これもすごく勉強になりました。
 もちろん作曲や即興演奏もやっていて、数学の方は片手間でしたね。

──大学の頃にやっていた即興とは?
 高校までは自作自演でピアノソロ曲を作っていました。大学から他の楽器のための曲を書いてみたのですが、難しい曲を弾ける演奏家が周りにはいなかった。音大には演奏技術の高い人たちがゴロゴロいるから、それが音大との決定的な違いでした。いくら譜面上で完成された音楽をつくっても、演奏者がいなければ意味がない。それで、その環境でできるクリエイションをと考え始めたんです。音大に行ってたらこういうことにはならなかったでしょうね。

──具体的には、どんなことをしていたのですか。
 最初は簡単なルールを決めて即興演奏をしていたのですが、そんなに面白くならない。コンセプトだけで上手くいくものではないんですよね。面白かったのは、1989年にLASでやった『はないちもんめ』(*1)です。芦津さんがレヴィ=ストロース(文化人類学者)の構造主義にヒントを得たもので、花嫁の交換儀式の構造を音楽に置き換えて、バラバラな楽器を持った2つの演奏チームがそれぞれメロディをつくっては交換していく。
 例えば、おもちゃのスライドホイッスルを吹いてつくったメロディを、もうひとつの演奏チームのサックスが真似をする。今度はサックスがつくったメロディを、もうひとつのチームの別のおもちゃで真似をするわけです。なかなか上手くいかないんで、みんな大笑いです。サックスからピアノでも正確には写せなくて、ちょっとズレた変な翻訳になっていく。「これは面白い。世界に通用する!」、技術的に正確に楽譜をなぞるだけではない面白さがあると思いました。

──個人として発表した作品はありますか。
 1990年に京都市立芸術大学のグループ展で『組曲』を発表しました。当時、流行っていたウォークマンを数人のパフォーマーに付けてもらって、ヘッドフォンから聞こえてくる音を声で表現してもらうんです。ウォークマンにはすべて同じ音が入っているのに、違う人がやるから同じにはならないし、タイミングもちょっとずつズレていく。だけど聞いている人にはそれが互いにコミュニケートしてるみたいに聞こえるんです。テープは、無音から始まって、水の滴る音やいろいろな音が録音してあって、最後は叫び声になるのですが、今思うと暴力的な作品だったと思います。それを高嶺格くん(アーティスト/ダムタイプ)が見てくれていたのですが、同じ年に、僕もダムタイプの『pH』を見たと思います。

──大学卒業後はどうされたのですか。
 卒業前に、即興をやっていた仲間を集めて「プーフー」というバンドを始めたのですが、1992年にソニーのオーディションでグランプリを穫ったのをきっかけに、CDデビューしました。
 プーフーは、僕のピアノと、バイオリン、ホルン、パーカッション、エレキギターの5人。当初は完全即興しかやっていなかったのですが、ライブに向けて練習をするようになった。すると「さっきの一場面が良かったから、あの場面を足してもう一回即興しよう」となって、それがいい感じになると「一曲出来た」という言い方をするようになっていった。楽譜は一切ないし、曲をつくろうとも思っていなかったけれど、最終的に「曲」になる。集団即興からだんだん集団作曲の方向に移っていった感じで、「一体どこからが作曲なのだろう」と思っていました。
 一旦CDデビューしたのですが、レコーディング中のいわゆる「商品」としての完成度や再現性を求める方向性に、僕もメンバーも楽しみを見出せなかった。僕らが「ここがいいのに」と思う部分を音楽ディレクターはダメだと言ってすべて奇麗に整えてしまう。音楽業界のプロたちの仕事ぶりを観察できたのは経験になりましたが、それほど面白くはなかった。
 それで、路上演奏と子どもとの即興演奏へと関心が移っていきました。

──きっかけはあったのですか。
 友人の杉岡正章鶴くん(アーティスト)が心斎橋パルコでの展覧会でパフォーマンスをすることになり、僕と井上信太くん(アーティスト/和太鼓奏者)に声が掛かった。当時、僕らは20代前半の若者でしたから、「商業ギャラリーの中に収まっていちゃダメだ!」「売り場に出てお客さんと直接触れ合わなくては!」と息巻いて、手づくりの歩行器に入って売り場でパフォーマンスするという提案をした。もちろんパルコ側にあっさり却下されたので、展覧会への出展を取りやめました。
 それでモヤモヤしていた時、信太くんが「子どもがおもしろい!」と言うので知り合いの幼稚園で何かやらせてもらえないか尋ねたらOKが出た。はりきって、大太鼓にピンポン球をのせて叩いたり、子どもが描いた絵をスライドにして投影したり、やりたい放題やった。子どもたちは大興奮だったのですが、気づくと先生が時間ですよって感じで1クラスずつ集めては教室に帰していくんです。パフォーマンスの最中に。きっと先生方は、この若者たちと子どもを一緒にさせておくとまずい、と思ったんでしょうね(笑)。

──子どもと演奏することの手応えは?
 めちゃくちゃ面白かった。なのに、強制終了になってしまって。そのモヤモヤがあり、「歩行器のプロジェクト」を実現させようということになりました。信太くんはオランダに行ってしまったので、杉岡くんと僕と山下残くん(ダンサー)と3人で、スケボー少年がスケボーを持ち込むように京都市美術館の前庭に杉岡くんがつくった歩行器を持ち込んで練習しました。

──何を練習したのですか?
 コンセプトがはっきりあったわけではないのですが、本物のボールを3人で投げっこしながら、その合間に個々人がパフォーマンスをする。杉岡くんは絵を描き、残くんはダンス、僕は音楽として鍵盤ハーモニカの演奏していました。当時の僕たちは、若気の至りで「これは総合芸術だ!」って言ってました(笑)。

──誰かに見せたのですか?
 通りがかりの人たちが見ていましたが、歩行器で走り回っている人間に話しかけられるわけもない。その当時は観客との関わりより、創作のプロセスを密室に閉じ込めたくなかったんだと思います。スポーツの練習って公園で普通にやっているでしょう。それと同じように、スタジオやアトリエにこもっての創作ではなく、野外でアートの練習をすべきじゃないか。じゃあ、キャッチボールだろうって(笑)。
 要素が多すぎてグチャグチャになりましたが、スポーツクラブみたいに練習日誌をつけていました。「今日は、こんな動きが誕生した!」とか。週1回、1年ぐらい続きました。とにかく僕らがやっていることはすごい、これを記録なくてはいけないと信じていました。同じ頃、島袋浩道くん(アーティスト)と路上バンドをはじめ、高嶺くんとも路上で演奏したりしていました。こうした出会いがあるのが、当時の京都の面白さでした。

──80年代末から90年代初めの京都および関西のアートシーンでは、ダムタイプをはじめ、森村泰昌、椿昇、中原浩大らが注目され、企業のメセナ活動も活発でした。世界と渡り合える大きくて強い作品が、その時代の空気感をつくっていたと思います。1968年生まれの野村さんはその次の世代にあたります。
 僕らの世代はそういう大きくてカッコいい作品にアンチな気持ちもあったと思います。僕らが親近感を持っていたのは、どちらかといえば60年代のハイ・レッド・センター(*2)の活動やハプニングでした。でも、それをやっていた人たちは90年代には“古典的な現代音楽”になっていた。じゃあ、僕らがそれをやるしかないと思って、歩行器のプロジェクトや路上演奏をしていました。

──1994年末にイギリスのヨーク大学に行かれるのですが、その理由は?
 92年にイギリスで作曲をメインに据えた音楽教育がナショナル・カリキュラムになったと聞いたんです。それは面白そうだとブリティッシュカウンシルの助成金を得て、イングランド北部のヨーク大学を拠点に1年間活動していました。

──いかがでしたか?
 友人の紹介もあり、子どもたちと一緒にかなりの回数の作曲のワークショップをしました。ヨーク大学の近くの中学校には、1年で70回ぐらい通いました。僕が授業をするのではなく、子どもたちがどう作曲するのか、先生はどういう授業をするのかを見学しました。
 ヨーク大学のジョン・ペインター教授ともたくさん話をしましたが、彼は「現代音楽をどう学校教育に応用するか」という立場。僕は「現代音楽なんてつまらないから、子どもたちの面白さをどう取り込もうか」と考えていた。ただ、ヒュー・ナンキベルのワークショップだけは面白かったです。イギリスにいる間(95年)に神戸の大震災があり、僕がイギリスで神戸のためのコンサートを開いた時には、みんな協力してくれました。イギリスの1年は僕にとっても重要な時期となりました。

──95年末に帰国して、東京に拠点を移しました。なぜ京都ではなく東京に行かれたのですか?
 イギリスのヨークは、建物も古く、周りに振り回されずにマイペースで自分のことをする大人の町でした。その反動で、もっと足下がふわふわした街──当時僕は思春期の街と呼んでいましたが──東京に住むことにしました。
 不安定な街、東京だからこそ出会えるものがあるはずだと思っていた。ところが、僕は京都の街サイズしか知らないから、すぐに知り合いや同じような興味を持つ仲間と出会えるだろうと思っていたんです。ところが大間違いでした。結局、95年12月に東京に引っ越して、2年間は仕事らしい仕事もなく、ほとんど路上演奏で食べていました。

──路上演奏はお金を得る手段だったのですか?
 それもありますが、東京という街で何に出合えるのか、という好奇心が強かった。具体的なことも学びました。例えば、照明と音響の重要さについてとか。路上で同じように演奏していても、お金が次々と入る時と全く入らない時がある。何が違うのかと考えたら、観客から見たときの街灯の光の当たり具合や、後ろの壁がいい感じに音を反響させていたかどうかの違いが大きかった。演奏内容より「どこに立つか」というベストポイントを見つけるのが重要で、観客がどのように聞いてくれるか、という場所づくりについてのトレーニングになりました。

──京都時代とは違い、観客を意識するようになったということですか?
 決定的に違うのは、「僕が観客」になったということです。路上では、『サザエさん』の曲をよく演奏していたのですが、酔っぱらいが僕らの前で踊るんです。次々と踊っては、通り過ぎたとたんに平然とした顔で去っていく。そういうのが40分続いたことがあります。結婚行進曲をやった時は、酔っぱらいが即興芝居を始めちゃいましたから、「なんじゃこりゃ」ですよ。
 観客は僕を見せ物だと思っているのに、僕が観客を観察している。発想がぐるんと180度変わってしまいました。その時も「日誌」(1999年にペヨトル工房から『路上日記』として出版)をつけていましたが、あまりに面白くて、僕がどんな演奏をしたかではなく、通行人がどんな反応をしたかを書くようになりました。日記に書く内容が見つかれば、「今日はここまで」って。お金や時間じゃなくて、今日これ以上、出来事が起こったら日記に書ききれない。だから今日はここまでにしようと。逆に、何も起こらないと、もうちょっと何か起こるまで演奏を続けようという感じでした。

──観客が反応するポイントは何でしょうか?
 わかったのは、演奏に隙がないと面白いことが起こらないということ。上手い演奏では観客は拍手をしてくれるだけで、それでは書くネタにならない。僕に文句を言うのにも、話しかける隙が必要なんです。僕は路上で、ステージ上にいながら客席からツッコまれるような隙を身につけたような気がします。
 96年、97年はほとんど路上演奏で食べていて、98年1月に高橋悠治さん、高橋アキさんが、僕の曲を演奏してくれたのをきっかけに仕事が入るようになり、路上にはなかなか出られなくなりました。

──99年にアーツフォーラム・ジャパンの企画で「野村誠ワークショップ、お年寄りとの共同作曲」プロジェクトが始まります。共同作曲のパートナーとしてお年寄りを選んだのはどうしでしょう?
 98年に坂本公成(モノクロームサーカス主宰/舞台演出家)に誘われて「芸術祭典/京」に参加した時に、毎日昔話をしに来るおじいさんとの出会いが面白かったんです。もうひとつは、路上にお年寄りがいないなと思っていて、コーディネーターの熊倉純子さんに「誰とやりたいですか」と尋ねられた時に、「お年寄りに会いたい」と。それで、さくら苑と至誠ホームという2つの老人ホームでワークショップを行うことになりました。

──お年寄りとの共同作曲というのはどのようなプランだったのですか。
 僕は、路上演奏と同じように片隅で演奏していて、そこに興味を持った人たちと即興で何かできればいいなぐらいに考えていました。ところが、至誠ホームに行ったらホーム側で人を集めていて、20人ぐらいが今か今かと待ち構えていた。人数が多すぎるし、何か違うことを期待されてると思って、部屋に帰ってもらおうとわざと鍵盤ハーモニカやおもちゃの楽器で非常にマニアックで前衛的な演奏をやり続けた。ところが、お年寄りは暇なので帰らないんです。最後は、老人たちの戦争中の話しを2時間聞かせられるはめになっちゃった(笑)。

──倍返しですねえ(笑)。それから、どうしたんですか。
 お年寄りたちは毎回、民謡の本とかもって待ち構えているんですよ。カラオケの伴奏替わりにさせられそうなので、「わかりました」と言いつつ実験音楽の共同作曲に引き込もうとする。お年寄りたちは「この若造、なかなか言うこときかんな」という感じで、ますます楽しみに待ち構えている。最後の最後に、お年寄りのひとりが妥協案を出したんです。「私たちは一緒に曲をつくると言われても無理だけど、あなたが私たちをイメージした音楽をつくったら聞いてあげてもいいよ」って。それで、僕が勝手につくるのではなく、お年寄りから意見を頂くようにしたんです。そうしたら「私はそんな音じゃなくて…」「あの人の音は…」と言ってくれるようになりました。

──お年寄りが音楽ディレクターみたいですね。
 そうそう。もうひとつのさくら苑では、最初に「僕は作曲家で、みなさんの感性とセッションして作曲したくて来ました」と説明したら、興味を持ってくれた。そしたら、みんなでベルを振る演奏をした時、手が震える障害がある方は、最初からトレモロ(小刻みに演奏する技法)になるんです。「シャンシャン」で終わるところが、シャララララ…と続く。それを聞いたとき、そういうメロディーから曲をつくろうと思いました。

──障害にはマイナスのイメージがあるのですが、野村さんはそれを創作の種に変換していく。
 最初の頃は、お年寄りとのセッションでそんなに面白いものが生まれるとは思っていませんでした。だって2時間かけて1行歌詞が増えるかどうかといったスピードで全然進まない。それで、1年で20回以上行くことになったんです。ほんのちょっと面白い要素があるにせよ、それまでの僕だったら全部ボツにするようなものしか出てこない。ところがその無理をしないで出てきたものを積み重ねていったら、長大な歌詞になったんです。それは、僕にとってすごい衝撃でした。
 それまでの僕は、自分の美意識に合わないものを削ぎ落としていっていたのですが、でも、さくら苑では削ぎ落としたら何も残らないような時間が延々と続くんです。だったら出て来るものを全部OKにしようと発想を変えた。まずOKにすることで蓄積していくうちに何か見えてくるんです。

──共同作曲の意識が変わったのでしょうか。
 「しょうぎ作曲」(複数の人間が将棋を指し合うように順番に即興的に演奏していき、最終的に再演して「曲」とする)という共同作曲もやっているのですが、その過程でも「この演奏は違うな」「この人はセンスないな」と思う場面があるんですね。この人を排したメンバーでやったほうがクオリティもオリジナリティも高くなるんじゃないか、と思う時もある。だけど、結果的に「僕が違うな」と思った演奏が面白いものを引き出している場合が多い。そんな経験を何度もしたんです。それも影響していると思います。

──世界は自分の好きなもので埋め尽くすことはできない、ということでしょうか。
 僕の好きなものだけで僕が構成すれば、僕が求めるものができるわけじゃない。僕の価値観に反するものが入っているのにも関わらず、その結果として僕がみたい世界が出現する。ということは、「作品をつくる」って何だろうと考え始めました。
 
──野村誠の好きなもので埋め尽くすと、野村誠の作品にならない?
 自分の既知のもので終わってしまう。自分の価値観や技術や方法論だけでは、自分を超えていけなくなる。異物を投入していくことによって超えていけるんじゃないかと思いました。

──では、自分とはどのように違う人、異なる価値観や経験、身体を持った人と出会っていくかが重要になってくるように思います。野村さんは、お年寄りだけでなく、DVの被害者の女性や自閉症の方、知的障害者など、様々な背景を持った方と共同作曲されています。
 計算した結果ではないのですが、お話を頂いた時に「何が出来るかわからない」と思った時には積極的に仕事を受けています。わからないことは怖いとも思いますが、だからこそ見てみたいというのはあります。

──野村さんが見たい音楽世界とは何でしょう。
 言葉にするのは難しいですね。もっと自由で、もっと豊かで、もっとボーダレスで、美しくて…。今ある音楽に不自由さや物足りなさを感じていて、なんとかそれを広げたいとは思っています。

──私たちがその現場にいても老人たちの演奏を美しいものとは聴きとれなかったと思います。でも、そこからインスパイアされた野村誠の音楽はなんて美しいんだろうと感じます。
 それは、僕がその音楽の中に見出した非常にナイーブな美しさを強調して享受しやすいカタチにしているからでしょう。僕はかなり世界中の音楽を聞いてきたつもりですが、それでもお年寄りや、音楽の素人によるデタラメな演奏の中に「これは聞いたことがない!」という瞬間があるんです。だけど、それに気づいて興奮しているのは僕ぐらいだというのがわかってきた。とすれば、僕が作品にしていかないと他の人にはそれが伝わらない。

──共同作曲の相手と野村さんはどういう関係でしょうか。互いにインスパイアされる共犯関係でしょうか。それとも野村さんの創作の素材でしょうか。
 その場で行われる作業は、対等の共同作曲ですが、その共同作曲の現場をドキュメントし、再編集する作業(ぼくはそれをポストワークショップと呼んでいますが)では、素材として扱っていると思います。ただ、本来の意味の素材として扱うのなら、僕が欲しい素材が出るまで取材し続けなくてはいけない。例えば『復興ダンゴ』は、おばあちゃん、おじいちゃんの昔話を「うた」として聞き、身振り手振りを「ダンス」としてみてみたわけですが、あれは戦後について話しを聞いた1時間半のインタビューだけを使ってつくったものです。
 もし、僕自身の伝えたいメッセージやコンセプトのためにお年寄りを利用しようとするならば、90分では全然足らないでしょう。僕の想定した見取り図にあわせて「もうちょっとこんな絵柄がほしい」「こんな調子の声がほしいから、こう仕掛けてみよう」となるでしょう。だけど、1時間半の雑談の中にすべてがあるんです。メロディがあり、リズムがあり、ダンスもあるはずだという確信がある。それをまとめれば、オペラになる。今、この人たちがここで語っている言葉だけで、何かが立ち上がる。インタビューしているところを映像で撮影したのですが、背景に老人ホームの日常が勝手に写り込んでいるんです。施設の人がパタパタ走っていたり、車椅子を押していたり。お年寄りと話している時は気づかなかったのですが、そういう見落としていたことなど、そこにすべてがあるんです。

──ポストワークショップでは、そういう「見直すこと」「再演すること」が大切になりますね。
 単なる即興では、声の大きい人と反応の早い人が勝つんです。頭の回転が早くて、パッと意見が言える人がイニシアティブをとって、控えめでちょっと考えている時間が長い人は存在しないことになる。僕らはついつい反応が早い人たちに注目しがちで、即興だけではその部分しか現れてこない。だけど、しょうぎ作曲のように順番に演奏したり、ビデオなどに撮って見直すと、「うわっ、こんなところを僕は見落としていたのか」と思うことがたくさん出て来る。何回もループさせると面白さがわかったりします。

──野村さんが、小さくて弱いものに魅かれていくのはなぜでしょう?
 そうですね…。民族音楽も含めて、僕たちは世界中の音楽を聞ける環境にあると思うんです。でも、僕がイギリスに行きたかったのは、子どもたちの音楽教室で生まれ、商品にならない、記録もされないような音楽を聞いてみたかったから。それらは、とてもナイーブでひ弱で商品どころか作品にもならない。そんなものを面白いと思う人はそうそういないんだけど、僕は探してでも聞きたかった。僕は、それを他の人たちにもわかるように提示したかったんです。

──「作曲」という世界を発見していく方法かもしれませんね。
 そうかもしれません。小さくて弱いものをカタチにしていくのは、僕の腕の見せ所だし、職人的な面白さもあります。

──今後、やってみたいことがありますか?
 簡単に言葉にはできないのですが…。「どうやって生きていこうか」と思っています。震災があって、原発事故があった今、僕はこれからどうやって生きていくのか。僕の周りの人たちは、みんな原発反対だという。だけど、社会がその方向に動きそうにない。わかってはいたつもりなんですが、僕はこの世界の明らかに少数派に属している。アウトリーチとか言っていろいろ活動していたけれど、この社会、この世界の大多数の人たちにアプローチしてこなかったんじゃないか。大多数からは、そもそも存在を無視されているという事実を突きつけられている。
 いよいよこの多数派の、価値観の全く重ならない人たちと付き合っていかなくてはいけないと思い始めています。これは、結構勇気がいるし、気が重いことです。でも、向こうはこちらの存在そのものを知らないのですから、僕らが芸術的かどうかなんてことに固執している場合じゃない。
 そのひとつが、今、足立区の2カ年計画で始まった「千住だじゃれ音楽祭」なんです。駄洒落好きのおじさんたちから接触していこうと本気で思っています。ダジャレをやってもアートの世界で評価され、インターナショナルに展開される可能性は少ない。だけど、僕がどうやって生きていくのかを考えたら、そこになった。すべてを投げ捨てたところで、僕は世界にどう参加していくのかを真剣に考えています。
 
──勝算はありますか?
 簡単じゃない。これまでの、僕の美意識の中での“違う”とは桁違いの“違う”がある。僕たち芸術に関わる者がいいと思ってやってきたことを全否定するようなことが、世の中の主流だったりする。僕らは少数派だ。じゃあ、仲間を増やして多数派になるのか? テロリストになるのか? そうではないのなら、世界への参加の仕方を発明していかなくては、と思っています。
 
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