The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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笠井叡
笠井 叡(かさい・あきら)
http://www.akirakasai.com/
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天使館は笠井叡が1971年に開館した稽古場の名称。名前の由来はローマにある有名な「天使城」。長く牢獄として使用されたこと、その後、技術が全面に押し出されたマニエリスム絵画の宝庫になったことから、それを人間の身体にアプローチする技術を研究する稽古場の名前とした。
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1994年1月中野ゼロホールでの『セラフィータ─鏡の性器を持つ私の女』は、15年ぶりの舞踏公演となった。天使館の門下生、山田せつ子と杉田上作が共演。笠井が放つ両性具有の不思議な舞台は、復活を待ちかねた舞踏ファンを魅了した。
セラフィータ
撮影:神山貞次郎
笠井叡×麿赤兒『ハヤサスラヒメ』
(2012年11月29日〜12月2日/世田谷パブリックシアター)
構成・演出・振付:笠井 叡
意匠:麿 赤兒

ハヤサスラヒメ
ハヤサスラヒメ
ハヤサスラヒメ
ハヤサスラヒメ
ハヤサスラヒメ
ハヤサスラヒメ
撮影:神山貞次郎
*3
『花粉革命』は、笠井叡のソロ代表作。2002年シアタートラムの独舞シリーズで初演後、世界の数十都市を巡演。娘道成寺の鬘と着物をつけ、恋に物狂いしてゆく様を舞踏で踊る。
花粉革命
メキシコ、セルバンティーノ・フェスティバルでの公演(2002年)
撮影:Christa Cowrie
Artist Interview
2013.2.8
dance
A look into the choreographic art of Akira Kasai, fifty years after entering the world of Butoh  
舞踏をはじめて50年 笠井叡の振付世界とは?  
 笠井叡は1963年に大野一雄に、翌64年に土方巽に出会い、舞踏家としての活動を始める。1971年には若干28歳で天使館(*1)を創立。ここから、山田せつ子や山崎広太などの舞踊家を輩出。79年、ドイツに旅立ち、シュトゥットガルトのオイリュトメウムに入学。85年に帰国後、シュタイナーの人智学についての講演、オイリュトミーについての講演や公演を各地で開催する。94年に『セラフィータ(*2)』でダンス界に復帰してからは、自身のソロ公演に加え、木佐貫邦子、伊藤キム、白河直子、黒田育世など日本のコンテンポラリーダンスを代表する舞踊家たち、世界のバレエ界を代表するひとりルジマトフなどにも振り付けるほか、北米、南米、ヨーロッパ、韓国など海外での公演活動も精力的に行う。
 2012年11月、これまで交流のなかった麿赤兒率いる大駱駝艦との共演が、笠井の振付『ハヤサスラヒメ』(世田谷パブリックシアター)として実現する。この作品では、笠井、麿に加えて、天使館と大駱駝艦のダンサー各4人、オイリュトミーのメンバー20人が出演。ベートーヴェンの交響曲第九番全曲を、『古事記』に記された天地創造の物語に見立て、天使館と大駱駝艦が、善と悪、天と地など対立する宇宙の2原理を踊りで体現した。笠井と麿は、闘い、融合し、遂には二人で一人のハヤサスラヒメとなって、全ての汚辱を呑み込み世界の闇を光に変える──。
 舞踏、モダンダンス、コンテンポラリーダンス、オイリュトミーなどのジャンルに囚われることなく、舞踊家としても振付家としても独自のクリエイティブな活動を続ける笠井は驚異的とも言える存在だ。笠井叡に、改めてその寄って立つところを聞いた。
聞き手:石井達朗[舞踊評論家]

──まず『ハヤサスラヒメ』について伺います。『古事記』は日本の創世神話の代表的なものであり、英訳もされています。しかし『古事記』との関連でもほとんど知られていない速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)というキャラクターを選んで、ベートーヴェンの第九全曲に振り付けるというアイデアはどこから出たのですか。
 速佐須良比売は『古事記』には、直接名前は出てこないのですが、「イザナギノミコト、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊祓へ給ひし時に生れ坐せる祓戸大神たち〜」という言葉の中に、祓戸大神(ハラへドノオホカミ)の一柱の神として出てきます。延喜式のなかの大祓祝詞の中には、1番目の瀬織津姫(セヲリツヒメ)という神様、2番目の速秋津姫神(ハヤアキツヒメ)、3番目の気吹戸主(イブキドヌシ)の次、4番目にハヤサスラヒメの神名が記されています。
 この神様は日本の踊りの起源として一般的に知られている天宇受賣命(アメノウズメ)と似ていて、アメノウズメが踊りを通して闇を光に変えるとすると、ハヤサスラヒメは闇と光を一緒にするカオス的な、根源的な神様だと私は思っています。
 ヨーロッパの神話で言うと、ディオニソスの祭りやバッカス祭など、酒を飲みどんちゃん騒ぎするなかで段々とカタルシスにいく、というイメージに近いですね。

──ディオニソス的なもの、バッカス的なものというのは、まさに今回の『ハヤサスラヒメ』の振付のテーマであったように思います。それだけでなく全体をアポロ的な知の世界によって見事に構成していたのが魅力でした。とはいうものの、笠井さんの場合は、計算して振り付けたというよりも、独りでに出来上がったのだと思いますが…。
 そうですね。何か一生懸命つくったという感じではなくて、半年みんなで集まって稽古していたら、あんな風に自然になってしまったという感じです。

──ただ、『第九』を全曲使って振付けるというのは、大変なチャレンジですよね。
 第九は有名ですからいいかなと(笑)。それはさておき、4楽章『歓喜の歌』のシラーが付けた言葉は、ヨーロッパの精神のエッセンスのようなところがあります。ヨーロッパは光と闇、天と地、神と人間、言葉と身体といった二元論を構築しましたが、シラーはそれをある意味で融合した人で、それがあの歌に表れています。ですから、第九と古事記はテーマとしてはそれほど異質ではないのですが、組み合わせだけ聞くと、「ええっ?」と思いますよね(笑)。

──誰でも驚きますよ(笑)。『第九』という曲は1楽章から4楽章へと発展する内容と形態をもっています。『ハヤサスラヒメ」の作品構成においてもそれが意識されていた感じがしました。
 ええ、その構成はベートーヴェンと同じです。1楽章は無から有、カオスから世界が生まれる天地創造。2楽章は光と闇の闘い。3楽章はそれらが融合した、柔らかくて天上的なイメージ。そして最後の4楽章で、悪の力によって世界は崩壊するのですが、その中で人間の魂の部分だけは歓喜を持ちうる。世界が崩壊したカオスという一番悲惨な状況だけども歓喜、といったイメージです。ベートーヴェンがおそらく第九に対してイメージしたであろうものに割りと忠実にやっているつもりです。

──弦楽器・管楽器・打楽器など、いろいろなパートがあるオーケストラのような作品でした。最終章は、舞踏やオイリュトミー、コンテンポラリーダンスなど全てが1つになって立ち上がり、とても力強かった。ところで、笠井さんは、作品を振付ける時、最初から全体のプランをきちんと立てているのですか。
 ダンスには、ダンサー主義と作品主義、という考え方があります。作品のイメージが先にあって、そのイメージに合わせてダンサーを選ぶ。そういう作品を中心に考える人もいますが、私はダンサーを決めた瞬間にもう作品が出来るというタイプで、紛れもなくダンサー主義です。自分の思うようにダンサーを使いたいというよりも、出会った時に、この人だったら絶対こうしかならないとハッキリ、直観的に動きがわかる。私の場合、ダンサーが決まればもう作品の99パーセントは決まったようなものです。動きを作るというより「振付という水」を注いでいるだけ。つくっているというより育てている感じです。
 今回の麿さんもそうですが、私にとって他のダンサーとの出会いは、物凄くエキセントリックなことで、その出会いによって、全く知らない世界が広がるのです。

──具体的にどのようなプロセスで振付けるのですか。
 まず、ダンサーの匂いを嗅ぎます。「酸っぱい匂い」や「甘い匂い」など、それぞれ匂いがあって、それが面白い。それに合った動きは直感的に向こうから来ます。それと、私は絵画的というより音楽的な性向があるので、音楽を聞くと自然に動きが出てきます。
 ダンサーにはできるだけイメージや言葉を与えずに、形だけを厳密にやってもらいます。なぜならイメージに流されず、イメージが入る余地をなくすことで、振付の力が出るからです。手はここ、指はこう、頭はこう、と目に見える形を細かく厳密に、ほぼ振り写しで動いてもらいます。振付の時は、例えグラハム・テクニックを持っている人であろうと、バリバリのバレエダンサーであろうと、その人が持っている技術は無視します。なぜなら今までやったことがない動きの方が面白くなるからです。
 ちなみに『ハヤサスラヒメ』では、7月から天使館と大駱駝艦で別々にパート稽古を始め、8月に合体、11月にはオイリュトミーのメンバーも加わって全体稽古をはじめました。大駱駝艦の皆さんも普段やらない動きを、一生懸命練習してくれました。

──ダンサー主義という言い方もありますが、笠井さんの振付には、作品主義に通じる“意志”というか、作品の構造、作品の世界をしっかりと意識した方向性をいつももっているように感じます。
 確かに、自分の中に一種のフレームみたいなものがあって、ダンサーから出てきた動きをその全体像に当てていくという部分はあります。

──ところで、麿さんと笠井さんの共演というのは、本当に誰もが予想すらできないことでした。もとを辿れば土方から出発した舞踏の系譜があるわけですが、全く異なる道を歩み、これまで交わることがなかったのに、どうして一緒にやることになったのですか。
 麿さんと一緒にやってみたいな、と思ったのは、彼の『川のホトリ』(02)という作品を観て、ソロのダンサーとしての麿さんに感心したからです。05年に二人とも韓国の舞踏フェスティバルに参加し、その打ち上げで何十年かぶりに一緒になり、「今度やろう!」と盛り上がった。今年は天使館の50周年ということもあり、私の方から麿さんに出演依頼しました。
麿さんと私が一緒にできたというのも、まあ、土方さん以来の50年という歳月があったからだと思います。互いに、麿なんて誰が認めるか、笠井なんて誰が認めるかと、50年やって来たわけですから。認めたいけど認めたくない、でもそうしたお互いをさらけ出せば、認めあえる部分も出て来るということでしょう。

──笠井さんの中での舞踏史は、土方巽と大野一雄という舞踏を代表する二人の影響から始まっていると思いますが、二人の巨匠に対する距離の取り方は微妙に違います。大野一雄に対しては“師匠”という感じで、何かもう抱かれるような関係。一方土方に対しては、様々なインスピレーションや刺激を受けながらも、ある距離を置いていたような感じがあります。
 私は舞踊史において、土方さんは一番革命的なことをやった人だと思っています。舞踊のコレオグラフィーの中に、初めて障害者の動きを入れ、舞台作品として成立させた。それはダンスの中で、良い動きとか悪い動き、あるいは美しい動きといった考え方が消滅するということです。つまり、ダンスに良い動きも悪い動きもないとすれば、人間は何をもって身体を鍛錬し、動きの練習をするのか、根源的なところに戻されます。土方巽はそういう意味でダンスを根源に戻した、と私は思っています。
 ただ、私と土方さんは180度ものの感じ方や捉え方が違うところがありました。土方さんはダンスをつくる上では、どこまでも唯物論的な姿勢を貫いた人だと思うのです。つまり、精神は永遠で物質は儚いではなくて、物質こそ永遠で精神は消滅する、といった…。しかし「もの」しか世界に存在しないという感じでは、私にはとてもダンスはつくれません。そういう意味で、私は土方さんとは違う方向を探り続けた、ということはあります。

──土方の発想の本質が唯物論的なもので、それに違和感を覚えたということですね。昔、笠井さんから聞いた話の中に、お母さんが教会で弾くオルガンに合わせて踊ったというエピソードがあり、すごく印象的でした。笠井さんの中にはキリスト教的なものの影響があったのですか。
 はい。母も銀行家だった母方の祖父も、バリバリのクリスチャンでしたから。私が育ったのはいわゆる大正モダニズムの家庭でした。うちは三重県のほうですが、要するに教養主義で山の手的とでもいうのでしょうか。例えば海外の演奏家が来ると、うちに泊まったりするような家庭でした。祖父は英語が得意で、文化人の通訳みたいなこともしていて…。そうした環境の中で否応なく受け取ってしまった育ち方の影響は、確かあると思います。
 土方さんの方は、「俺は、東北のソバ屋の息子だよ、酒もってこい!」という中で育ったと言っています。本当の生い立ちは違いますが…、彼の東北や唯物論の出し方はそういう「フリをする」ところから出ています。私から見れば、土方さんは非常にヨーロッパ的な異端だと思います。ジャン・ジュネやアルトーに非常に影響を受けていて、本当は日本的な素朴さなどあまり好きじゃない。最初は文学で立とうか、ダンスをやろうか、相当悩んだと思います。だから土方さんの書く文章は、日本語で書かれたシュールレアリスムの最高級のもので、特に『病める舞姫』などは誰にも真似できない。言葉をオブジェにして、あそこまで日本的な何かを表した人というのはいないと思います。

──では、笠井さんにとって、敬虔なクリスチャンである大野一雄という存在の方がむしろ親和性があったということですか。大野一雄は心の世界が身体を引っ張っていくというか、魂に対する非常に強い信仰があります。そんな共通性が笠井さんと大野さんの強い結び付きをつくっていったのかな、という感じもします。
 私がソロで即興的に動くと、「笠井さんって大野さんみたいだねえ」と言われることがあります。魂の力が内側から身体を動かしていくというような点では、やっぱり大野一雄先生の下で3年の修行をしたということはすごく大きくて、何らかの意味で、いまだにその影響はあると思います。
 反対に振付は土方さんから学びました。学んだといっても、それは師と弟子という感じではないですが。『バラ色ダンスー澁澤さんの家のほうへ』と『性愛恩懲学指南図絵─トマト』という作品で、土方さんが私を振付けたのですが、その時の土方さんの振付けの仕方というのが、多分、私の振付の原点になっていると思います。
 それは具体的には、振付のための準備をしないということです。事前に一切決めず、ダンサーと二人になった時に、その二人の間で出てくるものを直観的に受け取り、考えずにまず先に身体を動かしていく、という振付けの仕方です。
 清水の舞台から飛び降りるみたいに、その時初めてやったことを提出する。振付というのは、生ものを料理してお客さんに出すみたいな、手際良さが大事です。魚を置いたらタンタンタンと切って、パッパッパッと置いていく。ここがこうだからああだとか、あんまり考えてやるものじゃない。その辺の、土方さんの振付のタイミングといったものが結構身体に染み付いていますね。だから私も人を振付ける時は、そういう「料理人の手早さ」みたいなものを、まず持ってくるということがあります。

──笠井さんの振付の方法論の原点が60年代の土方にあるというのは、すごく興味深い。ただ、土方が大野一雄と根本的に違うのは、そういう生ものを人前に出す時に、土方なりの策略というか戦略というものがあったのではないでしょうか。その集大成として出来たのが『四季のための二十七晩』という作品で、そこでは生ものをバンバンバンと出すというより、舞踏をひとつの「様式」として提示したように思います。
ところで、笠井さんは71年に自ら天使館を創設しますが、どういうきっかけだったのですか。当時は、麿さんは大駱駝艦を設立し、土方は『四季のための二十七晩』という作品を創るなど、舞踏というものがひとつの形を成してきた時期でした。しかし、笠井さんはそういう流れから離れるように、舞踏であるなしに関係なく、ダンスを思考し、自分の表現に向き合うために天使館をつくったように思えます。

 土方さんが『肉体の叛乱』というソロの会をやった時に、生意気にも、雑誌で否定的な論評をしたんです。そうしたら土方さんは怒るどころか呆れて、「笠井、あれはもういいよ、わかった、あれでいいから」と…。
 私が思うに、土方の集大成はソロの『肉体の叛乱』ではなく、むしろ『四季のための二十七晩』などの振付作品です。60年代に彼がずっとやってきたのは、人を振付けて作品を創ってきたことです。「DANCE EXPERIENCEの会」にしても『あんま』にしても、私が出た『トマト』にしてもそうです。土方さんのダンスの素晴らしさというのは、緻密な構成の中での振付にあります。ソロの会というのは後にも先にもあの1回しかなくて、「笠井の真似して俺も1回やってみる」と言ってつくった、そういうノリの作品でした。
 だから、批判ではなくて、『肉体の叛乱』はひとつの試みとしては面白いけれど、土方巽のエッセンスがあったとはとても思えない、という意味のことを書いた。ちょっと生意気でしたけど(笑)。

──批判じゃないと言うけど、誰が見ても批判でしたよ(笑)。土方よりずっと若い人が、あれだけハッキリ言ったのだから、当時の人は誰もがビックリしたと思います。
 生意気でしたけれど、大野さんに対してもイマジネーションのつくり方について、「違う」とハッキリと言いました。大野さんというのは、イマジネーションを形成しない限り絶対動かないんです。イマジネーションをギューッと絞って滴り落ちてくる数滴のエッセンスがあれば踊れる、という人です。けれどそのイメージは、私にはあまりに個人的でついていけないので、もっと誰にでも共有できる、客観的なイマジネーションみたいなもので踊りをつくります、と申し上げた。
 例えば、手のひらにコオロギを持って、ハッ、これは私のお母さん…と。これはすごくよくわかるけれども、それは大野先生にとっての私のお母さんであって、そのイメージはあまりに極私的すぎる、と言ってしまった。すると大野先生は、「イマジネーションというものは私的なものであって、客観的なイメージなんてないよ」と、困った顔をされました。
 同じように、歌人の塚本邦雄さんが著書の短歌論の中で、「どこまでもイマジネーションは極々私的なものなのだ」と言っていますが、同時に「短歌の定型には客観性がある」と述べています。私は、五七五七七という客観的なひとつの様式が短歌に存在するように、イマジネーションの中にある種の客観性が欲しい、と大野さんに言ったわけです。でも大野さんにそんなことを言ったって、絶対にわからない。困ったなあって顔をされていました。
 それでまあ、両方に対してそんなことをしてしまったものですから、お二人ともに段々と距離ができてしまった。何が舞踏だと思う反面、舞踏という言葉は俺が作った言葉だ、という誇りというのか矜持もあって、天使館をはじめたわけです。

──何を目指して天使館をつくったのですか。
 それは本当に難しいところで、いまだに一概に言えません。
 政治的な意味では、その当時の、例えば赤軍のような政治思想よりももっとラディカルなものを自分は求めていたと思います。つまり、社会的な権力や中心になるものを一切認めないで成り立つような社会という夢想ですよね。要するに精神のアナーキズムと肉体のヒエラルキーを作ろうと思ったのです。暗黒舞踏がどうこうとか、モダンダンスがどうのとかではなくて、全てのものから隔絶された、ある種の…理想主 義を求めたわけです。政治思想や宗教思想よりも、ダンスのほうがもっと根源に迫れるだろうという思いもありました。
 
──天使館の方法論というのはどういうものだったのですか。
 たった1つの方法論は、「踊りを教えない」ということでした。私が教えてしまえばまた1つの中心が出来てしまいます。そうではなく、勝手にやりたいことやる。中心というものを一切持たないアナーキーな文化活動の場を7年間提供しました。土方さんや大野先生に啖呵を切って天使館をつくった手前、私がやれることと言えば、場を提供することだけでした。ゼロから何かが生まれてほしかった。ですから土方さんはこうしていた、大野さんはこうだった、なんて教えるつもりは全く無かった。時代の風を受けて、踊りたい人たちが自由に踊れる場を提供したいという思いだけでした。その中で育ったのが、山田せつ子や山崎広太、大森政秀などです。当時そういう自由な空間を必要としていた人は沢山いたと思います。

──1970年代の日本のダンス界において、天使館という自由な創造の場が数年も持続していたということは、ほんとうに驚くべきことだと思いますし、類例の無い、ダンスの空間だったと思います。それまでのモダンダンスの流れから見ても、あるいは60年代前半からの舞踏の流れから見ても全く違う、ひとつの新しい空間だったのではないでしょうか。それなのに、70年代末にそれをすっかり閉めてしまって、家族全員でドイツに移住してしまったのはなぜですか。シュタイナー思想やドイツ哲学を勉強するためですか。
 ほんと、悪いなあ、と思っています(笑)。アナーキズムだとかヒエラルキーだとか言っておいて、ある日突然捨てた。みんな怒っていますよ。私は別にシュタイナーを極めるとかドイツ哲学うんぬんじゃなくて、結局、日本人がまだ誰も触れたことがない、ヨーロッパ文化の根幹にある「核」を知りたかっただけです。
 では、その核は一体何かというと…難しいのですが、ヨーロッパ文化は哲学も文学も二元論ですけれど、本当に深いところでは、完全に分割した後に、それを合体させる方法論をはっきり持っているのです。例えばそれがベートーヴェンの第4楽章で、ここでは光と闇が一体になっています。ヨーロッパの凄さというのは、1回水と油のように人間をバシンとまっぷたつに割った後、原爆のようにそれをぶつけて、もの凄いエネルギーを出すところにある。このエネルギーのつくり方を、日本人は知りません。日本人は最初から一元論で、天も地も、男も女も一体で流れてきてしまっているからです。光と闇や酸素と水素をきちっと割って、それをもう一度ぶつけた時の、原子爆弾じゃないけれど、こういうエネルギーというものが、ダンスの中に私は欲しいと思いました。

──笠井さんは、そういうデカルト以来ヨーロッパに続いていた心身の二元論を超えたところに、ある種の見えにくいヨーロッパ文化の根源みたいなものがあると思ったのですね。
 そうなのです。そのひとつがルドルフ・シュタイナーでした。デカルトの二元論から出られないヨーロッパ人の悲劇と、それをぶつけたような作品を作るベートーヴェンやモーツァルト、シュタイナーといった人たち。天使館の人たちをみんな捨ててドイツに行ったのは、それを自分の身体の中に確かめたい、という欲求からだったと思います。

──結局、ドイツにいた6年間に得た一番大きなものは何でしたか。二元論的なものを超える、根源的な何かには結局出合えたわけですか。
 ドイツに行った頃、私は言葉の力をまだ、見くびっていたような気がします。言葉の一番根源的な力というのは、例えば「海」と言った時には、その言葉は「海」という意味ではなく、「海そのものを創造する」ことができるということです。要するに人間の身体の中に「外界」全てがあって、それが言葉を通して生み出されていく。その言葉の力がリアルに感じられるようになったことじゃないかと思います。それが概念の中に目覚めるということではないでしょうか。

──けれどドイツに行かなくても、土方巽の『病める舞姫』や笠井さんの『天使論』などを読むと、言葉が身体に働きかけるある種の触媒としての作用、言葉が内包しているある種のケミカルな作用というのは既にそこにあったと思うのですが。
 確かに、以前から言葉がものを生み出す力があるという、非常にリアルな経験はありました。でも、これはどこまでも自分の経験領域にすぎない。人間と周りのものが一元的に結び付いているというような汎神論的な、あるいは神秘論的な融合の世界は、体験の領域としてはあるのですが、やはりそれを言語化して説明したいという願望がありました。言語化できれば、人にきちんと伝達できます。

──ドイツから帰国したのが86年、そして『セラフィータ』で本格的に日本のダンス界に復帰するのが94年です。その間の7年のブランクはどうしていたのですか。80年代後半のいつのことだったか、笠井さんが池袋のスタジオ200でシュタイナー思想とオイリュトミーについて熱っぽく議論し、オイリュトミーを実演するのに参加したことがありますが。
 帰国してからは、人智学ばかりやっていました。スタジオ200でも人智学的な共同体という、やや仲間内の人たちに向かって話していました。浸っていたわけじゃないけど、それしか日本との接点はなくて、自分が日本人であるという感じが持てず、どこか異邦人的な部分が強かったのです。
 それはひとつには、バブルのせいです。帰ってきた時は社会全体がバブルに浮かれていて、私はほとんど鬱病に近かった。そのような空気の中で、作品を発表しようなんてとても思えなかったし、人の踊りを観たいとも全く思わなかった。結局、ドイツからも含めると15年間、社会生活をしていませんでした。そういう意味で、いわゆる社会的な活動を始めたというのは、94年の『セラフィータ』以降だと思います。

──長い、長いブランクの後、94年に日本のダンス界に復帰します。そう決心したのは、何がそうさせたのですか。
 ドイツにいた時の7年間を、家族が5人いて何の生活費を稼ぐこともなく生活していけたのは、1つの共同体的な地盤に支えられていたからです。日本に帰っても、バブル社会の中で自分の居場所が無く、結局、閉じた中で活動するしかなかった。ですが、文化活動というのは特定の共同体の中だけで成立するものでは絶対に無いので、やはりちゃんと社会に出て行かなければいけないと決意したわけです。もう1回外に出よう、それが『セラフィータ』になった。
 
──現在の天使館はどういうことを念頭に置いて活動していますか。
 ドイツに行く前の天使館と共通している部分は、組織ではない、というところですね。アナーキーな自由な空気を持ちながら、しかし身体づくりを徹底的にやる。
オイリュトミーもその1つです。人間には基本的に持っている4つの身体があります。受胎前、胎児の身体、母国語を吸収している時の幼児の身体、それから大人の身体の4つです。大人の身体と言葉を吸収することによって身体をつくっていく3歳児までの身体は全然違います。また胎児の身体というのが本当に凄い。それと同じような意味で、死者の身体。イメージではなくて、死者にも死者の身体がある。そうした身体を結び付けるというのが、天使館の身体づくりの基本になっています。
 具体的には、例えば、身体を動かしながら、日本語を朗読して、それを一生懸命聞く練習をしています。単純に、まず一生懸命聞く。それから、母音、子音の発声の仕方、例えば「あ」は喉の奥のほうで発声するし、「う」は唇の線が「うー」となるし、「え」は舌を使うとか、細かく1つ1つの発声を全部やり直します。オイリュトミー的な技法を用い、言葉の響きを全身で、動きの中で聞く。普通は3歳まではまだ記憶が形成されず、その時期に母国語を獲得します。「記憶を持つ前の身体」。そこに戻すためにそのような練習をするわけです。

──フランスのアンジェで1カ月ほど、ダンサーを指導されたそうですが、4つの身体のこと以外にどういったことを教えたのでしょうか。
 もの凄く簡単なことです。身体が街角でどう変わるかなど、身体感覚の練習です。身体に関する感覚を再認識する作業ですね。身体の鍛え方には2種類あって、1つは一生懸命バーベルを上げ、腕立て伏せをするなどトレーニングによって身体を作る方法。もうひとつは、気が付く、という身体のつくり方です。こちらの方が変わり方の大きい場合があります。「識る」ということは、凄く身体が変化するのです。

──言葉の意図的な働きかけにより身体が変わるということがあるのでしょうか。
 言葉の意味を理解するのではなくて、言葉の力を生かし、イマジネーションとして使えれば、身体は変わります。言葉によって身体の持っている根源的なものを喚起するというのは、土方さんと共通した部分です。大野さんはイマジネーションの力でダンスをつくりましたが、それができるかできないかというのは、ダンスの1つの分岐点ですね。

──『花粉革命』(*3)では何カ国も行かれていますが、そこでいろんな身体に出会ったことで身体や振付に影響がありましたか。
 例えばニューヨークとフランスという異なった場で振付ける場合もそうですが、その作品をどの国で上演するか、という違いは凄く大きいのです。観客によって、その見え方が全然違うからです。例えば、ドイツでつくって発表した『Das Schinkiro』は、出演者の国籍が全部違いました。その違いからくる振付が自然と出てきますが、それを見るドイツ人は必ずしも国籍の違いは見ません。日本だと国籍の違いに目がいきますが、ヨーロッパの人は全然見ない。そこで何が為されているかのほうが重要であって、逆に国籍など問題にしたら、むしろおかしいという感じになってしまう。男と女の違いも同じです。ドイツの更衣室では、男女が全員裸になって普通に会話しています。ダンサーをジェンダーや国籍、世代の差などで見ないといったグローバリズム、要するに、徹底的に素材として見るという見方です。今の作品の傾向として、個々の差異や個性的なものをグローバルな文化の中で、もっと大切にしようとして造る場合と、むしろ素材として冷たく扱う場合という、2つの違いを凄く感じますね。
 2000年の頃、グローバリズムがダンスの中に入り始めた頃は、日本人にとってジェンダーや国籍を超えた物凄く抽象的なダンスが、先鋭的で新鮮に思えた時代が確かにありました。それでフォーサイスの初期の作品などに刺激を受けたこともあります。でも作品をつくるとなると、私はダンサーを素材としてはどうしても見られなくて、どういうダンサーか、この人は男なのか、女なのか、国籍はどこで、どういうふうに育ってきたのだろうか、といったことを丁寧に知りたいと思うのです。でもそんなものを全部取っ払って、抽象的な1つのダンサーという方向で作品をつくったらどうなるのかなと、ふと思ったりもしますが。
 
──2013年の海外での活動予定は?
 1月から1カ月間、アンジェやセントナザルなどフランスに行き、エマニュエル・ユインとのデュオ作品「SPIEL/シュピール・遊戯」を製作・上演します。5月にはその作品を日本で上演します。

──現代作曲家や現代美術家など他分野のアーティストとの共同作業に関して、これから考えていることはありますか。今までそれが少なかった理由は?
 おそらく、私は音楽的イメージが強い反面、絵画的、物質的なイメージが弱いので、これまでは高橋悠治など音楽家との共演が多かったのは事実です。ただ、機会があれば現代美術家ともやってみたいと思います。
 実はドイツの作家アンゼルム・キーファーと自分のダンスを組み合わせたいという思いはずっとありました。キーファーは、タブローを超えて、素材そのものにある見方を与えることによって素材自体を変質させるような作家です。彼はどこかの工場をそのまま作品にしたり、掘った穴を作品にしたりしていましたから、キーファーの持ってくるオブジェなどとやってみたらどうなるかという興味があります。
他には、松井冬子という日本画家に舞台美術をやってもらいたいですね。松井さんは幽霊を画いていますが、画いているのではなく、幽霊になっているような…。日本画でありながら非常に新しいという感じがしますね。

──その他、これから新たにやってみたいことがありますか。
 漠然とですが、『ハヤサスラヒメ』を女性だけで造ったらどうなるのだろうか、と考えています。というのは、私はダンサー主義ですから、男性の身体と女性の身体は全く違うので、作品をつくる上ではそこはかなり意識しています。『ハヤサスラヒメ』は男性だということをハッキリ意識して作られた作品なので、次はあれを女性でやったらどのような作品になるのか、ひとつの課題になっています。

──これからも笠井さんのチャレンジがいろいろ見られそうで本当に楽しみです。長時間どうもありがとうございました。
 
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