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井上安寿子
井上安寿子(いのうえ・やすこ)
1988年生まれ。父は能楽観世流九世観世銕之丞、母は京舞井上流五世家元井上八千代。2歳より稽古を始め、曾祖母である四世井上八千代および五世に師事。3歳のときに「四世井上八千代米寿の会」で初舞台(上方唄「七福神」)。2006年、17歳で井上流名取となる。2011年、京都造形芸術大学卒業。2013年、自ら主宰する「葉々(ようよう)の会」発足。2015年から「祇園女子技芸学校」を経営する学校法人八坂女紅場学園(やさかにょこうばがくえん)舞踊科教師を務める。公益社団法人日本舞踊協会会員。京都造形芸術大学 舞台学科非常勤講師。
片山家能楽・京舞保存財団
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/k-kanze/
*下河原
豊臣秀吉の正室である北政所が高台寺を建立し、高台院湖月尼として晩年を過ごした地域。それに伴って舞芸の達者なものが移り住んだ。高台院が亡くなった後、そうした人々が「山根子芸者」と呼ばれる町芸者になったことが花街のはじまり。嶋原の差配を受けて郭営業が許可された花街のひとつ。
*三世井上八千代(1838〜1938)
本名・片山春子(旧姓・吉住春子)。大坂住吉の社家だった吉住彦兵衛の次女。サト、アヤに師事し、名取となる(芸名・井上春)。夫は観世流・六世片山九郎右衛門。1872(明治5)年に開催された第1回京都博覧会の余興として「都踊(後の都をどり)」を振付け、これまでの座敷舞とは一線を画する群舞を創案。これがきっかけとなり、後に、井上流は祇園を出ず、祇園は他の流儀を入れないという今に繋がる取り決めが行われることとなった。
*舞台『京舞』
1960(昭和35)年に明治座で初演された北條秀司の作品。三世井上八千代の晩年(82〜101歳)にスポットを当て、内弟子の愛子(四世)に厳しく稽古を付ける姿を通して、芸の道を描く。
*四世井上八千代(1905〜2004)
本名・片山愛子。10歳で舞妓としてデビューし、13歳で三世井上八千代の養女として内弟子となる。14歳で名取(芸名・井上愛子)となり、1923(大正12)年から八坂女紅場学園舞踊科教師。夫は三世の孫である観世流・八世片山九郎右衛門。三世の高弟である松本さだとともに井上流を隆盛に導いた。人間国宝。
*五世井上八千代(1956〜)
本名・観世三千子。祖母は四世井上八千代、父は観世流・九世片山九郎右衛門、弟は片山清司(十世片山九郎右衛門)。夫は観世流・九世観世銕之丞。祖母に師事し、1975年から八坂女紅場学園舞踊科教師。人間国宝。
*『牧神の午後』
東京文化会館が「日本舞踊×オーケストラ 伝統の競演」として企画したもので、バレエの名作である『レ・シルフィード』『ロミオとジュリエット』『ペトルーシュカ』『牧神の午後』『ボレロ』を日本舞踊の家元が振付や出演に流儀を超えて参加した。全体の演出を担当したのは花柳壽輔。五世井上八千代は、『牧神の午後』を壽輔と共同振付し、牧神(壽輔)、ニンフ(八千代)で競演した。
平成29年 都をどりin春秋座
(2017年4月/京都芸術劇場 春秋座)
都をどりin春秋座
写真提供:祇園甲部歌舞会
撮影:ハヤシフォート
都をどり 公式ウェブサイト
http://www.miyako-odori.jp/
*必死のパッチ
極めて必死であることを意味した造語。「必死」という言葉を強調した最上級の表現とされ、主に関西で用いられる。
Artist Interview
2017.12.5
dance
Traditional Kyoto Dance Artist Yasuko Inoue and her vision as a young successor of the art  
若き後継者の視線 京舞井上流の井上安寿子  
京都の花街(かがい)である祇園甲部の芸妓・舞妓が舞う「京舞井上流」。江戸時代に上方舞、能、人形浄瑠璃の人形振りなどの影響を受けて創設されて以来、代々女性によって受け継がれてきた。京舞井上流は、女性の身体ならではの美しい所作、腰をおとして背筋を伸ばして舞う力強さ、表情ではなく舞にすべてを込める「静の舞」に特徴がある。その若き後継者が、1988年生まれの井上安寿子だ。大きく時代が変わる中、母は人間国宝の五世井上八千代、父は能楽観世流家元の九世観世銕之丞という家に生まれた彼女の目から見た京舞井上流の世界とは?
聞き手:木ノ下裕一[木ノ下歌舞伎主宰・ドラマトゥルク]

──京舞井上流(以下、井上流)は、日本舞踊のなかでも特異な存在です。2013年には井上流の歴史を丹念に辿った「京舞井上流の誕生」(岡田万里子著)という大著も出版されています。京都の花街である祇園甲部の芸妓・舞妓が習う唯一の流儀であり、京都の春の風物詩「都をどり」を明治時代に創始したのも井上流です。
 僕は京都造形大学舞台芸術学科の数年先輩として、在学中から安寿子さんと交流させていただいていました。当時は、大学の発表公演で安寿子さんが高い所に昇って照明の吊り込みするのを見て、井上流の後継者に何かあったらどうしようと、内心ハラハラしました(笑)。

 そんなこともありましたね(笑)。私はどちらかというと迷惑をかけることのほうが多かったのですが、色々な方とお会いできたという点で、大学生活はありがたい経験でした。元々人見知りだったのですが、たくさんの人と交流していかないと何も得られないので積極的になりましたし、大学という環境に身を置いてとてもよかったと思っています。
 小さいころから周囲に「がんばりや」と言われ続けていましたし、高校を卒業したら「このまま舞の世界に入っていくんだろうな」と思っていたので、母から「大学どうする?」と聞かれた時は、驚いてしまって。進学するという選択肢もあるんだと思って、京都造形芸術大学に行かせてもらいました。四世の高弟である井上政枝師匠からは「あと何年したら卒業すんの?」とすぐにでも舞の世界に入ることを期待されていたので、がっかりさせてしまいました(笑)。

──どうして舞台芸術学科を選ばれたのですか。
 将来は舞台に立つ仕事をやっていくので、舞台をつくるプロセスを知りたいと、裏方が学べる学科を選びました。ダンスも芝居も観に行くことはありますけど、それらがどう成り立っているのかは知りませんでした。それを細かく学びたいと思いました。

──井上流は能楽との関係が深く、三世、四世ともに観世流能楽師と結婚し、安寿子さんのお父様も九世観世銕之丞さんです。3歳で初舞台という物心つく前から芸事を始める環境でいらしたと思いますが、お師匠さんのお稽古以外は、どんな習い事をされたのでしょう。
 中学生からお三味線を習い始め、しばらくしてお囃子も始めました。今もお囃子と長唄は習っています。能は祖父(片山幽雪)と叔父(十世片山九郎右衛門)に小さい頃から習いましたが、二人とも自分の舞台があって忙しかったこともあり、継続的にというよりは時間がある時に稽古をつけてもらう感じです。小さい頃は子方として何度か舞台に出さしてもらいました。ウチの流儀の場合は、仕舞のような歩みがあったりしますので、多分やっていた方がお腹に力は入ると思います。

──井上流は、江戸時代に井上サトによってはじまり、代々女性によって受け継がれてきました。曾祖母である四世井上八千代、お母様である当代五世家元ともに人間国宝です。
 ええ。サトは1767年生まれで、小さい頃に街のお師匠さんからそれなりの舞踊の手ほどきを受けていたようです。花嫁修業のためにお公家さんの近衛家に奉公に行き、普通の家では見られないような宮中文化、お能や白拍子舞などを見て、井上流の基盤にしたと聞いております。全部伝え聞いた話なので本当のところはわかりませんけれど(笑)。この方は近衛家で大切にされていたようで、この時代からすると適齢期を大幅に過ぎた31歳まで勤めて、宿下がりを許されます。その後も、近衛家や公家衆に大切にしてもらって、そのうちに廓の嶋原で舞踊の師匠になります。京都で唯一幕府に許された廓なので、それなりに重宝されたそうです。
 宿下がりをする時に、直接仕えた老女・南大路鶴江さんから「そなたのことは、玉椿の八千代にかけて忘れぬ」と名残を惜しまれました。和歌を文化の基盤に持つ公家社会で、椿は和歌の世界では八千年の齢を持つ長寿の象徴とされています。後にそれに掛けて八千代を芸名にし、「井上八千代」を名乗りました。それで、井上流では椿の花を流儀のお花にしていますし、近衛の奥方様からいただいた井菱の紋を流儀の紋に致しました。井上流の名取は必ず椿の扇をいただくことになっています。

──二世(本名・井上アヤ)は初世のお兄さん(儒者の井上敬助)の娘、つまり姪に当たる人で、後に初世の養子になります。
 初世と二世でほぼ流儀がつくられたと言われています。二世の功績は、井上流の特徴である人形振り、人形浄瑠璃(文楽)の型を取り入れたこと。あと、元々アヤさんは金剛流の野村三次郎に私淑したらしく、能楽の要素も取り入れました。女性が男性に、しかもお能を習うということはなかなか許されない時代だったので私淑したらしいのですが、そのレベルでできるような振付ではないので、それなりに手ほどきを受けていたのではないかと思います。二世はあまり話題に出ないですけれど、考えてみたら、ウチの流儀の基、特徴をよくつくってくれはったなと思います。こうして井上流はレパートリーを増やしていきました。初世と二世は、年齢も近く本当に仲良しだったようで、円滑に芸が伝わったようです。

──資料によると、初世、二世、三世が一緒に生活していた時期もあったそうですね。
 三世(本名・吉住春子)は元々大坂住吉の社家の方。大坂屋という屋号でお商売をしていた人の子どもで、二条辺りに越してまいりまして、町のお師匠さんに手ほどきを受けていたそうですが、筋が良かったそうでそのお師匠さんに手を引かれ入門したと聞いています。初世と二世のお弟子さんで両方から手ほどきを受けているので、色々なことを吸収されました。一番の功績は「都をどり(当初の表記は都踊)」(祇園甲部の芸妓・舞妓の舞踊公演)の振付に抜擢され、公演が成功を収めました。これより、井上流は祇園町とより強固な関係を結びました。また、この人が初めて「井上流の名取」になりました。

──井上流の名取第1号ということですね。
 そうです。ここでやっと流儀というか、制度を持とうということになったんでしょうね。家族と廓の中でやってきたことを、外の人に教えることを許されたのが三世の時です。

──初世、二世の時に流儀の基本ができて、三世で流儀として普及するようになり、「都をどり」が始まった。
 はい。明治維新の東京遷都で寂れてしまった京都再建のため、明治5(1872)年、博覧会が企画されました。その時に松の家という貸席屋で行われた小規模な「都踊」が最初だったそうです。当時は祇園の八坂さんの石段下とか、下河原(*)にも芸者さんがたくさんいたそうで「山根子芸者」と呼ばれていました。一列に並んで団扇を持って踊った伊勢古市の「亀の子踊」などを参考に、山根子芸者などが踊った「都踊」の振りをつくったと聞いています。

──三世(*)は写真で拝見するとすごく身体の大きな方ですよね。101歳の長寿で、晩年までメンチボールを食べていらっしゃったとか。
 スパゲッティもお好きだったとか、ビールを「お薬」(笑)と言って呑んでからお稽古するような方だったと聞いています。お相撲さんも好きで、贔屓が負けたら凄く怒るような……逸話が多く残っている方で、三世を主役にした新派の舞台『京舞』(*)でもいろいろなエピソードが描かれています。

──女性で繋いできたことも井上流の特徴ですが、もうひとつ、それが血縁によってのみ受け継がれていないというのが特徴になっています。三世は大坂の人ですし、四世は舞妓さんで出ていたのが舞の筋があるということで、三世の弟子・松本佐多がお師匠さんのところに連れてきました。
 曾祖母である四世は、舞妓から内弟子になって才能が開花し、第二次世界大戦など色々なことを乗り越えて、今の五世まで井上流を繋いでくれました。

──僕が大学時代、八千代先生(五世)が大学に来て舞ってくださったのですが、古典を観たことがない学生たちは京舞なのにコンテンポラリーダンスみたいな感じがすると言っていました。三世と四世は体格が全く違いますし、血縁じゃない分、自分の身体と向かい合うという意味でコンテンポラリーな匂いがしたのだと思います。
 三世も四世も五世も、そして私もそれぞれ体格が違っています。ですから、四世にスッとできた振りが私にはできないということもあります。四世は年齢によって舞方を変化させていくということもあったように思います。自分の現在の身体に見合った動きを見つけながらずっと舞踊家として生きる、そういうところが四世は自然にできた人でした。もちろん身体の使い方が分かっているからでしょうけれど。若い時は舞というよりも踊りじゃないかと思うぐらい激しい動きだったようです。

──晩年の四世の舞はゆったりしているというか、ほとんど動いていないかのような印象がありますが、お若いころは激しかったのですね。
 実は何も動いていないように見えてスッと出るというのが一番つらいんです。身体に負担がかかりますから、ゆっくり動くのも、速く動くのとはまた違うしんどさがあります。結局、お腹が定まっていないとどんな動きもできません。

──初世は一つの流儀を興した創始者としてのクリエイティブさ、二世は流儀のスタイル、つまり芸術をつくるという内側へのクリエイティブさ、三世は組織をつくり自分たちの流儀を確立するという外側へのクリエイティブさ、四世はその振りをどう継承し、自分の身体にどう活かし、次に手渡していくかというクリエイティブさ──それぞれに工夫と役割があったように思います。
 四世ももちろん新しい振付のレパートリーを増やしていますが、それとは別に、やっぱり他人である師匠から受け取ったものをどう大切に繋いでいくかをずっと考えてはったと思います。二世の時代、舞踊家が名を知られる方法として、歌舞伎の振付師になることが一番でした。井上流の舞は、武智歌舞伎などで振り写しをしたことはあっても、ウチはそこを積極的にしてこなかった。代々女性で繋いできて、〈男性がやる女性〉の振りをつくらなかったこともあり、ありのままの女性を見ていただく動きになりました。なので、女性のように見せるためにシナをつくったり、身体を小さく見せるような動きがないのです。

──だから逆に力強く感じるのですね。井上流は初世・二世の頃に、当時、一世を風靡した人形浄瑠璃(文楽)と交流し、人形振りを積極的に取り入れました。
 人形振りは、人形の動きをやっているというのではなく、〈人の動きを映している人形の美しさ〉を人間の身体でできるかということをやっているんです。すいません、意味が分からないかもしれないですけれど(笑)。

──いえ、分かりますよ。入れ子になっている……つまり、お人形さんになっているのではなく、人を模した人形の動きを、人間に映すということですよね。
 はい。二世さんはお人形さんをよう見てはったなと感じることがあります。お人形さんが動いていたのがグッと止まる時、人形は重みがあるから、止まってからフッという間があるんですが、振付でそこまで映して取り入れているんです。そういうところがあるので、お客様に想像力をもって見ていただかないと「何してんのやろ?」ぐらいにしか見えないところがたくさんあって、分かっていただくのが難しい流儀だと思います。

──二世が金剛流の野村三次郎に私淑したということですが、井上流では能との関わりが続いてきたというのも特徴です。
 はい。三世は片山晋三(六世片山九郎右衛門)と結婚し、四世も三世の孫に当たる片山博通(八世片山九郎右衛門)と、母の五世も東京の観世流の分家である観世銕之丞と結婚したので、三代にわたって観世流と深い関係を結んでいます。一つ屋根の下に2つの芸能が一緒に住むという状態が長く続いていますので、母は叔父の九郎右衛門と能様式による舞を披露する「能・狂言・京舞の会」を何度かしており、能と同じ演目の『葵上』や『邯鄲』などを致しました。

──五世はオーケストラが演奏するドビュッシーの『牧神の午後』』(*)のニンフとして舞われたこともあります。
 日本舞踊とオーケストラでやろうという企画があり、先代の花柳壽輔(現・二代目壽應)先生にお誘いいただき、『牧神の午後』を壽輔先生と共同で振付し、一緒に舞わせていただいたようです。2015年には、泉涌寺で『ボレロ』を舞うという企画もありました。オーケストラを指揮された西本智実さんと母が以前からお付き合いがあり、実現しました。

──五世は画期的なコラボレーションを色々とやっていらっしゃいます。
 今までずっと正統なものをやってきたので、ちょっぴり浮気心が出てきたというか、そういうことだと思います(笑)。

──井上流が支えているものに「都をどり」があります。祇園甲部の舞妓さんや芸妓さんの学校である祇園女子技芸学校(八坂女紅場学園)で井上流を教えていて、安寿子さんも2015年から五世とともに講師をされています。
 「都をどり」はお座敷で見るような静かなものではなく、ちょっと賑やかなエンターテインメントです。最初は狭い貸席で行ったのでどうだったか分からないですけれど、1度も幕を閉じないで背景を変えて四季を巡っていく様を舞うのが今に続いています。初盤は「置歌」というプロローグみたいなもので舞台が銀襖の御殿の造りになっていますが、井上流は元々宮中にお世話になったこともあるのでそこからはじめさせていただく……というのが由縁のようです。「都をどり」で井上流の名が上がったことは確かですし、これによって花街との付き合いが強固なものになりました。

──何度も歌舞練場で「都をどり」を拝見していますが、2017年は歌舞練場が改修中のため京都造形芸術大学内にある劇場「春秋座」でやりました。劇場のスペックが全く違うので、照明もいつもより明るく、盆もすごい速さで回っていました。それを見て、当時、三世が見せたエンターテインメントの感動、舞台の生命力というのは、きっとこのぐらいショッキングなものだったんじゃないかと思いました。奥ゆかしいものを見たというよりも、当時はハチャメチャをするエネルギーを見たという感じだったのではないでしょうか。
 ありがとうございます。今は歌舞伎にしても、舞台装置とかも新しいものを使うものがたくさんありますから、ビックリしてもらえる要素をどうやって取り入れるかというのは毎回の課題です。と同時に、ウチらしいゆっくりしたものも楽しんでいただきたいですし、その辺りの兼ね合いを考えています。

──「面白いものを見たなあ」という時代に求められるテンションと、いわゆる伝統の奥深さの両立ですよね。
 はい。ですので、母は必ず1景はウチらしいものを入れています。地唄のものを入れてみたりする時もありますし、さまざまな工夫を加えています。

──祇園甲部は井上流ですが、他の花街は別の流儀ですよね。
 時代によって微妙に変遷はありますが、今、五花街では、先斗町が尾上流、宮川町が若柳流、祇園東が藤間流、上七軒が花柳流、そして祇園甲部が井上流と決まっています。八坂女紅場学園には地方さん(三味線・唄専門)と舞妓さん、芸妓さんが辞めるまでずっと通っていて、舞踊科の他に清元や常磐津、地唄、三味線、囃子科などがあり、華道、茶道、絵画、書道も学んでいます。他の花街それぞれにこうした学校があります。

──祇園での舞は、井上流の舞踊家の舞とはまた違うものですよね。
 違うでしょうね。振りは教えますけれど、「これはやっぱり芸妓さんの舞やな」という、私らでは出せないような雰囲気というのがたくさんあります。井上流の振りを通して彼女たちは芸妓さんらしい舞を舞っているわけです。

──舞妓さんや芸妓さんに教えるのとは別に、井上流という芸術を伝承することが必要かと思いますが、どのような形で伝えられているのでしょう。流儀の現状は?
 それが大変な状況でして。他の流儀はたくさんのお弟子さんをとっていらっしゃいますが、井上流は祇園から出ることをしなかったし、お師匠さんが本当に力のある方々だったのでそのお弟子さんたちが「自分はまだまだ不十分」と思われてお弟子さんをとることをしなかったというか‥‥。それで、今、(師範を許されているのは)四世のところで修行していた80代になる高弟の3人(かづ子、政枝、和枝)と、母と、母のお弟子さんの葉子さん、そして私の6人しかいません。ウチは本当に小さい流儀なんです。

──じゃあその6人で甲部の芸妓さん、舞妓さんを教えてらっしゃるのですか。
 そうですね。65人ぐらいをこの6人で教えています。

──なるほど、日本舞踊のなかでこれだけ独自性がある流儀なのに、継承においては考えられないぐらい大変な状況ですね。そういう中で安寿子さんが後継者として背負っているものが、大きく分けて3つぐらいあるように思います。1つは花街の芸能的な部分、次が井上流を観客に向かってどう開いていくかということ、最後にコアメンバーをどう増やしていくかということでしょうか。
 そうですね。お客様に向けてということで言うと、この前、大学に講義に行ったのですが、日本舞踊を見たことがありますか?と聞いたら50人ぐらいの内1人しかいなかったんです。これは相当厳しいなあと思いました。なので「分かりやすくありたい」という気持ちはありますが、でも舞には分かりやすいものがあまり合わないというか、綺麗じゃないと思うんです。
 例えば、地唄ものには男女の恋の話が多いのですが、じゃあ西野カナの歌で舞えるかというと、どうだろう? やる意味があるのだろうかと思います。分かりやすさを求めると、扇をもって釣り竿の所作をするのが分かりにくいのなら釣り竿を持てば良いということになってしまいます。こちらが寄って行き過ぎると、多分失敗するのではないでしょうか。分からない部分を想像していただくというのが、舞を一番楽しんでいただけることのように思います。そのために、事前に知識をお客様に伝えることは大切にしたいです。
 それから、井上流らしい芸をどうやってそのまま継いでいくかというのはとても大きな課題です。なぜウチがこんな少人数で人間国宝が出るような流儀になったかというと、やはり初世、二世、三世時代のものを四世がそのまま継いでくれて、保持できたからです。もちろん四世の力量、才覚もあるのですが、初世、二世、三世の時代のものを四世が円滑に繋げてくれた。それには花街との付き合いが一番重要だったと思っています。
 祇園は、今は地方さん(三味線・唄専門)と立方さん(舞専門)と2つに分かれていますが、地方さんもお姉さんに習ったものをずっとお座敷の狭い空間の中で繋げてきてくださった。井上流では地唄や長唄などでもちょっとテンポが違ったり節回しが違ったりするのですが、その独自のものを繋いできてくださった。その両方があって、四世が人間国宝になれたのだと思います。
 その地方さんも今は不足しているので、これから難しい時代に突入していくと思います。現在、井上流と一緒にやっている地方さんは、10数人しかいませんから。元々ウチには義太夫さんもいたのですが、それがまずいなくなってしまった。今は義太夫さんや一中さん(一中節の奏者)は外から招いています。これからできなくなる演目も増えていくのではないでしょうか。以前は素人さんのおさらい会でも地方さんの演奏でできていましたが、テープの会も増えています。ウチは普通に市販されている長唄などの音源が使えないことも多い。幸い名人の唄やウチの地方さんが弾いているテープがたくさん残っているので、今あるものは大切に保存しなければいけないのですが、整理が追いついていません。大学に預けているものもありますが、そうするとなかなか取り出せなくなってしまうので‥‥。

──2013年には安寿子さんの自主公演「葉々の会」を立ち上げられました。五世、かづ子さんや政枝さん、芸妓さんも含めていろいろな世代の京舞の粋を見られる会になっています。
 私が勉強する機会を公の場で与えていただいています。できれば新しいお客様に、井上流にも私のようなイキッたものがおります(笑)、というのを見ていただければと思っています。本当は母も他の方も出ない、私だけの会をしないと意味がないのかもしれないですが、違う世代の舞が揃うのも見所だと思います。そういう意味では、私よりも下、小さなお子さんのものも見ていただけたらいいかもしれません。

──今年度から舞台芸術学科の非常勤講師として、後輩に日本舞踊を指導されています。いかがですか?
 本当は前期で手ほどき物の地唄など4曲仕上げるつもりだったのですが、2曲しかできませんでした。ちょっと無謀だったかなと(笑)。着物を着たことがない人がほとんどで、正座をしたことのない人も多かったので、まず立ち座り、お辞儀の仕方からはじめました。でもまずそれができない。靴を履いた生活をしているので、指先をあまり使わないからつま先に力が入らないんです。
 私が教えるのは、日本舞踊には型というものがあるということです。あなたたちにはいろいろな発想があって、自分が考えたものをやりたいと思っているだろうけど、制約された芸能というものもあるからそれをまず体験して欲しいと伝えるところからはじめました。決まった括りのある中でどうやって自分らしさを表現するのか、ある程度できるようになったら考えて欲しいのですが、まだ振りを覚えるので精一杯です。ちょっとやったことのある人は独自性を出そうとしますが、それは井上流ではないと(笑)。
 舞踊をはじめると自分の身体に目を向けるようになります。別に京舞でなくてもお稽古事は大体、お師匠さんと1対1で稽古します。身体の特徴をひとりの人にジッと見られることはそんなにありませんし、ましてや動きに関して指摘されることはまずありません。「あんたさん、いがんでるで(歪んでるで)」と突然言われたりするわけです。私も学生に「中心曲がってんな」とよく言いますが、こういう身体と向き合う体験もして欲しいと思っています。
 後期でもう1曲おさらいをしたら、「さくらさくら」の音源を使って、学生たちに自由につくってもらうことも考えています。京舞の要素をちょっと知ったあなたたちの中でどういうふうにつくるかというのをやってもらいたいと思っています。

──安寿子さんご自身は、どういう舞踊家を目指されていくのでしょうか。
 私はまだまだ宿題がたくさんあるので、井上流の舞を正しく吸収していくことが第一です。もう、必死のパッチ』(*)なんですよ(笑)。教えることにしても、井上流はお師匠さんとお弟子さんが向かい合う鏡稽古なので、指導する側は振付を左右逆にしなければいけないのですが、それをやるだけでも混乱しますから(笑)。

──日本舞踊という大きな括りで言えば多くの流儀がありますけれど、これまでは流儀単位での思考でよかったのが、多分、安寿子さんの時代になってくると日本舞踊全体を盛り上げていかないといけなくなりますよね。
 そうなんです。今では協会員も少なくなっていますし、日本舞踊の会も少なくなっています。今までは自分たちの流儀だけで成り立っていたものが今後は流儀を超えて連絡をとりあってやっていかなければならなくなると思います。緊張しますが、これからは他の流儀の方と一緒に舞台に立つことにも挑戦していけたらと思っています。今、私たち若手の舞踊家とちょっと上のお師匠さん方で、京都の神社仏閣を10カ所ぐらい公演して回ろうという企画を構想しています。

──勧進公演みたいなことですね。
 そうです。まだ仲間うちで話しているだけですけれど、まずは八坂さん(八坂神社)に行きたいと思っています。日本舞踊を見てくださるお客様は限られた方ばかりなので、神社仏閣でやることで居合わせた方にも見ていただけますし、外国の方にも見ていただける。それで日本の舞踊をアピールできる場ができたらいいなと思っています。ちなみに、お師匠さん(五世)は、京都御所で舞うのが夢なんです。初世が京都御苑の仙洞御所で舞っていますから。

──野外だったら寺社仏閣も見られて、観光にもなります。急に開放されていきますね(笑)。
 すごく閉鎖的な流儀だったのに……(笑)。それがどうなるかわかりませんが、今のうちなら失敗できますし、若いうちだからできることに挑戦したいと思っています。

──実現するのを楽しみに待っています。今日はどうもありがとうございました。
京都の花街および学校法人八坂女紅場学園の成り立ち
 現在の京都には、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東(これらを総称して五花街と呼ぶ)および嶋原という花街がある。五花街はそれぞれ芸妓や舞妓が芸事を学ぶ稽古場(祇園甲部と宮川町は学校法人。祇園甲部は京舞井上流、宮川町は若柳流、先斗町は尾上流、上七軒は花柳流、祇園東は藤間流と花街毎に学ぶ舞踊の流儀が異なる)と歌舞練場を有し、春秋に公演を行っている(祇園東は秋のみ)。こうした花街を代表するのが、花見小路など情緒あるまち並みを残し、「八坂女紅場学園」で井上流を学んだ芸妓・舞妓による「都をどり」で知られる祇園甲部だ。
 こうした花街の歴史は、16世紀にまで遡る。日本では、娼妓を特定の地区に集住させる(=遊郭をつくる)ことで都市の風紀紊乱を防ぐ政策が行われていた。この嚆矢となったのが、豊臣秀吉の肝入りで1589年につくられたと言われる二条柳町だ。二条柳町の遊郭は、その後、場所を六条三筋町に移転。初の幕府公認遊郭となり、1641年には市街から離れた西新屋敷傾城町、通称「嶋原」に移る。その後、江戸の「吉原」、大阪の「新町」など、他の大都市にそれぞれ1カ所のみという限定で、公認遊郭が設けられていく。
 各都市1カ所の公認遊郭といっても、実際には他の地区で娼妓の商売が行われなかったわけではない。茶屋の茶たて女、湯屋の湯女、宿屋の飯盛女など、他の業態を展開しつつ、商売を行うところもあった。他都市では最後まで公認遊郭はひとつのみという建前が守られたのに対し、京都においては、嶋原の差配を受ける(上納金を出す)という条件で、祇園社(現在の八坂神社)門前の祇園などで茶屋営業・遊女営業が公認されていった。
 しかし、こうした京都の花街は、明治維新に伴いその体制や役割を新たにすることになる。維新により、天皇が京都から東京に移ったことで危機感を募らせた京都府はさまざまな近代化施策「京都策」を打ち出す。そのひとつが住民の自治組織だった町組を地域的にまとめた番組として再編したことであり、例えば、国の施策に先駆けてつくった「番組小学校」もこうした番組で運営され、町衆からの募金を集めて番組の会所等と兼ねた校舎が建設された。
 花街についても、国が1872(明治5)年に「芸娼妓解放令」を出し、本人意志ではない人身売買的な慣行を廃止する2年前、京都府では従来の嶋原による差配の廃止を発令。営業免許地以外での茶屋・遊女屋の新規開業を禁止するとともに、番組毎に同業者による合同会社「茶屋商社」「遊女商社」を設立させて府の直轄支配に移行した。
 また、維新では、女子に対する授産または教養のための施設「女紅場」が各地につくられるようになった。これを受けて、祇園があった下京第15区(区長は茶屋「一力」の主人・杉浦治郎右衞門)では、いち早く芸娼妓が裁縫、養蚕などを身に付ける「婦女職工引立会社」の設立と、授産のための用地として明治政府の上地令によって京都府に没収されていた建仁寺などの広大な土地の払い下げを願いでる。府の許可により、祇園だけでなく、他の遊所地区にも区内の芸娼妓がすべて所属する婦女職工引立会社が設立され、花街を統治する新たな基盤となった。
 1871年、京都府は豪商に呼びかけて日本ではじめての博覧会を試みる。1872(明治5)年には有力者が「京都博覧会社」を設立し、府との共催により殖産興業を目的とした「第1回京都博覧会」を開催。その余興として、芸娼妓による演舞が披露される。画期的だったのが、祇園で舞踊師匠をしていた片山春子(三世井上八千代)が伊勢古市の「亀の子踊」を参考に、集団で舞い、終始幕を閉めることなく背景を変えることで場面転換する新演出の「都踊」(現在の「都をどり」のルーツ)だった。これが契機となって、今に繋がる祇園と井上流の関係が生まれる。
 都踊の成功もあり、下京第15区婦女職工引立会社は、祇園の払い下げ地に第2回京都博覧会の都踊の会場となる旧・歌舞練場を開場し、徐々に歌舞音曲の稽古を行うようになる。また、製茶場・養蚕場などの授産施設、借家、花見小路などの新路を整備するなど地域開発を行う。こうして花街の有力者が構成員となった同社が広大な土地を共同所有して運用し、芸娼妓の統制と教育を行う機関も担うという今に繋がる祇園の特異な仕組みができあがる。
 同社は1881(明治14)年に「八坂女紅場」に改称され、1902(明治35)年には法人格を取得して「財団法人八坂女紅場」となる。第二次世界大戦後の1951年、私立学校法が施行されたのに伴い、「学校法人八坂女紅場学園」に再編される。
 同学園は、現在も祇園甲部(1881年に一部が祇園乙部として独立。後に祇園乙部は祇園東に改称)の土地を共同所有し、景観保全などを行うとともに、舞妓・芸妓が学ぶ「祇園女子技芸学校」(教科は、舞踊、長唄、常磐津、地唄、小唄、清元、三味線、能楽、鳴物、華道、茶儀、書画)を運営。花街の文化を伝える重要な役割を果たしている。
 
【参考文献】「遊郭・遊所研究データベース」、論文「花街らしさの基盤としての土地所有」(松田有紀子)、「京都・近代化の軌跡」(一般社団法人京都経済同友会)、「京舞井上流の誕生」(岡田万里子)
 
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