The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Presenter Interview
Connecting the theater people of Asia   The Japan Foundation international collaboration program
アジアの演劇人を繋ぐ国際交流基金の国際共同制作
レンドラ・ベンケル劇団(インドネシア)
『スレイマンの子孫たちの祭事』

(1990年1月/ラフォーレミュージアム赤坂)
スレイマンの子孫たちの祭事
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インドネシアの詩人・劇作家・演出家のレンドラ(1935-)の作品。スカルノ時代の末期、反体制知識人への圧力を逃れて1964年から67年までアメリカで過ごしたレンドラは、帰国してすぐに中部ジャワのジョクジャカルタに「ベンケル劇団」を結成、本作品はその旗揚げ作品である。近代化の過程での集団の脅迫と欺瞞、個の阻害、テクノロジー社会への批判をテーマとしながら、声高にメッセージを叫ぶのではなく、一貫したストーリーとセリフを排除し、意味のない音声とジャワ詩に強靭な身体表現を合わせた静謐なスタイルはセンセーショナルな反響を民衆の間に喚起し、レンドラを一躍時代のリーダーとする。これに続く活動によってレンドラは78年に投獄され、釈放後も85年まで一切のパブリックな行動を禁じられた。この日本公演は、レンドラが86年に復帰して以来、アメリカに続く2度目の海外公演となった。

タンハーラン・ピリピーノ(フィリピン)
『エル・フィリ2部作─愛と反逆』

(1995年9月/Bunkamuraシアターコクーン)
エル・フィリ
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スペインからのフィリピンの独立前夜を描いた、ホセ・リサールの「エル・フィリブステリスモ(邦題「反逆」)」を原作として、フィリピン文化センターの附属劇団「タンハーラン・ピリピーノ」が1991年に創作した大型ミュージカル。重厚な内容、フィリピンを代表する作曲家ラヤン・カヤブヤブによる感動的な音楽に、出演者の圧倒的な歌唱力、特にフィリピン・ミュージカル界のスターであるオーディ・ヘモラ、ポップス界の大物セレステ・レガスピといったキャスティングが相まって、フィリピノ語ミュージカルの記録となる大成功を収めた。1993年10月の日本公演でも大きな感動を呼び、再演の声におされて、「エル・フィリブステリスモ」の前編にあたる「ノリ・メ・タンヘレ(邦題「我にふれるな」)」が国際交流基金の協力のもとに制作され、95年9月に2作を前編、後編として昼夜連続公演し、大きな反響を呼んだ。東京公演は、93年のセレステ・レガスピに替わるモニク・ウィルソン(ロンドン「ミス・サイゴン」の初代キム)の出演も話題となった。

──1995年にアセアン文化センターは「アジアセンター」に改組されますが、事業方針の転換といったものはあったのですか。
アジアセンターになったわけですから、ASEANという枠に縛られずに対象国がアジア全域に広がったということはありますが、現代に切り込んでいくという基本的な考え方には変わりありません。また、新たに知的交流の担当部門が設けられましたが、芸術分野においても知的交流分野においても、必ずしも日本が前面に出るかたちで関わっていなくても、日本が介在することによって域内の交流を活性化することを目指す、という活動の方向性は、より明確になりました。

──海外の舞台を紹介するという点で、作品をそのまま呼んで紹介する「招聘公演」と「国際共同制作」という考え方の間にはかなり飛躍があると思いますが。
そこは私の中ではとても自然につながっています。現代演劇の招聘公演を行う場合、そこで語られているのが何なのかを理解するために、時間をかけて演出家の話を聞く、そしてもちろん、自分自身が考えなければならない。さらに、自分が咀嚼したことをどのように日本に紹介したいのかを整理しなければ上演できません。現地と同じ形で上演できないケースもあり、その場合は、日本でどう提示すべきかを演出家と話し合います。自分の理解を新たな形で提示するという意味では、演出家と共同で新しい作品をつくっている感覚があります。そのプロセスにおいては、招聘も一つの新しい作品をつくっているのと同じです。フィリピンのミュージカル大作「エル・フィリ2部作」がその好例です。これはフィリピンの革命前夜を描いたホセ・リサールの名作をミュージカル化したものですが、1993年に日本で上演した『エル・フィリ(反逆)』が脚本も音楽もあまりにもすばらしく、反響も大きかったので、その後、演出のノノン・パディーリャに働きかけて、『エル・フィリ』と対を成す『ノリ・メ・タンヘレ(我にふれるな)』を創作してもらい、95年に2部作として再び日本に持ってきました。実は『ノリ・メ・タンヘレ』の方が『エル・フィリ』に先立つ物語なので創作としては順序が逆になりましたが、脚本家や作曲家はすばらしい情熱でこれを成し遂げてくれました。
『エル・フィリ』は特別な例としても、招聘公演を丁寧にやれば、新作を共同で作っていくことへと自然につながっていってしまうのではないでしょうか。また、国際共同制作は、効率的な紹介のひとつの方法ではないかと思います。1年に1カ国紹介したとして、対応できる国には限りがあります。例えば、2003年から2004年にかけて南アジア5カ国と共同制作した『物語の記憶』では第1段階として5つの国の既存の小品を1本ずつ紹介し、その次の年に共同制作をするという2段階にしましたが、5つの国に別々に取り組んでいたら5年かかったでしょうし、そもそも、ネパールやスリランカといった小さな国までは手が回らなかったかもしれません。ですから、小さな国とのネットワークを築くのにも、共同制作は有効だと思います。

──招聘作品の選択基準はありますか。
まずは、作品の力、完成度です。たとえメッセージに共感したとしても、舞台作品として完成されていなければ選択の土俵には乗りません。作品の内容としては、どこの国のものであってもそこに強烈な「リアリティ」がある作品に惹かれます。例えば、ウズベキスタンのイルホム劇場の『コーランに倣いて』を現地で初めて観たときのある種の衝撃は忘れられません。政治とか宗教とかという言葉で言いたくはないのですが、彼らの背景にあるもの、そこから突きつけられるリアリティには深い衝撃を受けました。また、フィリピンのミュージカル『エル・フィリ』も、そういう意味でほれ込んだ作品です。
1本の作品を選ぶということはとても大きな責任を伴います。たった1本の作品で、その国の演劇の印象を日本人に与えることになってしまうのですから。ですから、選択に当たっては現地を訪問し、実際の上演を見たり、それができないものはビデオを見たり、演出家と何回も話を重ねたりします。最終的に選んだ作品の背後には、決定に至るプロセスを助けてくれた何十本もの作品があるのです。

──国際共同制作を行うアーティストの人選についてはいかがですか。最初の共同制作である『スリー・チルドレン』や『リア』の演出家には、現在もっとも活躍しているアジアのアーティストのひとり、オン・ケンセンを起用していますが、当時どういったいきさつがあったのですか。
私がケンセンに会ったのは、彼がまだ20代のころでしたが、独自のビジョンをすでにもっていて、それを明確に言葉にして語ってくれました。互いの背景が違うわけですから、言葉にして互いを明確化していくのはとても重要な作業だと思います。シンガポールのような若い国の若い演出家で、未来と現状に対して彼のようにはっきりしたビジョンを持っている人と仕事をすることは、日本にもいい刺激になると考えました。それ以後も、キャリアと方法論の固まってしまった人でなく、他者と協同することで自分自身もさらに発展していく可能性のある、才能ある若手・中堅アーティストたちを積極的に繋ごうというポリシーは一貫しています。

──国際交流基金の演劇の国際共同制作の方法について、例を挙げて説明していただけますでしょうか。『リア』はどういったつくり方をしたのでしょう。
『リア』の場合はまず、演出のケンセンを決めました。彼とは既に、当時のヒット作『ビューティー・ワールド』の招聘、『スリー・チルドレン』という小規模な共同制作を経て、彼の考え方は十分にわかっていましたから、どういう作品にしようかということを彼と徹底的に話し合いました。彼は、アジアを見る手段として女性の目がほしい、ついては日本の女性劇作家と組みたいと希望しました。で、私から岸田理生さんを提案したわけです。また、当時ケンセンのなかに“伝統”に対する憧れがあり、アジアの伝統的な身体性を持っていて、なおかつそれを壊してreinvent──これは当時、彼がよく使った言葉です──できる人と仕事をしたいという希望があったので、それまでに出会っていた多くのアーティストから、あるいは各国でオーディションをしながら俳優さんやダンサー、音楽家を選んでいきました。日本から能の梅若猶彦さん、中国から京劇の江其虎さんを選びましたが、これはかなり難しいプロセスでした。必要なスタッフ・キャストを選んでいたら、知らないうちにインドネシア、シンガポール、タイ、マレーシアを含め、全部で6カ国になってしまいました。日本からは片桐はいりさんも参加してもらいました。伝統的な身体の中に、彼女のような小劇場的感性の人を加えることで、いまのアジアを象徴させたいと思ったのです。

──『物語の記憶』では、複数の演出家が集まって、共同で演出をしています。
『物語の記憶』では、5カ国(インド、スリランカ、ネパール、パキスタン、バングラデシュ)から一人ずつ演出家を選び、各演出家が起用したい俳優を3人ずつ推薦し、多国籍で共同演出するという方法を試みました。さきほど言ったように、まずは5人の演出家の既存の小品を日本で一気に上演しました。日本の観客にまずは彼らの作品を知ってもらうだけでなく、5人が実際にどのような方法論を取っているのかを互いに理解しあうことが目的でした。その後、出演者全員がインドに集まって短いワークショップをやり、本番の作品は日本で滞在制作しました。5人で一つのものをつくるということは、常識的に考えて相当無理があることは承知していましたし、問題も起こるし批判もあるだろうと思いましたが、私は共同制作の方法として、作品に対する責任と権利を1人の演出家に集中させる通常の共同制作でなく、まったく同等の権利と責任を持つアーティストが同等の立場でものを創る、という困難な形を一度は試さなければいけないと思っていたので、無理をさせてもらいました。
そして、内野さんにもアドバイザーをお願いした今年の最新作『演じる女たち』は、インド、イラン、ウズベキスタンの3カ国から1人ずつ演出家に参加してもらい、ギリシャ悲劇の女性を共通テーマとして取り上げ、各演出家がそれぞれ1パートをつくる3部作にしました。
こうしたやり方は、1人の演出家の才能に全権委任する方法に比べれば、作品のクオリティの保証という面ではリスクを伴うかもしれません。しかし、一人の演出家の下に多国籍の俳優が参加する形は、言わばオペラではごく当たり前になされていることです。私は、文化も方法論も異なるアーティストが同等の立場で一つのものを作っていくことにこそ国際共同制作の意味があると思っていて、必ずしも共同演出と限らなくてよいのですが、この点だけは基本に据えたいと思っています。もちろん、成果としての作品は最も重要です。それをもってしか、プロジェクトの意味は伝えられないわけですから。どんなにプロセスが素晴らしくても、作品が低次元であれば何の意味もありません。
 
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