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クリストフ・スラフマイルダー
Profile
クリストフ・スラフマイルダー(Christophe Slagmuylder)
1967年ブリュッセル生まれ。ブリュッセル自由大学(ULB)にて現代芸術史を学んだ後、国立高等視聴覚学院(ENSAV)の教師となる。94年よりベルギー人振付家ミシェル・ノワレ、ピエール・ドウルレ、トーマス・ハートのカンパニーや、ローザス主宰の振付家アンヌ・テレーザ・ケースマイケルが設立した舞踊学校「P.A.R.T.S.」などにおいて制作として関わる。ブリュッセルの小劇場テアトル・レ・ラヌールの芸術監督アシスタントを経て、2002年にクンステン・フェスティバル・デザールのプログラム担当となり、芸術監督フリー・レイソンの右腕として活躍。06年フリー・レイソンの引退に伴い、フェスティバルの芸術監督に就任。

クンステン・フェスティバル・デザール
Kunsten Festival des Arts

ベルギー・ブリュッセルで毎年5月に開催される。パフォーミングアーツを中心とした現代アートフェスティバル。先鋭的なプログラムで知られ、世界の現代アート界のアンテナフェスティバルとも称されている。ヨーロッパ演劇のメインストリームをいくフランスのアヴィニョン・フェスティバルとは対称的に、より実験的な作品および世界の多様性を反映する独自のプログラミングを目指している。ベルギー国内はもとより、ヨーロッパ全域、さらには芸術支援インフラに乏しい発展途上の国々におよぶ世界の若手アーティストを独自に発掘し、多くの作品プロデュースを行なっている。また、長期的視野に立ってアーティストの育成を図るため、複数年にわたり共同制作を行なうと同時に、ベルギーやヨーロッパに拠点を置く実力派アーティストの新作を製作し、世界に先駆けて発表している。世界のパフォーミングアーツの潮流を生み出す震源地の一つとして、確かなブランド力を持つ。プロデュース公演と共同製作公演が、プログラム全体の50パーセントを超え、世界初演が約半数を占める。2006年を最後に立ち上げから芸術監督を務めてきたフリー・レイソン女史が引退。それまで女史の右腕としてプログラミングを担当してきたクリストフ・スラフマイルダー氏が芸術監督を引き継ぎ、今後の変革に注目が集まっている。
クンステン・フェスティバル・デザール
http://www.kfda.be/temp_08/splash/
video08.html
Presenter Interview
2008.2.29
The Kunsten Festival des Arts, making Brussels a center generating new trends in contemporary art 
現代アートの潮流を生み出す震源地 ブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デザール 
ベルギー・ブリュッセルで毎年5月に開催される現代舞台芸術フェスティバル「クンステン・フェスティバル・デザール」。先鋭的なプログラムで知られ、若手アーティスを発掘し、国際共同制作に力を入れ、世界初演がプログラムの約半数を占めるなど、世界のフェスティバル・ディレクターが注目するアンテナ・フェスティバルとなっている。日本の岡田利規もここから世界に羽ばたいたクンステン・フェスティバル・デザールの2代目芸術監督、クリストフ・スラフマイルダー氏にその歩みと今後の展望を聞いた。
(聞き手:相馬千秋 2007年12月18日 於:国際交流基金)


──まずクンステン・フェスティバル・デザール(以下KFDA)が成立した背景についてお伺いします。KFDAの初回開催は1994年ですが、その前年にはEUが発足しその本部がブリュッセルに置かれると同時に、ベルギーが連邦制を導入するなどブリュッセルを取り巻く社会状況が大きく変化した時期でもありました。こうした社会状況の変化とフェスティバル誕生にはどういった関係があったのでしょうか。
 KFDAは、1994年、フリー・レイソン によって設立されました。彼女にとって、ブリュッセルに先鋭的な国際フェスティバルが存在することは極めて重要でした。当時のブリュッセルは欧州の「首都」としての国際的な地位を確立しようとしているにも関わらず、文化面では他の欧州の大都市に比べて遅れていました。また、フランス語圏(ワロン地方)とフラマン語圏(フランドル地方)という二つの共同体によって分断されているベルギーにおいて、ブリュッセルは、国内で唯一、両方の言語が公式に使用されている都市であるという特殊な事情もあります。昔からベルギーでは、文化的な活動は完全にそれぞれの共同体に属するものでした。それぞれの共同体に文化省があり、助成金システムも劇場もそれぞれの共同体に属しているわけです。KFDAでは、2つの共同体が唯一共存しているブリュッセルにおいて、この分断の構図を少しでも壊し、どちらの共同体の市民に対しても開かれた、また国際的なアーティスト、ブリュッセル在住のアーティスト、そして両方の共同体のアーティストと共に行うフェスティバルを目指しました。また財政面においても、当初から両方の共同体からの資金導入を行い、KFDAはどちらか一方の共同体のためのフェスティバルではなく、ブリュッセルのための、ブリュッセルにおける国際フェスティバルなのだ、ということを強く主張しました。もちろんこれは多くの困難を伴う作業で、毎年のように政策決定権を持つ人たちとの戦いを強いられます。というのもKFDAは、フランス語圏のフェスティバルだ、あるいはフラマン語圏のフェスティバルだと政治的に宣伝することができないフェスティバルですから、行政的にはとてもやりずらいどちらにも属さないシステムの外にあり、決して政治的な判断を優先しないわけですから。今となってはKFDAは国際的にも有名なフェスティバルとなって、行政側もその存在を軽視することはできなくなっていますが。

──ということは、つまり、フリー・レイソンはこの「欧州の首都」という政治的コンテクストの中でフェスティバルのアイデンティティを確立しようと意図したということですか?
 そうとも言えるし、そうではないとも言えます。フリー・レイソンは常々、ブリュッセルは文化面および思想面においての野望に欠ける都市だと考えていました。EUの発足は、まず何よりも経済のプロジェクトに過ぎない。フリー・レイソンが望んだのは、ブリュッセルが単にEUの行政首都になる、ということではなくて、知性と文化の欧州首都になるということでした。ヨーロッパの中心部に位置し他の大都市からもアクセスしやすい、という地理的条件は、規模だけ見れば他の大都市に比べて小さいブリュッセル(人口100万人)に、多くのことをもたらしてくれたのは事実でしょう。またブリュッセルは、ベルギーにおける二つの共同体間の緊張関係の中で、ベルギーという国のアイデンティティについて考えざるを得ない場所でもあります。ベルギーは1830年に発足したばかりの新しい国であり、また独立前も後も常に周辺国から占領されてきた歴史がある。ドイツやフランス、イギリスといった欧州のほかの大国のように伝統的で強い文化的アイデンティティは持っていない。「ベルギーのアイデンティティ」といったときに、何か判然としない、明確には定義できない感じがする。しかし、そのことが逆に面白いというか、だからこそ多くのことが可能となるわけです。重厚な遺産がないからこそ、ベルギー、特に今日のブリュッセルでは、過去や伝統にしがみつくのではなく、未来に向って開かれた精神の場を持つことができる。このことは、ベルギーの芸術状況にも顕著に現れています。小国ベルギーでこの30年間、現代芸術のすべての分野で、極めて豊かな状況が続いています。そして、このようなコンテクストの中で新しいフェスティバルがブリュッセルに誕生したことは決して偶然ではないと思います。つまり精神が開かれているということ、そして国家としての強いアイデンティティの欠如、文化的ブランド力の欠如が、逆にアバンギャルドなプロジェクトを後押ししたのではないかと思うのです。アバンギャルドという表現は的確な言葉ではないかもしれませんが、新しい芸術形式・言語を擁護する場として、こうしたコンテクストは欠かせないものだったと思います。

──ベルギーでは80年代から、ヤン・ファーブル、ヴィム・バンデケイビュス、ヤン・ローワース など、フラマン語圏出身のアーティストが大勢、国際的に活躍していましたね。こうしたアーティストたちのコミュニティは、アントワープにあったのですか?
 アントワープだけなく、ブリュッセルでも活動をしていました。ヤン・ローワース率いるニードカンパニーやローザスなどは当時からブリュッセルに拠点を置いていました。

──KFDAの創設者フリー・レイソンは、92年まで自らが立ち上げたアントワープのDe Singel の芸術監督を務めていました。
 そうです。De Singelの設立経緯は、KFDAとはまたまったく別で、しかも面白いんです。De Singelはもともと、芸術学校(コンセルヴァトワール)として計画され、生徒たちのために作られた巨大で技術的にもハイスペックなホールがありました。彼女は最初、そのホールのコンシエルジュ(管理人)として採用されたんです(笑)! 彼女は、このホールがとにかくベルギー国中でも類を見ないほど素晴らしいホールで、これがアーティストのために強力な道具となると感じた。そこで行政や政治家に掛け合い、この場所を世界中からアーティストを招聘し作品を発表できる場にするよう説得したんです。当時ベルギーにはこれほど大きな舞台やハイスペックな技術機構を持つホールは他になく、ここならば、ベルギーで唯一、ピナ・バウシュなど世界的カンパニーの大規模な作品を上演できる、と。彼女はとことん戦って、もともとコセルヴァトワールとして計画された場を国際的なアートセンターにしたのです。今日でもDe Singel には学校としての機能と、アートセンターとしての機能がありますが、それはまさにフリー・レイソンの意志とアイディアによるものです。80年代初頭まで、ベルギーにはほとんど世界的アーティストはいませんでしたが、De Singelの存在はまさにその誕生にも大きく貢献しました。例えばヤン・ファーブルもDe Singel の恩恵を受けた一人です。De Singelという世界に直結した強力な場所で、世界のほかの偉大なアーティストの作品と平行して作品を発表し、創作活動を行っていた時期があります。このように80年代から90年代にかけて、De Singelはベルギーのアートシーンにとってまさに「灯台」のような象徴的な場だったのです。

──なぜ彼女はDe Singel を辞めて、ブリュッセルに新しいフェスティバルを立ち上げようとしたのでしょうか。
 彼女は常に変革を望み、ある地位に安住して状況が固定化することを好まない人です。De Singel で10年間にわたって様々なことを実験し発展させた上で、その場を次の世代に譲り、自分は次なることに着手しようとしたのです。彼女はDe Singel を辞めてから少しして、本当に自分がやりたいことは、国際的な野望に欠けるブリュッセルで、先鋭的なフェスティバルをすることだと思い立ちました。このプロジェクトのアイディアを得てから彼女は2年をかけて、ようやく第一回のフェスティバル開催を実現しました。92年にDe Singel を辞めて、94年がKFDAの第1回です。
 
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