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Presenter Interview
The Kunsten Festival des Arts, making Brussels a center generating new trends in contemporary art
現代アートの潮流を生み出す震源地 ブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デザール
──クリストフさんはKFDAが始まった90年代初頭はどんな活動をしていたのですか? そしてどういった経緯で2002年よりフリー・レイソンと共に働くことになったのでしょうか?
 もともと大学では現代芸術史を勉強して、卒業後は教員としてブリュッセルのエコール・シュペリュール(高等教育機関)で授業を持っていました。それと平行して舞台芸術の現場では多くのダンス・カンパニーの制作やアドミニストレーターもやりました。アンヌ=テレーザ・ドゥ・ケースマイケルの学校PARTSでも働いていました。生徒たちによる特別公演を企画したり、卒業後の進路カウンセラーをしたり。そんな中でKFDAのフリー・レイソンと出会い、2002年に彼女から一緒にプログラムをやらないかという誘いを受けました。彼女は94年当初から一人でプログラムを作ってきましたが、私と出会う頃には、プログラムを変革し、もっと先に進むために、アイディアを交換できるパートナーが欲しいと考えていたようです。どんなフェスティバルにもそれまでやってきたことを見直し、問題提起をする節目となる時期があるのでしょうが、フリー・レイソンにとってはKFDAができて既に8年が経ち、ブリュッセルを取り巻く状況も設立時から大きく変化している中で「我々は続けるべきか? 続けるのならばどのように?」という問いを、誰かと一緒に問い直す必要があったのです。こうして私は2002年よりフリー・レイソンのパートナーとして働き始め、彼女と私のコラボレーションは、彼女がフェスティバルを去る決断をするまで発展・継続しました。彼女は2006年を最後にフェスティバルを去ったわけですが、そもそもディレクター任期の設定があるわけではなく、しかも彼女自身が創出したフェスティバルをこのような形で辞任するのは異例のケースかも知れません。KFDAはいかなる公的権力からも独立していて、もともとはフリー・レイソンという一個人の独立したイニシアティブによって生まれたフェスティバルです。もちろん国からの支援はもらっていますが、行政が彼女にブリュッセルにフェスティバルを設立するよう依頼したわけではない。ですから彼女が望めば留まることができたのでしょうが、彼女はこのKFDAというプロジェクトの更なる発展のために次世代に引き継ぐことを選んだのです。

──フリー・レイソンがKFDAを立ち上げたときは、彼女はたった一人だったのですか? それともアドミニストレーターなど別のコラボレーターはいたのでしょうか?
 コ・ディレクターがいました。ギィドー・ミン という、90年代のベルギーのカルチャーシーンにおいて重要な人物です。彼は1994年の第一回開催から、彼が2000年ブリュッセルの欧州文化首都のためフェスティバルを去るまで、財政面や運営面を担当するジェネラル・ディレクターを務めていましたが、芸術的な面でもフリー・レイソンを助けていました。

──クリストフさんがKFDAのチームに合流する以前は、このフェスティバルを外部からどのように見ていましたか? 何か新しいムーブメントのようなものを感じていましたか?
 1994年の第一回開催は、とにかくブリュッセルでのアートライフにとって、重大な事件として受け取りました。第一回から、国際的なアーティストと地元ブリュッセルのアーティストがプログラムされ、中には非ヨーロッパ圏のアーティストも紹介されていました。例えば中国、香港、台湾の、現代芸術をやっているアーティストがプログラムされていたのですが、当時こうした国々から伝統芸術ではなく現代的表現が紹介されることは極めて稀なことでした。また、地元のアーティストによる新しい形式の表現のクリエーションを促し、こうしたアーティストが国際的なコンテクストの中で作品を発表することを促しました。ブリュッセルないしベルギーで活動するアーティストたちの視点と、国際的なアーティストたちのもっと幅広い視野を同じ場で取り上げること。また地元のアーティストの作品を海外のプロフェッショナルに見てもらう機会としても重要でした。
 さらに、フランス語圏とフラマン語圏の関係でいうと、KFDAは自前の上演会場を持っていないため、公演ごとに会場となる劇場やスペースと協働しなければならないのですが、フランス語圏とフラマン語圏両方の劇場やアートセンターが会場になるというのは、当時は極めて稀なことだったんです。そもそもフランス語圏とフラマン語圏の劇場やアートセンターは、2つのまったく異なるサーキットに属していて、お互いまったく相手のことを知らなかったし、知り合う理由もありませんでした。つまり知り合うことの相互的なメリットもなかった。双方にそれぞれ助成機関があり、それぞれの観客がいて、劇場のプログラムだって自分たちの言語でしか書いていないわけです。芸術を取り上げるメディアもすべてフランス語圏、フラマン語圏に完全に分かれているわけで・・・今となっては少し変わってきていますが、90年代当時は完全に分かれていました。テレビもフランス語圏放送とフラマン語圏放送に分かれていて、文化情報など必ずしも同じ話題を取り上げる必要はないわけだし……。

──とはいえ学校教育では、もう一方の言語を学ぶんですよね?
 確かにもう一方の言語は第二外国語としてかなり早い段階から必修科目になっています。けれど、2つの言語が公用語として指定されているブリュッセル以外の国内のほとんどの地域では、もう一方の言語を話さなければならない状況はほとんどありません。
 行政機関が分かれ、完全に分断されたこのような状況は実に驚くべきものですが、KFDAがどのように受け取られていたかという先ほどの質問に答えるならば、まさに、この2つの分断されたコミュニティ双方に属する劇場のディレクターが集まり、同じ議論のテーブルについたということだけでも、大きなインパクトを持つ事件だったといえます。現在、状況は大きく変化し、他方の言語の作品を上演したり、翻訳字幕をつけたり、プログラムも2カ国語で表記する劇場が増えてきましたが、これは90年代にはまったくもって想像も出来ないことでした。ですからKFDAは、人々がブリュッセルという都市の中をより開かれた形で行き来し、共にとらえなおしていくことに大きく貢献したといえるでしょう。

──これだけKFDAが二つのコミュニティの共存に貢献したにも関わらず、最近のベルギーの政治状況たるや…!(笑) 二つのコミュニティの対立はさらに鮮明なものとなり、新政府が発足しないという非常事態が数カ月続きました。この矛盾した状況をどうお考えですか?
 一番深刻なのは、今日の政治状況が、民主的な選挙によって選ばれた政治家たちによって生まれているという点です。国内では、特に北部フラマン語圏の経済的にとても豊かな地域で、北部=フラマン語圏と、南部=フランス語圏の分離を支持する動きが高まっています。これは何よりも経済的な理由によるものなんです。非常に複雑な話になりますが、これまでお話したように文化については行政組織が言語圏ごとに完全に分かれていますが、例えば社会保障といったいくつかの行政分野では、省はひとつしかありません。これらさえも分離し、各言語圏の権限を強めようとする動きが高まっているのです。これは私たちのフェスティバルが試みてきたこととは相容れない考え方です。またこうした事態はブリュッセルという都市にとっても深刻です。というのもブリュッセルは、フランス語圏でもフラマン語圏でもなく、ワロニー、ブランドルという二つの地方とならぶ、都市圏として独立した行政区と考えられているため、二つの言語圏が分離してしまったら、どこにも属さないことになってしまう。
 それでも厚生、税、社会保障といった分野でさえも行政機関を分離しようという動きは強まる一方です。その理由は、最も裕福な北部の人々が、他の地域、そもそも自分たちと同じ言語すら話してないやつらのために税金を払い続けるのはもう御免! ということなんですが…(苦笑)。非常に深刻な状況です。
 欧州の首都として国境を開いていこうという理念のすぐ横で、こんなちっぽけな領土の中でさえ合意できず、逆に国境を閉ざしてその境界を定義しようとする、ますます小さくなろうとする動きは、実に恐ろしいものです。文化的統一感の中に安住し、経済的な快適さのために他者の文化に対する不寛容を増大させるという……実に憂慮すべき状況です。

──そして、ブリュッセルにはもうひとつのコミュニティ、移民コミュニティが存在していますね。
 そのとおりです。私が芸術監督になって最初のフェスティバルは2007年ですが、もちろんこれまでの路線を継承し、その哲学を基礎としながらも、少しずつ私自身の個人的な色も出していきたいと考えました。そのためにはフェスティバルのコンセプトやミッションを再定義し、新しいボキャブラリーを投入することが重要でした。2007年は、「アーバン(都市的な)」「コスモポリット(国際的な)」なフェスティバルである、という言葉を断固として使いました。私にとっては、フランス語圏、フラマン語圏という問題の外側では、都市は極めてコスモポリタンであり、その中には実に多くのコミュニティが存在している。しかもこうしたコミュニティは単純に共通言語によってだけでは定義することができず、近くに住んで同じ趣味を持っているとか、興味の中心が同じとか、インターネットで繋がっているとか、そうした形でコミュニティはますます多様化していると思います。ですから単純に言語ということではなく、ブリュッセルや東京のような大都市において、多くの異なるコミュニティが交錯している。私たちが支持したいのは、まさにこうした「コスモポリット」な状況に対するヴィジョンです。そしてこれらの異なるコミュニティが共存し、それぞれが殻の中に閉じこもるのではなく、互いを知りあうことが重要だと言えること。例えばチャイナタウンなどは都市の中で孤立した「ゲットー」を形成していて、もちろん家族的な雰囲気を保ちたいという意図も分かりますが、私たちが面白いと思うのは、むしろそれぞれコミュニティが、その差異を携えながらも出会うときの衝撃、対峙というものなのです。
 
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