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中村雅之
Profile
中村雅之氏(なかむら・まさゆき)
横浜市芸術文化振興財団協動推進グループ長(チーフプロデューサー)兼横浜能楽堂副館長

1959年生まれ。民間勤務を経て、1991年から横浜市芸術振興財団の職員に。横浜能楽堂開館から携わる。2月末に能、狂言、歌舞伎、文楽、雅楽、神楽、日舞、寄席芸などを紹介した「一冊でわかる日本の古典芸能」(英語対訳付)を淡交社から刊行予定。


横浜能楽堂
本舞台は、明治8(1875)年、東京・根岸の旧加賀藩主前田斉泰邸に建てられ、後に東京・染井の松平頼寿邸に移築され、昭和40年まで利用されてきたもの。関東地方現存最古の舞台で、全国でも8番目に古く、公演として使われている舞台としては全国で一番古い。「文化財としての価値はもちろんのこと、使われ続けることによって価値が出ている貴重な舞台です」(中村さん)。横浜市指定有形文化財。

主な受賞歴:
・催花賞(2004年)
・地域創造「JAFRAアワード(総務大臣賞」(2006年)
先駆的な公立文化施設に贈られる
・文化庁芸術祭 優秀賞(2009年)
特別企画「武家の狂言 町衆の狂言」の企画・制作に対して

〒220-0044 横浜市西区紅葉ヶ丘27-2 http://www.yaf.or.jp/nohgaku/
横浜能楽堂
横浜能楽堂
撮影:鷹尾茂
「秀吉が見た『卒都婆小町』」
(2002年11月)

秀吉が見た「卒都婆小町」
秀吉が見た「卒都婆小町」
装束の違い。上が現代版で下が桃山版
撮影:神田佳明
Presenter Interview
2009.2.3
As the Yokohama Noh Theater ventures into the uncharted field of traditional arts production, attention focuses on its planning expertise 
伝統芸能をプロデュースするという発想に新機軸 横浜能楽堂の企画力 
1996年に開館した横浜能楽堂(運営・横浜市芸術文化振興財団)は、卓越した企画力と集客力で知られている。2004年には、「新時代における能楽堂のあり方を示した」として、能楽界で最も権威ある催花賞を受賞。また、先駆的な公立文化施設に贈られる「JAFRAアワード」、「武家の狂言 町衆の狂言」の企画・制作で文化庁芸術祭優秀賞を受賞などもしている。現代演劇では当たり前のプロデュースという発想のない能楽界にあって、公立の能楽堂として新しい視点でプロデュースを行う一方、「敷居の低い能楽堂」をキャッチフレーズに、観客の掘り起こしにも成功。近年は、横浜能楽堂の外にもソフトを展開、アジアを始めとした海外の古典芸能とのコラボレーションや交流にも意欲的に取り組んでいる。横浜能楽堂開館から現在まで、企画全般を統括する中村雅之氏に話を聞いた。
(聞き手:奈良部和美)


──まず、横浜能楽堂が開館した当初の状況を聞かせてください。どのような方針で運営が始まったのですか。
 開館当時、東京周辺には国立能楽堂をはじめ、観世能楽堂、宝生能楽堂など、定期的に公演が行われている能楽堂が7カ所ほどありました。過当競争の中で、新規参入をするにあたり、横浜にふさわしい能楽堂とは何かを考えました。古くから能を演じたり見たりするのが盛んな京都や金沢のような伝統はない。であれば、市民に開かれた能楽堂を目指そう。能・狂言の本質を知ってもらいながらニーズを掘り起こし、さまざまな楽しみ方を提案しようと考えました。そのキャッチフレーズが「敷居の低い能楽堂」でした。
 能の源流となる芸能は、鎌倉時代後期から室町時代初期に生まれましたから、現存では世界最古の舞台芸術です。その骨格は約600年前、観阿弥・世阿弥の親子がつくり、江戸時代になると、武家が儀式に用いる音楽劇「式楽」として幕府に保護されました。能楽師はお抱え制度の中で芸を育んできました。つまり、一般のお客さんを対象にした興行として成立していませんでした。
 明治時代以降の能楽師は、家元制度という中で、弟子を取ることで生計を立てています。こうした背景から、能・狂言の観客の多くは、謡や仕舞を稽古しているお弟子さんであり、一般の観客が能を見ようとしても敷居が高く、能楽は行きにくい。閉鎖的だったわけです。ですから横浜能楽堂では、「舞台芸術として能・狂言を観たい人」「教養として知りたい人」「美術的な側面から興味のある人」など、さまざまな人々に向けて事業を行うことで、広く観客を掘り起こしていこうと考えました。

──事業としては、公演、講座、ワークショップ・教室、展示の4つを連動させながら企画を展開されています。また、講座や展示から発展した、出版などのメディア事業にも力を入れています。事業の中心は能・狂言を柱とした公演ですが、どのように組み立てていますか。
 横浜能楽堂の公演は、見巧者も納得する内容の「特別公演」と企画性の強い「企画公演」、それから初心者向けの「普及公演」を両輪にしています。いずれにしても、フリーハンドで企画をつくり、恒常的に能・狂言のプロデュースを行っているのは、横浜能楽堂だけではないでしょうか。能・狂言が芸術としてこれからも生き続けるためには、常に芸術性を磨き、同時に新たな発信をしていかなくてはならない。そのために、例えば、「秀吉の見た『卒都婆小町』」や、シリーズで展開した「ワキとシテ」、「狂言再発見」など、さまざまな角度から能・狂言を問い直す企画公演を行ってきました。
 また、社会的な意義のある普及公演として、障害のある人も健常者と一緒に見ることができるような環境整備をした「バリアフリー能」や、子育て中のお母さんが自由になるお昼時間を狙った「ブランチ能」、勤め帰りの人でも気軽に見られる「イブニング能」などを企画。それぞれのニーズや生活スタイルに合った公演を提案し、観客を掘り起こしてきました。

──横浜能楽堂の大きな特徴は、やはり企画力だと思います。もともと能や狂言にはプロデュースという考え方自体がありません。どの曲を誰と組んでやるかは演者が決め、自前の能楽堂で演じるという形式で長い間続けられてきました。そういう能楽界の中で、横浜能楽堂の存在は特異なものです。横浜能楽堂の企画のコンセプトのつくり方について聞かせてください。特に、2002年に上演された「秀吉が見た『卒都婆小町』」は、装束、囃子、謡、舞のすべてを400年前に上演された形態で再現させた大変面白い試みでした。
 基本的には、一般の観客がおもしろいと思う視点にたって、企画のコンセプトをつくるということだと思いますが、発想の原点はかなり学術的、芸術的なところにあります。この観客の視点、学術的な視点、芸術的な視点をどう融合させるかを常に考えています。
 「秀吉が見た『卒都婆小町』」の企画を考えたのは、能楽研究の大家である表章先生(法政大学名誉教授)の論文を読んだのがきっかけでした。この論文は、同じ曲でも時代によって上演時間が異なるということを資料から割り出したものです。その研究では「桃山の能の上演時間は現在の60%」となっていて、それを実際に検証できないかと思ったわけです。
 能が今の形態に固定化したのは江戸時代の中期で、それ以降は300年間、大きく変わっていません。本当は世阿弥の時代まで遡りたいなと思っていましたが、資料を付き合わせた結果、そこまで遡ると推論が多くなりすぎます。桃山時代までなら遡れることがわかりました。能は2,000曲ぐらい謡本が残っていて、現在上演されているのは二百数十曲。そのうち桃山時代に行われていたという資料が残っているのが約3曲、その中に『卒都婆小町』がありました。
 『卒都婆小町』は、いわゆる“重い曲”の代表曲です。ちなみに能には“重い”“軽い”という概念がありますが、これは江戸時代、儀式化する中で生まれたものです。400年前の『卒都婆小町』を復元し、現行曲と比較することによって、儀式化する以前の、芸能として自由だった時代の能がどのようなものだったかわかるのではないか、と思いました。
 復元にあたっては、国文学の竹本幹夫早稲田大学教授、音楽学の高桑いづみ東京文化財研究所音楽舞踊研究室長、シテ方の山本順之氏に相談して進めました。さらに、坂本清恵玉川大学助教授に協力していただき、桃山時代の京言葉のイントネーションも再現しました。
 装束は、山口能装束研究所所長の山口憲氏が、岐阜県関市の春日神社伝来の小袖をもとに復元しました。当時と同じ絹を使うために、蚕を育てて糸をとるところから始めて、金箔や刺繍も江戸時代の技法で復元しました。
 公演では、まず現行のものを上演し、後で復元バージョンをやりました。現行は1時間40分ぐらい、復元は五十数分で表先生の推論通りでした。やってみると、非常にテンポがよく、見るものを楽しませるドラマ性がくっきり浮かび上がってきました。よく能を見ると眠くなると言われるのですが、この時は、観客から「眠くならなかった」「面白かった」という声が多く寄せられました。
 研究に1年、それを含めて制作には2年間かかりました。稽古は、演者に説明するところから始めて、パート稽古などがありましたが、全員が揃ったのは3、4回ほどです。
 
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