The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ナイセ・ロペス
ナイセ・ロペス氏
Ms. Nayse López


パノラマ・フェスティバル
Panorama Festival
http://panoramafestival.com/
パノラマ・フェスティバル
Presenter Interview
2012.3.5
Panorama Festival  Supporting contemporary dance in Brazil 
ブラジルのコンテンポラリー・ダンスを支える
パノラマ・フェスティバル 
2011年に20年目を迎えたブラジルのコンテンポラリー・ダンスの祭典「パノラマ・フェスティバル」。現在も振付家として活躍しているリア・ロドリゲスが1992年にスタートさせ、この20年の間に延べ10万人もの人々にコンテンポラリー・ダンスに触れる機会を提供してきた。2001年にゲスト・キュレーターとして初めてフェスティバルに参画した舞踊評論家のナイセ・ロペスは、2005年にロドリゲスに替わってディレクターに就任し、フェスティバルを牽引。近年は他の中南米諸国やヨーロッパ、さらには日本との共同作業も活発に行っている。ブラジルにおけるコンテンポラリーダンスの変遷とパノラマ・フェスティバルについて話しを聞いた。
[聞き手:乗越たかお(舞踊評論家)]

ブラジルにおけるコンテンポラリーダンスの歩み

──ブラジルのコンテンポラリーダンスの来日公演は、それほど多くはありませんでした。これまでグルーポ・コルポ(Grupo Corpo)、デボラ・コルカー(Deborah Colker)、イズマイル・イヴォ(Ismael Ivo)、ブルーノ・ベルトラオ(Bruno Beltrão)などが来日しています。ブラジル系フランス人のムラッド・メルズキ(Mourad Merzouki)が、リオデジャネイロのファべーラ(貧しいエリア)の若者を使った作品を上演したこともあります。今回はブラジルのコンテンポラリーダンスの歴史とパノラマ・フェスティバルについて伺いたいと思っています。まずはフェスティバルの背景になっている歴史について概略をお聞かせいただけますか。
 歴史的に、ブラジルのダンスは海外のダンス教師からの影響を多く受けています。20世紀前半、ロシア人のバレエ教師により、後の「バレエ・ブラジル」などの基礎が築き上げられました。ロシア人バレエダンサーのなかに世界ツアーの途中でブラジルに立ち寄り、やがてブラジルに拠点を移し、教師となる人がいたのです。そのためブラジルのコンテンポラリーダンスは、1930年代のネオ・クラシカルの影響を多く受けています。その後、1940年代〜50年代はロシア系ドイツ人教師によってモダンダンスが紹介されました。ダンスだけでなく演劇もドイツの表現主義に強く影響を受けています。世界大戦を避けて多くの人々がヨーロッパから南米に逃れ、アーティストを含めて大勢がブラジルに移り住んだからです。
 そして1930年に軍事クーデターで政権を掌握したヴァルガス大統領による独裁政権、1946年に新憲法が制定されてからの短い民主主義の時代を経て、1964年の軍事クーデターでブラジルはカステロ・ブランコの軍事独裁政権になりました。それ以降、80年代後半まで、舞台作品は政府よりの政治色が強いものか、反政府色の強いアンダーグラウンド演劇か、シェイクスピアのような古典作品がほとんどでした。つまり、 20世紀前半は文化の植民地化があり、後半は独裁政権による検閲があり、ブラジルの作家達の真の声は作品に反映されてきませんでした。 もちろんバレエは40年代から続けられており、国立(州立)のバレエカンパニーは現代作品も演目に入れていましたが、基本的にはレパートリー作品を上演していました。
 60年代、70年代、ブラジルでは演劇作品を初演する前には台本を提出し、検閲を受けなければなりませんでしたが、ダンス作品はその必要がなかった。しかしそれでも、ダンス作品の初演から数日後、検閲事務所から検閲官が来て作品を見て、内容によっては公演を打ち切られることはありました。ただ「そのダンスの何が問題になるのか」を説明するのは大変なので、「社会的モラルに反している」という名目で検閲されることが多かったですね。「裸が出るから上演禁止だ」というわけです。その点ではアーティスト自身もそれほど明白に政治的な表現はしませんでした。当時のブラジルは鎖国状態だったので、欧米が政治的だった60年代〜70年代の情報も入ってきませんでした。実際、「ニューヨークから隠して持ち帰ったフィルムをこっそり見る」というのが精一杯で、情報が伝わるのが遅かったのです。ダンス・テクニックの面でも同様です。ニューヨークのポストモダン・ダンスも、ニューヨークのトワイラ・サープのメンバーだった講師が1975年にリオに持ち込んだのが初めてです。約10年遅れていました。
 そして80年代、国が解放されてはじめて、作品にも多様性がみられるようになってきました。初めてコンテンポラリー作品が世に出てきたのは90年代になってからだと思います。現在ブラジルを代表するグルーポ・コルポは70年代から活動を始めていますが、有名になってきたのは90年代に入ってからでした。デボラ・コルカーも90年代からです。
 リオでは1990年代に市長が文化部門の部門長に女性を採用しました。彼女がダンスファンだったこともあり、初めてリオ市の予算で市内のコンテンポラリーダンス・カンパニーへの補助金システムを導入してくれました。これがブラジルにおけるダンスへの公的援助の原点です。その当時リオでは6〜7のカンパニーしかありませんでしたが、彼らに年間補助金が与えられ、定期的に作品を作れるようになりました。
 私の舞踊評論家としてのキャリアがスタートしたのも、この頃です。

──ナイセさんは、パノラマ・フェスティバルのディレクターになる前はダンス評論家として活躍されていたのでしたね。そのキャリアをスタートされた90年代のはじめ、ブラジルのダンス界は評論家の仕事が成り立つような状況だったのでしょうか?
 いいえ。しかし90年代はブラジルのダンス界にとって、非常に独特な時期だったことは事実です。
 当時の私はリオで最大の新聞社に勤務していました。その当時だれも舞踊記事を書く記者がおらず、私も初めは映画についての記事を書いていました。80年代はダンスに補助金が出る前なので、プロフェッショナルなダンス作品をつくる人自体がいなかったのです。結果、新聞が舞踊の記事を掲載することもなかったし、舞踊評論家もいませんでした。
 しかし補助金を受けたカンパニーの公演が続くようになると、それらの作品についての評を書く記者が必要となってきました。当時演劇評論を担当していた記者はお年を召した女性でした。そこで編集者の一人が私に「コンテンポラリー作品はよくわからないので、ダンスをちょっとみてきてくれないか」と依頼してきたのです。
 そんな経緯でしたが、私はコンテンポラリーダンス作品に、たちまち魅了されてしまいました。ブラジルの映画産業は政治的また経済的な理由から1985年には完全に停滞してしまいましたし、90年代には貧しい内容のものしかなかった。年間1本ずつの映画が製作されるだけで、評を書く材料としても足りず、なにより面白みに欠けていました。文学も同じような状況で、より商業的なものに人々が流れていった時代でした。それに対してコンテンポラリーダンスは実験的で、興味深いものが多く、さまざまな問題提起がありました。それで私自身も勉強して、ダンス評を書き始めました。しかし、毎日15時間も仕事をした後に舞台を見に行くのは大変で、仕事と両立することが難しくなってきたため、2001年に独立しました。 
 独立してすぐパノラマ・フェスティバルのディレクターをしていたリア・ロドリゲス(Lia Rodrigues)が、客員キュレーターとして私を招き入れてくれました。そこで国際交流プロジェクトのとりまとめを担当し、「BODIES AT RISK(Corpo em risco)」という初めてのプロジェクトをたちあげ、ブラジル人振付家と仕事をしました。セノ(Ceno)がイメージを担当し、ノルウェー在住のイラン人で今は重要なアーティストになっている、ホマン・シャリフィ(Hooman Sharifi)が加わりました。当時は二人ともまだ若く、「身体を床に叩きつける」というアイディアを持っていましたが、アプローチの方法は違っていました。ホマン・シャリフィは、2001年に発表したソロの中で、イラン革命により亡命者となったことを語りました。大柄な彼はただ舞台に立ち、何度も床に倒れ込みました。50分間それを続けるという作品です。とても力強い作品でした。この作品はヨーロッパツアーも行い、とても有名になりました。こうした、意図的に身体を傷つけることの是非をめぐっては大きな話題になりましたが、私はそのような作品をどんどんフェスティバルのプログラムに組み込んでいきました。
 その後もリアとフェスティバルのプロジェクトを進めていきましたが、次第にリアは自分のカンパニーの仕事との時間のバランスがとれなくなり、2005年にフェスティバルを去る決断をしました。彼女は、エドゥアルド・ボニート(Eduardo Bonito)と私にフェスティバルの続行を託し、現在に至っています。

パノラマ・フェスティバルの発展

──パノラマ・フェスティバルについて教えてください。
 1992年に始まった当初はとても小さなフェスティバルでしたが「先端的な作品をプログラムする」と評判が上がっていきました。財務的には規模も小さく、当時のブラジルの状況では多くの課題もありましたが、2004年からは政府の状況も良くなり、財源も確保され国際的な繋がりも持てるようになりました。ウェブサイトで20年間のポスターを観ることができますが、最初の年は手描きで、とても素敵でした(笑)。もちろんプロによる仕事でしたが、アマチュアの雰囲気もあって、手づくり感が溢れていました。
 現在は規模が大きくなり過ぎなので、少し小さくしようとしているくらいです。20年の歴史のなかで政治的な作品についてのプログラムもやりましたが、それだけではなく、現在のブラジル・ダンス界を牽引する作家の多くをパノラマは輩出しています。たとえばグルーポ・ヂ・フーア(Grupo de Rua)を率いるブルーノ・ベルトラオは全ての初演をパノラマ・フェスティバルで行いました。また、彼自身もパノラマ・フェスティバルが招聘する作品からインスピレーションを得てきたアーティストです。ブルーノは現在39歳で、他の50歳代のアーティストより若いですが、彼等の世代にとっては、アーティストとしての基礎を作り上げたフェスティバルだったと言えます。
 ちなみにフェスティバルとはあまり関わりはありませんが、商業的な作品をつくっている50歳代のデボラ・コルカーというアーティストもいます。彼女はブラジルのシルク・ド・ソレイユのようにとてもアクロバティックで大がかりな装置の作品を発表し、ブラジル国内をツアーしています。パノラマでは93〜94年のころ、彼女の処女作を発表しましたが、それきりです。

──フェスティバルのプログラム数や予算については?
 2011年は37作品で、通常毎年30〜35作品をプログラムしています。パノラマは普段ダンス公演を見に行かない人も取り込んでいこうと、チケットの値段を安価に設定しています。今年ですとローザスのような経費のかかるカンパニーでも、チケット代は日本円で800円くらいです。しかもこれが一番高いチケットで、無料公演も多くあります。より多くの観客をターゲットにした演目、実験的な演目、というようにプログラム全体のバランスをとるようにしています。会場は国立(州立)、市立の劇場やリオ市内の文化施設を利用します。今年は10の劇場を利用します。
 予算は今年度がこれまでで一番多く、100万ユーロです。リオ市、州政府、企業などから助成があります。自治体が主催しているフェスティバルではないので、独立して運営されています。これは創設者のリアがフェスティバルを始めた当初からの戦略で、私もそれを堅持していて、政府支援も3割を超えないようにしています。だからもしスポンサーがいなくなっても規模を縮小すれば存続し続けられる、ということです。
 スポンサーは、パートナーシップを結ぶ国際団体も含めると15〜18団体あります。リオ市からは4万ドル、ゲーテ・インスティテュートからはチケットで6,000ユーロ。色々な形で支援をしてもらっています。日本からも国際交流基金の援助を受けています。

──フェスティバルとして、観客を増やし、また育てるためには、どのようなことをしていますか?
 それはとても難しいことです。とにかくダンスはメディアに取り上げられにくく、「世界的に有名でもブラジルでは無名な作品」も多いですから。ここでは私たちがやっていることを2点ほど紹介します。
 一つはダンス界・演劇界への告知を徹底的にやることです。私たちは5年前から教育プログラムをスタートしたのですが、常駐のスタッフ2名で学校、NGO、ソーシャル・ネットワーク、青少年プログラム団体などと連絡をとり、彼等が抱えている人種差別やジェンダー問題などのテーマに沿った演目を揃えるようにしています。そして招待券も多く出します。去年はこのプログラムの集客数が3,000人でした。
 もうひとつは子ども向けに良質の作品を提供することです。子ども向けの作品にはバカバカしい物が多く、質の高いものとなると数が少ないので非常に大変です。しかし子ども時代にひどい公演を無理矢理に見せられれば、「ダンス公演は退屈で最悪のものだ」という刷り込みをされてしまいます。それこそが観客が育たない遠因になっている。今年は4演目あり、そのうちの1つはイギリスの作家が日本のゴジラに触発されて作った、とてもいい作品です。劇場だけでなく、公園を会場にした作品もあります。こうした子どものプログラムは学校が対象になり、しかもダンスを観たことのない親も呼び込むことができます。
 ヨーロッパでは、大都市であればパフォーミング・アートに特化してもたくさんのフェスティバルがあり、ダンス公演に出かけるのが日常生活の一部になっています。しかしブラジルでダンスを見に行くことは、それほど日常的なことではありません。音楽や映画とは違い、まだまだ難しいので、さまざまなアイディアを試しています。

フェスティバルが芸術環境を変える

──他に特筆すべき新しい試みはありますか?
 昨年からパノラマは純粋なダンス・フェスティバルからパフォーミング・アーツ・フェスティバルに脱皮して、身体に関するインスタレーションや映像作品も含むようになりました。フェスティバルセンターの夜公演ではミュージカルやサウンド・インスタレーションやDJもあります。
 また、若い作家向けのレジデンシー・プログラムも行っていて、最初はポルトガルで2005〜06年に「リオとリスボンから各3人の作家を選び、世界中どの作家と協働作業をしてもいい」というプログラムを実施しました。ポルトガルの作家のひとりは日本の音楽家を起用しました。国際交流基金も支援をしていたと思います。2回目の2007〜08年は、イギリス、南米諸国とブラジルの作家22名を対象にしたレジデンシー・プログラムでした。そして2009〜2010、2010〜2011のプログラムでは、南米諸国同士のコネクションを強めることを目的に、南米4カ国(パラグアイ、ボリビア、チリ、ブラジル)の作家がアマチュアとともに作品を作りました。このプロジェクトに対してブラジル側からの資金提供はなく、全てEUからの資金でした。ヨーロッパ圏外で3年に一度行われている大きな企画の一部です。すでに我々は2度資金提供を受けているので、次はいつできるかわかりません。
 その他にも、現在2つのレジデンシー・プログラムを行っています。一つは日本の「KYOTO EXPERIMENT」との協働で、もう一つはオランダ政府との協働です。2011〜2012年は「ブラジルにおけるオランダ年」という外務省関連の事業があるからです。マルセロ・エヴェリン(Marcelo Evelin)は来年オランダ人作家と新作を作ります。もう一人のブラジル人作家チャゴ(Thiago Granato)はオランダ人作家とデュオを作り、2011年のフェスティバルで発表し、2012年に完全版をオランダで発表します。
 フェスティバルの役割として、「興味深い作家を見つけ出し、その資金を調達する」、もしくは「資金があり、それに合う作家に依頼し調整をする」ということもしています。たとえば若手作家が財団に直接申請をしても、なかなか資金調達は難しいですが、もし私たちが3〜4名の若手作家をまとめてプロジェクトを立ち上げれば、パノラマ・フェスティバル自体の信頼と、発表の場もあることで、資金調達も可能になります。
 こうした環境を整えることがフェスティバルの新しい使命だと考えています。フェスティバルは作品を上演するだけではなく、アーティストと観客に対して、よりよい芸術的な環境を提供していける存在になっていくべきだと思っているのです。

──ブラジルには大きなフェスティバルはいくつくらいあるのですか?
 ダンスでは大きいものは4つ、どれも最低10年の歴史があります。他にも小規模のフェスティバルがあり、演劇とダンスのパフォーミング・アーツ・フェスティバルが南部で行われていたりしています。演劇祭はたくさんありますね。また、ダンス・スクールがコンテストで競い合うようなフェスティバルは何百とあります。私の課題は、これらの観客層をどうやって我々のフェスティバルに呼び込むかということです。バレエやジャズダンスをスクールでやっている人達はコンテストばかりで、コンテンポラリーダンスの公演には来ないのです。1日10時間も踊っているのに、公演は見に行かないなんて、私からすると信じがたいことですが、それが現実です。
 たとえば、マルセロ・エヴェリンが拠点としているのは、とても小さな保守的な街で、国立(州立)バレエ・スクールがあります。しかしスクールの生徒は先生から「マルセロの公演に行ってはいけない」と言われている。これはブラジルの他の地域でもみられることで、伝統的なダンスの教師はコンテンポラリー作品に対して強い抵抗感を抱いています。リオには3つの大学に舞踊学部があり、多くの学生はバレエを学んでいますが、彼等もやはりコンテンポラリーダンス公演には来ません。ヒップホップで教師用の免許を取るために大学に通っている人もいますが、将来ヒップホップを教える事には興味があっても、プロとして作品をつくることには興味がない。またブラジルでは宗教的な理由から大学に進んでいる学生も多くいます。教会には若い人々を教会に引き寄せるため、合唱団や演劇グループと一緒にダンス・グループもあります。彼らもまた教師用の免許取得のために学校に通っているケースが多いのですが、前衛的なコンテンポラリーダンスは見に来ません。
 ことにパノラマ・フェスティバルのプログラムは政治色が強く、実験的で難解な作品もあります。教育プログラムを担当している女性は、「男性が全裸で踊る作品は、学校の先生が怒りだしてしまうのでやめましょう」と助言してくれました。そうした配慮をしないと、民主主義的なプログラムにはならず、人々を怖がらせるフェスティバルになってしまうというのです。リオで映画祭を主催している友人が2年前にパノラマ・フェスティバルである作品を見たことがあります。それは難解な作品で、観客は200人でした。その時に彼女は「この作品はあまりにも難解過ぎるので、この200人の観客はもう二度とダンスを見に来ないでしょうね。そしてその200人は映画祭に来るでしょう」といって会場を去りました。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、どこでも同じ状況だと思います。集客数を増やすのはとても難しいことです。

国際的なネットワーク

──レジデンシーもそうですが、ブラジル以外の国との協働作業がかなりあります。イタウ・インスティテュート (Itaú Institute Cultural Observatory)やブリティッシュ・カウンシルともお仕事をされています。
 私はもうメンバーではありませんが、イタウは2005年に行った国際協働に関する会議です。もとは南米大陸内のコミニュケーション・ギャップを埋めるため01年にウルグアイの女性ダンサーが始めたネットワークでした。アジアでパフォーミング・アーツ・ネットワークを設立するのと似ています。南米大陸は物理的に大きいのみならず、文化的にも各々がとても独特です。そのためそもそもの情報の共有が難しく、01年にミーティングを開くという形でネットワークが設立され、政府からの助成で振付家やダンサーがワークショップを行い、お互いを知り合っていく活動として発展しました。10年の歴史があります。

──いまではインターネットの普及で、あっという間に情報が伝達されるようになりました。
 そうです。今ではリオもブリュッセルもニューヨークも変わりはありません。それはとてもいい事だと思います。世界中の人々が共通の問題意識を持てるということですから。ですが、「どこに行っても同じようなものを上演している」という現象も生まれています。
 これはダンスだけでなく音楽や映像にも言えますが、結果的に作品づくりが補助金や批評に振り回されることがあります。作品評はトレンドを生みだし、フェスティバルへの参加を左右することがあるからです。例えばブルーノ・ベルトラオにしても2年前は無名でしたが、今ではさまざまなフェスティバルが彼の作品をプログラムしています。私は彼がまだ20代の頃から知っていますが、30歳のパリ公演の時には、多くのプロデューサーが駆けつけ、「新しい天才の出現だ!」と騒がれました。ブリュッセルで『H3』の上演は大成功しました。楽屋にはウィリアム・フォーサイスが来て「君は天才だ。私以上の重要人物になる!」と叫んだほどです。私は「彼はまだ30歳なんだから、そんなことを言ってはダメ。彼の人生をダメにしてしまう」といいました。いまのところブルーノは天才的な作品を発表し続けていますが、常にそういう危険と背中合わせです。ヨーロッパでは、どのフェスティバルでも同じアーティストをよく見かけますが、おそらく2年後にはまた別の新しいカンパニーが同じようにどのフェスティバルにも呼ばれているでしょう。
 私たちは7年前から補助金を受けてWebサイトを開設し、専用のスタッフを抱えて運営しています。英語版とポルトガル語版を作っていて、パフォーミング・アート全般に関するヨーロッパの主流派以外の声を聞くのを目的にしています。フィリピン、マレーシア、インドネシア、ブラジル、アルゼンチンの舞踊記事もあります。また、2年前にソーシャル・ネットワークをインターネットで始めましたが、4000人の会員がいてとても成功しています。設立時には「そんなものを作ったところで、実際にボリビアの作家がリオのバレエダンサーと、いったいどんな関係性を築けるというのか」と実効性を疑問視する声もありました。我々はそれよりも「とにかくネットワークを通じて協働をしたい人々が出会える場をつくること」を目的としました。現在は南米大陸全体を網羅するネットワークになっています。国際ワークショップやミーティングを主催するための資金調達もできていますし、交流プログラムもあります。南米だけでなく、メキシコなど中米もカバーし、言語が通じるのでポルトガルやスペインもカバーしています。
 2009年にはTPAMで日本に伺いました。イタウがTPAMのアジア・パフォーミング・アーツ・ネットワークの可能性についての会議を主催していた時です。シンガポールのタン・フクエンもいました。そこで南米のネットワークの経験について話す機会がありましたが、最初に質問されたのが「どうやって地域で話し合いを持てるようになったのか」ということでした。唯一の方法はインターネットです。作家同士が知り合うためだけに航空チケットを出してくれる財団はありませんから。インターネットを通じて知り合うのが一番です。インターネット上にはサイトも翻訳ソフトもありますし、お互いに興味がわけば出会う方法もあります。
 2011年のパノラマ・フェスティバルでは、ネットワークで繋がったエクアドルとウルグアイの女性アーティストの作品を上演します。彼女たちが実際に会ったのは2回だけで、あとはスカイプを利用しました。ちなみに、この作品はスペイン語圏およびポルトガル語圏の国が出資したイベラナ・ファンデーションから支援を受けました。

──ヨーロッパとの連携も強いようですね。
 ヨーロッパの方が、内容が豊かなフェスティバルが多くありますから。しかし、ヨーロッパとの関係は単純なものではなく、南米の政府は旅費などのツアー費用を助成しませんが、たとえばフランスのカンパニーが南米で公演する場合はフランス政府が旅費を助成するわけです。それでも南米公演の行うのは明白に政治的意図があるからです。つまり、ヨーロッパの援助には「植民地時代の影響を残しておきたい」という考えが根底にあるということです。これはヨーロッパとアフリカや東南アジアとの関係でも同じことがいえます。我々もこれと戦っており、彼等の政策に盲従することを拒否しています。例えば、「このカンパニーの南米ツアーを考えている」という提案を受けても、「このカンパニーではなく、他のもっと小さなカンパニーに興味がある」と返答するなどです。いまではブラジルの経済状況が良くなってきているので、 ブラジル政府もツアー助成を出すようになってきました。もし、日本から招聘があれば交通費が出る可能性もあります。それは南米全体に言えることです。
 東南アジアの友人は、最近よく韓国政府のことを話題にします。「もし韓国の推薦するカンパニーの公演を主催すれば、全ての経費を持つよ」という提案があるからです。出費がなく作品を提供することができるので、実際にフェスティバルのプログラムに並ぶこともあります。韓国だけではなく、ブラジル、インド、特に中国などの新興国では、経済状況がよくなってくると、国が定めた公式のカンパニーに関しては全ての経費を国が賄うようになるものです。しかしこのような支援については気をつける必要があると思います。さもないと、フェスティバル主催者は単なる旅行代理店になってしまうでしょう。

芸術はいかに自立するか

──フェスティバルを運営する上でとても危険な落とし穴ですが、資金についてはどこも苦慮しているのでそれだけ魅力的な提案に映るということはありますよね。
 昨晩、非常に驚くことがありました。ブラジル大使館の文化担当者や早稲田大学の教授に日本政府の文化政策の予算を伺ったのですが、なんと日本の国家予算のわずか0.1%だという話でした。これは相当に少ないですね。ブラジルでも0.6%ありますから。国連では「理想は2%、最低でも1%」と言われています。EU諸国も最低でも1%ですが、フランスは6%、ドイツは3〜4%です。しかも日本の場合、ここに伝統文化も含まれていると聞きました。となると、あまりにもコンテンポラリー・アートの扱いが悪いように思います。

──これからのコンテンポラリー・アートはどの程度政府から自立しているべきだとお考えですか?
 今までの歴史の中で、芸術作品は国の支援によって支えられてきたという面があります。フランスには18世紀に設立された文化重視の機関があり、多くの国がその事例に追従していますが、それもフランスではすでに崩壊しています。全ての芸術が国に頼るわけにはいかないからです。インターネットや新しい通信の手段によって、多くの人がそのロジックから離れていくのが目に見えます。
 私は今後、インターネット・ファンディングがとても重要になると思っています。例えばソロ作品だけを取り上げ、プロジェクトをウェブサイト上で公開し、チケットの前売りをして資金調達をするクラウド・ファンディングはとてもいい成功例です。アーティストが「8公演するためには2万ドルが必要だ」と言った場合、チケットを前売りにして公演に間に合わせます。セキュリティのしっかりしたサイトを立ち上げる必要もなく、クラウド・ファンディングのサイトに書き込むだけでいいのです。リオの知人はこのシステムを使って、先日、本を出版しました。例えば本の出版のために1万ドルが必要だとしましょう。「5ドル投資してくれた人には本を、10ドルなら本とTシャツを、100ドルなら出版協力者として本に名前が載ります」、という形で出資者を募るのです。彼女はわずか3週間で目標額の資金を調達できました。
 ブラジルの音楽界には「キューブカード」というものがあります。若いアーティストはこれを使って大きなレコード会社や国の支援に頼らずに活動をしています。これは四角形のカードですが、通貨と同じように使えます。例えば「バンドをやっているがスタジオ代がない人がいる。あなたはスタジオを持っている。彼はお金のかわりにこのキューブカードを使ってスタジオを使わせてもらう。もしくはお金のかわりにキューブカードをつかってイラストを描いてもらう」等々。つまりカードを通して、アーティストやその周辺の人がお互いのできることを交換していくという、架空の通貨なのです。ブラジルには共同体の仕組みがあり、そこから発生した考えといえるでしょう。漁業の業界だけの通貨など、ブラジル国内のさまざまな業界でこのような通貨が流通し、コミュニティが活性化されています。
 芸術の世界は「我々自身が財産だ」と思う考え方を、もっと持つべきです。もちろんどうしても払わなければならないものもありますが、サービスの交換で、実際の金銭のやり取りを減らすことはできるのです。根本的な解決方法にはなりませんが、問題解決の手法の一つにはなります。いつまでも国の支援に頼ってばかりいるのではなく、アーティストはさまざまな面でもっと創造的にならないといけません。

──素晴らしいですね。ではそれらを利用すれば、現在のブラジルにおいてダンサーはプロとして生活していけますか?
 ブラジルでは、プロのダンサーといえばフリーか、大きな国立(州立)のカンパニーメンバーです。ほとんどのカンパニーは補助金がありますから、ダンサーは従業員という形でサラリーを受けとることができます。フリーのダンサーはプロジェクトごとに雇われるので、3カ月、6カ月という契約をしていきます。コンテンポラリー・アートは大学との関係が密で、ほとんどのブラジルのダンサーは大学卒・院卒もしくは大学院生です。研究生であったり、大学で教鞭をとっていたりして、作品をつくる傍ら、大学で研究し、理論を教えている人も多くいます。大学からのフェローシップで研究や創作を行いながら、現在も多くの若者が大学で舞踊を学んでいます。

──ブラジルではほとんどのダンサーが大学出身ということですか。
 テクニック・ダンサーはそうでもありません。大学ではダンス・テクニックを教えませんから、ダンサーになるために大学に進学する訳ではありません。大学がダンサーを輩出しているのではなく、ほとんどのダンサーは子どもの頃からダンスをやっていて、大学に進むのは知的スキルを向上させるためです。「ダンサーにも理論は必要であり、ダンスはテクニックだけではない」ということも認識されてきています。ですからアマチュアとして20年間活動してきた50歳代の人が、裏付けとなる理論を学ぶために大学に進むというケースもあります。そして「バレエのような古典的なダンスの訓練を十分にしていなくても表現者になれる」というコンテンポラリーダンスの考え方は、ブラジルではかなり新しい考え方なのです。

ブラジルのコンテンポラリーダンスの最新動向

──先日、クリスチーネ・グライナー(Christine Greiner)さんの講演を拝聴しました。彼女はブラジルのダンスについて、あなた同様「サンバやサッカーのようなステレオタイプの印象で見ないで欲しい」といっていました。いくつかのビデオも拝見しました。マルタ・ソアレス(Marta Soares)、 アレハンドロ・アーメッド(Alejandro Ahmed)、ヴェラ・サラ(Vera Sala)、リア・ロドリゲスといったアーティストです。クリスチーネさんの嗜好かもしれませんが、 ノンダンス系のものが多かった印象を受けました。しかし、かつて来日したブラジルのダンス・カンパニーは、いずれも身体性が強く、かつコンセプトや美術的なバランスのとれていたものが多かったと思います。パノラマ・フェスティバルでは特にノンダンスに注目しているのですか。
 ひとつノンダンスについて確認しておきましょう。90年代後半からジェローム・ベル(Jé;rôme Bel)やトーマス・レーメン(Thomas Lehmen)などがノンダンスと呼ばれるようになりました。しかしノンダンスは独立して生み出されたのではなく、コンテンポラリーダンスの脈絡をもって生まれてきたものです。詳しく話す時間はありませんが、コンテンポラリーダンスが、その限界を超える時期がきたときに「ダンスがダンスでなくなる瞬間はどこにあるか? 」という問いかけが出てきました。映像ではゴダールが同じように「映画と言われている要素を全てとってしまったら、それでもまだ映画だろうか? 物語を取り除き、時間枠を取り除き、演技法を取り除き、サウンドトラックを排除したら何が残るだろうか?」という問いを投げかけました。ビジュアル・アートでは50年代後半から60年代にすでに「何が芸術を芸術たらしめている要素なのか、それ以外は何なのか」という考察がありました。絵画ではポロックらによって「結果的に絵画でなくてもよい」というところまでいきました。それは芸術を捉える上で、とても複雑で哲学的な問題でした。
 90年代後半に舞踊でも同じ事があったわけです。他のジャンルに比べて、舞踊の流れはゆっくりですからね。ジェローム・ベルは、「舞台上で何をすればダンスと認知されるか? 踊り始めたらいつ終わるのかと観客は期待するだろうか?」といった状況を実験してみたいと思ったのでしょう。90年代の舞踊は当時の哲学を引用するのみならず、脳科学の観点からもアプローチがありました。特にリチャード・ドーキンスがとても大きな影響を与えました。脳科学者ダニエル・デネットも身体についての知見を備えていました。
 ほとんどの人はダンスをいまだに「思考があり、身体がある。しかしダンスをしている間は考えない。ダンスは脳がする作業ではなく、手足を動かすことだ」というデカルト的考えで鑑賞しています。しかし、「ダンスは思考することであり、空間に立って考えていることは、踊っていることと同等である。ステップを踏んでいなくても、振付的な考えを持っていれば、それは舞踊作品だ」というとても重要な問いかけが90年代にあったわけです。そして人々は踊りをやめ、考え始めました。ブラジルではこのようなコンセプチュアル・ダンスは多くの作家に影響をあたえました。そして2000〜2010年の10年間が、ブラジルにおけるコンセプチュアル・アートの実験の10年間になりました。
 クリスチーネがお見せした映像で、マルタは『O Banho』という作品においてバスタブの中でほとんど動いていません。ヴェラは『Impermanencias』という作品において工事に使う鉄を使って巨大な巣をつくり、天井から吊るすという素晴らしいインスタレーションを見せました。彼女自身その巣の中で鉄に囲まれているのですが、これは「動かない」と言うのではなく、「身体の自由に制限をかけている」ということです。彼女は素晴らしいダンサーで過去の作品はよく動く作品でしたが、近年はこういう作品をつくっています。逆にグルーポ・コルポの作品ではダンサーが動き続けます。芸術監督のホドリゴ・ペデルネイラスはインテリで、「身体がどんな形を作り出せるか、またその形態がコミュケーションをとれるか」という考えが根底にあって、そういうアプローチをしているのです。
 この他、フェスティバルに参加しているアーティストで言うと、たとえばメグ・スチュアート(Meg Stuart)の場合、作品によっては一体何をしたいのか全く分からない時もあります。「観客にわかりやすく」という以前に、コミュニケーションの必要性自体が問題となり、アーティストが作品の意図を理解してもらうための鍵を提示しないといった事が起り始めています。アレハンドロ・アーメッドは躍り込むタイプなのでこうした流れに遅れている感じがしてフェスティバルからも離れていましたが、今また「ちゃんと踊る作品を見たい」という流れのなかでフェスティバルに再登場しています。
 それからジェローム・ベルですが、『ショウ・マスト・ゴー・オン』は、芸術に込められた意図(哲学)を理解した上で見ると、集合的記憶と身体をテーマにしたとても優れた作品です。それを知らなくても、純粋にジョークを楽しむための作品として見ることもできます。
 つまり、パノラマ・フェスティバルでは「ダンスかノンダンスか」という基準で作品を選ぶことはありませんが、時代ごとの流行はあるということです。

ブラジルと日本の関係

──ブラジルには日本からの移民が多くいます。日本の文化の影響を見ることはできますか。
 日本は遠いですし、旅費も高いので実際に行っている人は少ないですが、ブラジルの振付家、パフォーミング・アートのアーティストで日本文化の影響を受けている人は結構います。土方巽や大野一雄の弟子だった人たちが、パリやニューヨークでワークショップを開いていて、多くのブラジル人が受講しています。舞踏の身体の扱い方をブラジル人が全く同じようにやっているとは思いませんが、伝統的な日本の身体に対する考え方をテーマに作品を作っているブラジル人の振付家もいます。
 ただ、現代の日本とブラジルを安易に結びつける必要はないと思います。ブラジルの日本人街では、ブラジルの若者が日本の10代の子どもたちと同じような服装をし、J-popを聞いています。しかし日本人街の外にいる人々にとって、日本のポップカルチャーとの接点はほとんどありません。私はJ-Popは好きではありませんが、日本の現代の作曲家やビジュアル・アーティストはとても興味深い人が多く、彼らのことをブラジル人にもっと知ってほしいと思っています。
 日本に滞在して学んでいるブラジル人もいるので、もっと日本のアーティストと長期的なコラボレーションができればと考えています。パノラマも来年(2012年)「KYOTO EXPERIMENT」とのコラボレーションを計画していて、日本の現代の作家とブラジルのアーティストとの接点が見つけられればと思っています。

──最後に、ロペスさんが興味をもっている日本のアーティストや今後のプロジェクトについて聞かせてください。
 ヨーロッパのフェスティバルではチェルフィッチュや快快などの演劇がよくプログラムされています。東京で数年前に見たとき、当時は誰も彼等が何者かわかっていませんでしたが、私はシャープでアンダーグラウンドな作品で、とてもいいと思いました。ほとんどの南米のプログラム・ディレクターはアメリカやヨーロッパのフェスティバルで日本の作品に触れることになりますが、そこで彼らのようなアーティストを知ることができるのは良いことだと思います。
 今回一緒に来日しているクリスチーネ・グライナーは過去15年間サンパウロの国際交流基金で仕事をしており、日本のアーティストを招聘していました。それもあってサンパウロでは日本の現代アーティストの作品が多く紹介されています。パノラマ・フェスティバルでも数年前から日本のダンスの紹介をするようになりました。一番大きなプロダクションは川口隆夫が出演している『TRUE』です。今年は彼と香港のディック・ウォンと中国人アーティストとのトリオ作品を発表します。それから「KYOTO EXPERIMENT」との共同で高嶺格のレジデンシ―・プログラムを計画しています。
 今回の「KYOTO EXPERIMENT」では、日本ですでに知られている有名カンパニーを紹介することもできましたが、マルセロ・エヴェリンの『マタドウロ(屠場)』(原題:Matadouro)を招聘してもらいました。とても力強く政治色が強い作品です。ブラジルの舞踊界でもマルセロは重要人物で、20年間ヨーロッパでも活動しており、現在はアムステルダムのHetveemシアターの常任キュレーターを務めています。彼のカンパニー「デモリション Inc.」はブラジルの東北部、荒涼とした美術館もない貧しい地域にあり、この作品はそこから生まれました。ブラジルはリオやサンパウロだけではありません。サンパウロの日系社会を描くようなイージーなつながりでなくても、日本の観客にはきっと伝わると思いました。クリスチーヌが指摘するように、マルセロの粗い身体の扱い方など、日本との接点がいくつかあるのは興味深いことです。特に意図的ではなくても、鏡を合わせたようになったということでしょう。これからもマルセロのようなアーティストを日本に紹介できればと思います。
 また、今後は「日本の現代芸術やパフォーミング・アートの情報をポルトガル語で、逆にブラジルの情報を日本語で、いかに共有できるか」ということも実現していきたいと考えています。

──興味深いお話をどうもありがとうございました。
 
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