The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
マーク・ラッセル
Profile
マーク・ラッセル氏
Mr. Mark Russell

ニューヨークのパブリック・シアターを拠点に開催される実験的演劇作品の国際フェスティバル「アンダー・ザ・レーダー・フェスティバル(UTR)」のプロデューサー兼ディレクター。UTRは、ラッセル氏がブルックリンのセント・アン・ウェアハウスという劇場でスタートさせた2005年1月の初回は、米国の実験劇場の作品を主体に1週間のイベントとして始まったが、ほどなく今日のような趣旨の2週間のフェスティバルへと発展。8年目にあたる2012年1月のフェスティバルには、初めて日本からの作品が2つ(岡田利規/チェルフィッチュの『ホットペッパー、クーラー、お別れの挨拶』、野田秀樹の『THE BEE』)招聘され、いずれもジャパン・ソサエティー主催にて同ソサエティー内劇場で2週間上演された。
遡って1983年〜2004年にはニューヨークのイースト・ビレッジにある小劇場、パフォーマンス・スペース122(通称P.S.122)のエグゼクティブ・ディレクター兼芸術監督。2006〜08年には、オレゴン州ポートランドのオーガニゼーションPICA(パイカ)主催のタイム・ベースト・アート・フェスティバル(通称TBAフェスティバル)のゲスト芸術監督を務めた。テキサス大学出身・演劇専攻。
アンダー・ザ・レーダー
Under The Radar festival
http://www.undertheradarfestival.com/
アンダー・ザ・レーダー
Presenter Interview
2012.3.30
The mission of the Under The Radar festival as a leader in the US performing arts scene 
舞台芸術を牽引する アンダー・ザ・レーダーの挑戦 
全米のプレゼンターやプロデューサーがニューヨークで一堂に会するAPAP(Association for Performing Arts Presenters)。その時期に併せて開催されているのが「アンダー・ザ・レーダー(レーダーに引っかかる前)」と命名された先端的な作品が集うフェスティバルだ。メジャーな劇場では上演されることのない先端的な作品を広く知らせることを目的として2005年にSt. Ann's Warehouseで実験的にスタート。翌年からパブリック・シアターを主会場に開催され、今年も1月4日から9カ国のエキサイティングな14作品を紹介した。P.S.122のディレクターとしてニューヨークのアートシーンを長年にわたって牽引し、アンダー・ザ・レーダーを立ち上げた北米屈指のプレゼンター、マーク・ラッセルにUTRの挑戦について聞いた。
[聞き手:塩谷陽子(ジャパン・ソサエティー芸術監督)]

──アンダー・ザ・レーダーとは、要するに何なのでしょう?
 ニューヨークには、舞台芸術のプレゼンターやプロデューサーが4000人ほど集まる年次コンフェレンス「APAP」が毎年1月にありますが、その直前にスタートするフェスティバルが、アンダー・ザ・レーダー(UTR)です。同フェスティバルが焦点をあてるのは小規模の演劇作品です。この種の作品はツアーの機会が多いとは言えませんが、コミュニティーに根づいて「コミュニティーのストーリー」を伝えてくれるタイプの作品です。『キャッツ』なんてのは世界中を巡回してまぁそれはそれですが、本当の文化交流として機能するのは、こういった小規模な作品です。

──どのようにしてフェスティバルを始めたのでしょう?
 ドリス・デューク・チャリタブルという助成財団で芸術助成プログラム部長をしていたオルガ・ゲレー女史や、その他の色々な関係者との間で出た会話が発端でした。「この国の今の我々の世代で最も優れた創造をしているメジャーな演劇人は、なぜこの国のメジャーな演劇専門劇場で上演していないのだろう?」と。ニューヨークの「ウースター・グループ」を例にとりましょう。彼らはミネアポリスのウォーカー・アートセンターやオハイオのウェクスナー・センターといった現代美術館や、シアトルのオン・ザ・ボードやLAのレッド・キャットといった国際的な現代舞台芸術を上演する小劇場にはツアーをし公演しているのに、ミネアポリスのガスリー・シアターやカンザス・レパトリー・シアター、ボストンのアメリカン・レパトリー・シアターやニューヨークのパブリック・シアターにはツアーしない。何故なんでしょう?
 もしも誰かがアメリカの演劇史について書こうとするなら、おそらくウースター・グループやリチャード・フォアマンについて触れるでしょう。でも彼らの作品をメジャーな劇場で観ることはない。こういった「独立した」グループというか「ホームレス劇団」というかは、プレゼンターから委嘱を受けたり、海外公演ツアーをしたりしているのに、米国のメジャーな演劇専門劇場からはお呼びがかからない。この二つの世界に何かしらの非互換性でもあるのでしょうか?
 そこで、200人くらいの演劇関係者が集まってこの問題を話し合う会議が2度ほど行われたんです。結果は非常にキツイものでした。メジャーな演劇専門劇場の人々は、「我々は新作を世に送り続けている。新作のリーディングも毎週やっているし、毎年・毎シーズンごとに新しい演劇作品をプロデュースし続けている!」と主張しました。たいへんなぶつかり合いになりましたよ。
 結局私は、オルガ・ゲレー女史にこう言ったんです。「1月のAPAPの直前にまた会議をやろう」と。そうして会議をするための助成金を得たのですが、その資金をブルックリンにあるセント・アン・ウェアハウスという劇場でフェスティバル(UTR)を開催することに使ったのです。1日の会議ではなく、7日間のフェスティバルにね。2005年のことです。私としては、「自分たちがどういう作品のことを言っているのか、とにかくみせてやろうじゃないか。それを観たらメジャーな劇場の連中だって納得するだろう、しないかもしれないけど…」ということだったわけです。そういうメジャーな劇場の人々の中で納得をしてくれたうちのひとりが、オスカー・ユスティスでした。その年の後半にパブリック・シアターの芸術監督の職に就いたオスカーは、さっそく私を誘ってくれて、翌2006年にUTRはセント・アン・ウェアハウスからパブリック・シアターに場所を移しました。

──どのような支援があって実現できたのですか? また、UTRがラッセルさんの思い描くとおりのフェスティバルになるにはどのような要素が必要なのでしょう?
 最初はデューク財団の協賛でしたが、ほどなくもっと大掛かりな助成金を獲得しました。フェスティバルには多大な援助が必要です。何しろ人々が複数の公演を観るようになるにはチケットを低額に押さえなければなりませんから。その点でUTRは健闘しています。なにしろ値上げをしたのは8年目の今回が初めてで、しかも15ドルから20ドルに上げただけですから。
 私には、いわば「理想郷」と言うべきフェスティバルのアイディアがあります。ひとつ目が、BAMの『ネクスト・ウェーブ・フェスティバル』やパリの『フェスティバル・ドートンヌ』のように3〜4ヶ月間かけて開催されるようなタイプのものではなく、たくさんの作品がほんの数週間で観られること。二つ目が、作品を作ったアーティストたちが、フェスティバルの期間中ずっと街に滞在していられること。三つ目が、観客はいろいな公演を様々な時間帯で観られること。ちょうど映画祭みたいにね。四つ目が、アーティストから観客まで皆が集まれる場所として機能すること──等々の他に、さらには質疑応答ができるなどいろいろな要素がフェスティバルをフェスティバルたらしめます。近年では「クラブ」という要素を付け足すことで、UTRもようやく本当のフェスティバルの体を為すようになりました。また、舞台芸術の業界人だけのための存在ではなく、ニューヨーク市全体に開かれたフェスティバルになってきました。
 以上を鑑みると、パブリック・シアターはまさに理想のスペースです。シネプレックスのように劇場を複数備えていることに加え、信用ある劇場ですから、「パブリックで演っているんだから観てみようか」という冒険心も起きやすい。何しろまったく知らない作品も含めて複数の作品を観客に観てもらうというのが、フェスティバルの肝心要なところなのですから。

──因みに「アンダー・ザ・レーダー(レーダーにまだひっかかっていないものという意味)」というフェスティバルの名称ですが、今後も「レーダーにまだひっかかっていない」未知の作品の発掘を続けるのですか?
 ニューヨークのダウンタウンで演劇を作っているような若い連中にとっては、UTRのラインナップはアンダー・ザ・レーダーどころかもう重々知っている「オン・ザ・レーダー」ばかりに見えるでしょう。でも私は全米あるいは国際的な基準の「レーダー」に則っています。例えば今年のラインナップに含まれているマーク・バミューティ・ジョセフなどは、頭角を表して数年経ちますし尊敬もされています。が、彼のことを知らない人々もたくさんいます。特にパブリック・シアターの常連客は彼を知らなくて普通でしょう。そういうものを紹介することがとても重要なのです。
 また、「レーダーにまだひっかかっていない」ということに対して、私はかなり広い定義を当てはめています。例えば昨年、サミュエル・ベケットという“若手の”作家の『ワット』という作品をやりました(笑)。極めて冒険に満ちた作品で、つまりは「ベケットだったらUTRで何をしただろう?」という疑問を提示したわけです。ひいては、今日の実験的演劇作品は明日のベケットかもしれないないよ、という視点をフェスティバルの文脈に植え付けたのです。

──つまりフェスティバルを通じて「実験的演劇作品」を定義しようと試みた、ということですか?
 いや、それは不可能(笑)。演劇は太古から存在するのに「なぜいま演劇するのか?」──と、そこに興味があるんです。この問いに対して、UTRが招聘するアーティストたちは誰もが独自の回答を持っていると思います。UTRのプログラムの中には、時にはまったく実験的に見えないものもありますが、それは「今、行われている演劇」を提示することで「今日の演劇」というものを再構成してみようという私の試みなんです。何しろ、ある者は「一演者対一観客」なんて演劇作品を作っているかと思えば、またある者は昔ながらの単純なリーディングに立ち返っていたりするのが今日の状況ですから。さらに私は「演劇」という言葉自体にも広い定義を用いていて、実際、昨年と今年のフェスティバルには、舞台上に登場するのは映像だけという作品も含まれています。

──そういえば昨年のUTRでは、『ボナンザ』という作品がありましたね。5つのビデオ映像に、山沿いの小さな街を模した大きな模型がデンとあるだけの舞台で、役者もいなければ舞台装置もない。「面白かったけど、あれって『演劇』?」って皆と話したのですが…。
 ほらね。あなたも今そうして「演劇とは何?」という問いかけを始めたでしょ。一方、『ボナンザ』を劇場以外の場所で見せることは考えられませんでした。観客が歩いて通り過ぎてゆく美術館のような設定ではダメで、座って対峙して最初から最後まで観てもらわないとならない。じゃあドキュメンタリー映画と見なすか?という考え方もあるけれど、立体の巨大な模型はあるし、照明やその他の要素も様々だし、結局、あの作品を見終わって観客が抱くものは演劇体験と同様の何かがありますよね。
 実験的グループの作品でも、私は「仲間同士が内輪でしゃべっているだけ」みたいなタイプのものには興味が持てません。そういう作品も観に行きますし、時には中の会話を面白いと思うこともありますが、でもやはり内輪うけのような作品では観客は理解できませんよね。観客に対して開かれた対話をしかけるものであって欲しい。

──そもそもいつ頃からどのようにして、舞台芸術や演劇に興味を持つようになったのですか?
 幼い頃は引っ越しばかりでしたが、最終的にテキサス州の首都オースティンに住むことになりました。当時60年代後半から70年代のオースティンは、アメリカの中でもたいへん肥沃な土地だったのですが、多くの演劇関係の人々と知り合いまして、テキサス大学オースティン校に演劇専攻で入学しました。演出の指導にかけては非常に優れたフランシス・ホッジ教授やポーランド女性のヤギンカ・ジークの元で演出を学び、そこでポーランドの演出家イェジー・グロトフスキのことや、ピーター・ブルック、サム・シェパードらに興味を持つよういなったのです。

──彼らのナマの公演をテキサスで観たのですか?
 いいえ。英国の『プレイズ・アンド・プレイヤーズ』などの雑誌で彼らのことを《読んだ》だけです。同時に自分でも演出を始めたのですが、当時はニューヨークで働くなんてことは考えてみたこともなくて、将来はどこかでリージョナル・シアターをやるんだといつも思っていました。卒業と同時に、先生のヤギンカ女史の手引きで(当時はまだ鉄のカーテン下にあった)ポーランドへ10週間ほど行けることになりました。そこでグロトフスキをはじめポーランドの非常に優れた演出家たちと一緒に働く機会を得たのですが、結局それが私の人生を大きく変えてしまいました。というのも、ポーランドからオースティンへ戻る途中、ちょっと立ち寄っただけのつもりのニューヨークにそのまま居着いてしまい、ついに家には帰らなかったのですから。オースティンに仕事をもっていたわけでもないから、戻らなければならない理由もなかったのですが。
 それが私にとっての初めてのニューヨークでした。寝起きする小さな場所も手に入れ、洋服売りとかヨーグルト屋とかの小さな仕事で生活費を稼ぎながらニューヨーク中を探索していました。1977年の後半のことです。探索するうちに、演劇の方の世界はまだまだ「男が中心」といった感じで、フェミニズムやその他の当時の新しい考え方にあまり呼応できていないけれど、ダンスの世界、あるいは「パフォーマンス・アート」の世界の方には流動性があり政治的にも先進的であることを発見しました。それで、ダンスの連中と知己を得始めたのですが、彼らがニューヨーク市が1976年以来ほったらかしにしていたNY市立第122学校のビルを無断借用し始めたんです。

──そうこうするうちにアーティストの一団がビルを占拠してしまった---70年代ニューヨークの有名なエピソードのひとつですね。
 そう。でも占拠はしたものの、この2階の広い部屋をどうするかという具体案はなかったので、彼らはチャールス・モールトンという振付家に運営を依頼したんです。頼まれたチャールスは、さらにティム・ミラー、ピーター・ローズ、チャールス・デニス、ガブリエレ・ランスナーなど仲間のアーティストに声をかけて協力を仰ぎました。そういった出来事が沸き起こっていた時期なんですね。1979年、映画『フェーム』の撮影が始まると、そこはロケ地になり、アーティストたちはいったん立ち退きになりましたが、撮影終了後、彼らはまた戻ってきました。私が彼らに紹介されたのはちょうどその頃で、あれやこれやの手伝いをしました。自分としてはまだ演出家としてやっていくための努力を続けていた頃です。一方、当初P.S.122を運営していた連中のアーティスト・キャリアが軌道に乗ってきたため、「じゃあ我々よりもビジネスに長けているマークに管理運営を替わってもらおうじゃないか」ということで、私に年間7,000ドルの給料でやってくれないかと頼まれたわけです。当時私が取得できたはずの失業保険相当の金額をさし引けば、実質「年俸3,000ドル」ですよ(笑)。
 それから1年半は、私が唯一の雇用スタッフでした。といっても、当時は「みなし法人」名義で銀行口座を持っていただけの任意団体です。私は(税金控除資格のある)503 (c) 3NPO法人格取得の手続きに着手し、また帳簿の管理も始めました。その学校に「P.S.122」という名称を付けたのも私です。設立者たちは「オーディトリアム・プロジェクト」という名前にしたがったのですが、「だめだめ、P.S.122にしなきゃ。Public School122(公立第122校)じゃなくて、《パフォーマンス・スペース》の頭文字をとったP.S.122だよ」って。そうして前に進み始め、ほどなくビルのもう1カ所を使って上演スペースを2カ所設けることになりました。

──つまりラッセルさんが、P.S.122を「まとも」な組織にしたんですね。その間、リージョナル・シアターの演出家になるという思いはまだ続いていたのですか?
 かなり早い時期から、ひとりの俳優の役作りをDirect(演出)することよりも劇場全体のことにより興味があるなと気づいていて、ですから自分のすることは劇場のDirect(運営)だと決意していました。それに、演出の方の世界から私にぜひ戻って来て欲しいという要請もなかったですし(笑)。
 それでまず私がP.S.122のために始めたことは、助成金の申請でした。さらに、アーティストがP.S.122にレンタル料を払うのではなく、どうしたら「アーティストがP.S.122で演る作品に対して観客がお金を払うようになるのか」を考えました。つまりそれまで単なるレンタル・スペースだったP.S.122を、「プレゼンティング(上演)スペース」へと逆転させたわけです。続いて、私たちはアーティストに公演料を支払うようになり、スペースを提供するようになり、さらに新作の委嘱をするようになっていったわけです。予算も年間4万ドルから60万ドルになり、そして1ミリオンへと瞬く間に大きくなっていきました。

──誰がP.S.122を支援したのでしょう?
 当時は全米芸術基金の助成が強力でした。また民間財団も支援してくれましたし、ニューヨーク州芸術評議会も支援してくれました。ハネムーンというべき良い時期で、つまりBAMが1983年に『NEXT WAVE FESTIVAL』を始めた時だったのですが、そこに登場する新しい作品、既存のジャンルで規定できない作品に対して、「いったいどこからこの連中は湧いてきたんだ?」と皆が不思議がったわけです。で、「あの小さなスペースが源泉なのか!」となった。それらを私は、ダンスとか演劇とかフィルムとかと呼ばずに単に「パフォーマンス」と呼びました。何しろ、いろいろな要素がひとつの作品に様々に入り込んでいたりするのですから。

──ジャンルの垣根を飛び越えた作品に焦点を当てたのは、そういうタイプの作品を紹介しているスペースがどこにもなかったからですか? 「誰もやってない、じゃぁ自分がやろう」と?
 そんな風にちゃんと筋道たてて考えたのならすごいのですが(笑)。基本的にその頃のP.S.122は、「危険だけど家賃が安い」というイースト・ビレッジ地区に住む若いアーティストのための、クラブハウスでした。そういう若い連中は、例えば(ロバート・ウィルソンの)『アインシュタイン・オン・ザ・ビーチ』に出演していたかもしれないし、あるいはメレディス・モンクと一緒に仕事をしていたかもしれない。いわば、実験的作品を作っていた大物アーティストの下にいた子供たちが、自分の作品を作り始めたということです。そんな連中の中には、ザ・キッチン(オールタナティブ・スペース)も、フランクリン・フューランス(アバンギャルド・アートのスペース)も、ダンス・シアター・ワークショップ(通称DTW。コンテンポラリー・ダンスの小劇場)も、どこも自分の作品を上演してくれないなんていうのが大勢いました。ですからP.S.122はいわばそういう状況の派生的結果なわけです。
 私は、P.S.122を、できるだけ多くの人がそこで遊べる「偉大な砂場」にすべきだと決めました。もちろん、誰でもおいでと言ったわけではなく、キュレーションというか「プログラミング」が必要です。つまり、一定以上に作品の質を保つために、私自身があらゆる場所に出かけて観る調査を開始したのです。作品を「理解」する必要はない、私がすべきことは作品を「下支えすることだ」──ということをよく考えました。例えばメジャーな劇場では、その劇場の芸術監督の能力の範囲で理解された作品だけが上演されます。つまり、もしもその芸術監督があなたの作品を理解できなかったら、あなたの作品は永久にその劇場では上演されない。でも私がやりたかったのは、自分よりも能力があり、自分を越える才能があり、自分よりもずっと面白い人間を、できるだけ大勢、P.S.122のふたつの劇場で紹介するということでした。その結果、一晩に2つや3つの作品が同じスペースで上演されるなどということも起きました。クリスマス・イブや大晦日も関係なく、毎週毎週何かが上演されているという「年中お祭り」状態でしたね。

──その上演の多さに見合うだけの観客はいたのですか?
 いたとも言えるし、いないとも言える…。ひとつひとつのプログラムはそれぞれに個別の観客を抱えていました。何をやっても「完売」という時期もありましたよ。何せその出し物に来る客数分の席しか置かないなんていうことをしていたので。フレキシブルでしょ(笑)。チケット代も非常に低く抑えました。P.S.122は、昼はリハーサルと受講クラスで埋まり、夜になれば複数の公演という具合に稼動していましたから、いわば非常にユニークなコミュニティー・スペースと言うべき場所になっていました。「実験的なアートに傾倒している人間のため」のコミュニティー・スペースですね。
 さらに、毎週火曜日の晩には『オープン・ムーブメント』という名のプログラムもやりました。たった2ドルの入場料で「あとはお好きに」というもの。音楽もなしで、とにかく「好きにインプロでダンスを披露してください」という仕立てです。観客と演者の境界線がないんです。皆が集まってくる活動がそこにあり、そこへ行けばかならず友人と会えるという意味で、いわばダンスとパフォーマンスのための《教会》のような機能を果たしました。時には、踊るつもりで出かけたのに通路で友人と会って話し込んでしまっただけなどということもあるわけです。
 当時はクラブ・シーンが隆盛で、クラブに出演するパフォーマーをP.S.122のプログラムに取り込むこともありました。例えば「アンソニー・アンド・ジョンソン」のアンソニーは当時毎週月曜の晩にはピラミッド・クラブでショウをやっていましたから、そこからほんの数ブロック先のP.S.122にも登場してもらいました。今では「アンソニー・アンド・ジョンソン」といえばラジオ・シティー・ミュージック・ホールで公演をするほどの大物です。

──そういうかつてのワイルドな状況を恋しく思ったりしませんか。今のニューヨークではもう起こりえないようなことでしょ?
 マンハッタンの中では起こらないですね。でも似たようなシーンはブルックリンのどこかの倉庫あたりでは今も起きているかもしれませんよ、私が招待されていないだけで(笑)。マンハッタンがシーンの中心だった時代は懐かしいですし、それを体感できて、しかもシーンの仕掛人でいられたことは幸運だったと思います。
 ある時点でP.S.122はあまりに大勢のアーティストの出入りでパンパンなってしまったので、私はそういう彼らに「またここに来て公演しなよ」というよりも、「よそに出かけて次の公演場所を探しなよ」と言うことの方が多くなりました。優秀なアーティストにはP.S.122だけでなく他所の場所も揺るがして欲しいと思ったし、だからP.S.122に停留し続けて欲しくなかった。でもP.S.122で公演できればそれでハッピーと感じていたアーティストたちは私のそういう言葉に動揺したものです。私としては励ましやサポートのつもりだったのですが。そうやってシーンを独り占めせずに、P.S.122が孵化器として機能することが、私の自慢でしたから。

──マークさんが発掘し、手助けして世に出たビッグ・ネームのアーティストを何人か挙げてもらえますか。
 アーティストの成功を「あれは俺のおかげだ」なんて言える人はどこにもいません。自分よりも先駆けてそのアーティストを手助けした人が必ずいるものですから。でも、当時の彼らと一緒に働けて凄かったなと思えるのは、エリック・ボゴシャン、スパルディング・グレイ、エディ・イザード、そしてブルーマン・グループですね。ダンスではイシュマエル・ヒューストン・ジョーンズ、ダグ・ヴァローン、ロナルド・K・ブラウン。日本からのアーティストではダムタイプ、そして田中泯。もちろん田中泯は私が「スタート」させたアーティストではないけれど、P.S.122は彼の“ホーム”でした。

──よその実験劇場──例えばラ・ママ劇場とかダンス・シアター・ワークショップ(DTW)とP.S.122の違いはどこにありました?
 ラ・ママはP.S.122よりもずっと演劇寄り、そしてDTWはもっとダンス寄りです。それぞれが少しずつ違う領域を扱っていましたが、複数にまたがったアーティストもいました。例えばブルーマン・グループの場合で言えば、彼らがショウを練り上げる段階でP.S.122は大いに尽力しましたが、ショウを完成させる段階ではラ・ママで演っています。ラ・ママはブルーマンに、「好きにデコレーションして3週間演っていい」というオファーを出しましたが、P.S.122にそんなことはできませんから。ラ・ママ公演の後、彼らはアスター・プレイス劇場に移って、以来ずっとあそこが拠点です。

──どこでどうやってアーティストを発掘していましたか? スタジオ訪問をしていましたか?
 ほぼ毎晩何か新しいものを観に出かけていましたし、アーティストが訪ねてきていろいろ話をすることもありました。ビデオも受け取りましたけれど、あまり見なかったですね。そうしている内に、「どのアーティストが面白い考え方を持っているか」「そのアーティストを信じることができるか」など、少なくともそういう点においては直感が働くようになりました。そうして信じられればそれを本人に伝えて、「これこれの週末にここで公演してみないか? 些少だけど公演料はこれくらいならあげられるから」と言ってオファーする。公演が失敗しても、「気にするな。また別の週末にやってみようよ」と。今ではビッグ・ネームになったエレベーター・リペア・サービス劇団とはこの方法での付き合いでした。彼らのP.S.122での初演は、ぜんぜん理解できなかった。でも何かあるなという気がしたので続けて何度もチャンスを与えました。

──内容に確信が持てない作品を、それでも上演すること、そして確信のないものに対して観客動員をせねばならないこと----これらが正当化できた根拠は何ですか?
 若手のアーティストには若い友人たちがいて、大学を卒業したばかりの彼らには暇な時間がふんだんにある──だから友人の作品にも興味を持って互いに互いの作品を観に行くものです。だから1回目の公演はいつだって集客には苦労がない。でも2度目、3度目となると話は別で、アーティストはその時点までに自分の本当の観客を獲得できていなければなりません。エレベーター・リペア・サービスの公演には常に観客がいたんです。

──そういったあれやこれやを、誰から学びましたか? 誰の助言に耳を傾けましたか?
 人の助言を仰ぐということはあまりしませんでした。誰かに耳を傾けるとすれば、それはほとんどの場合アーティストたちでした。だってP.S.122は彼らのスペースであって、私は単にそれを運営していたにすぎないのですから。彼らには、「今後どこに向かっていきたいか?」などと尋ねたものです。自分とアーティストとの当時の関係性は、現在とはかなり違ったものでした。
 そういう関係性の中から私が気づいたことがありました。それは、アーティストがツアーに出かけると、戻って来た時にはその作品は以前よりずっと成長しているということです。そこで、作品の早期の段階でアーティストをツアーさせる「P.S.122・フィールド・トリップ」という事業を立ち上げました。それによって彼らはよその土地のことを知り、作品に対するよその土地の人々の反応に触れることができます。80年代半ばから90年代半ばまで続けましたが、それはもうあらゆる土地に出かけました。
 ツアーのために、複数の作品を組み合わせて一晩モノのプログラムをつくりました。つまり、「ブルーマン+ホーリー・ヒューズ+ロン・ブラウン+ダニー・ホッホ」みたいに、3組とか4組のアーティストで構成されたプログラムにするわけです。ツアーの受け入れ先にしても、ホーリー・ヒューズひとりでは集客がおぼつかないけれど、《詰め合わせセット》になっている「P.S.122・フィールド・トリップ」なら集客を心配しなくていいわけです。面白いことに、このプログラムを上演した劇場は、その後に同じアーティストのブッキングをするんです。出演者がその土地のコミュニティーに認知してもらえるようにしているからなんですね。
 続いて始めたのは、P.S.122的な世界をニューヨーク以外の土地にも創出することでした。例えば、ピッツバーグにあるアンディー・ウォホール美術館の「オフ・ザ・ウォール」という舞台公演シリーズの立ち上げに参画してプログラムづくりを手がけたり、あるいはテキサス州オースティンで「フレッシュ・トゥレイン」という名のフェスティバルを創設したりしました。この名前、最悪でしょ。実はこの時に私が提案したフェスティバルの名前は「アンダー・ザ・レーダー」だったのですが、みんなにつまらないと言われて(笑)。これが2003年のことで、私は2004年にP.S.122を辞任しました。

──なぜP.S.122を辞めたのですか? もっと大きな複合劇場とかフェスティバルに興味があったのですか?
 私の隠居計画は「死ぬまでP.S.122!」でした。大きな劇場とか他の様々な土地にプログラムを持ち込むといったことに対して夢を描いたりはしましたが、基本的にはP.S.122で自分がやっていたことに十分満足していました。80席と100席という小さなキャパシティーですから色々な公演を試すことができましたし、集客に苦労することもなかった。でも理事会の考えは違っていました。長年同じNPOを運営していれば、理事会は「ここは彼のものか、それとも我々のものか?」といった疑問を持ち始める──よくあることです。私は21年間P.S.122にいたので、新規のメンバーが占める理事会と激しくやりあいました。非常に辛かったですよ。それでP.S.122の職から退くことにはしましたが、でも足をとめることはしなかった。ニューヨークやニューヨーク外の場所で、劇場やフェスティバルのためのコンサルティングやプログラムづくりという仕事を始めました。

──ここらでUTRの話題に戻りましょう。アメリカ人の作品に焦点をあてたのが最初のフェスティバルで、期間は1週間。しかし現在ではインターナショナルな作品もたくさん含まれている2週間のフェスティバルになっています。UTRが目指すのはインターナショナルなフェスティバルなのでしょうか、それともただ単に規模が拡大しているだけなのでしょうか?
 1年目の時もロシアからの作品が含まれていました。2年目は「国外作品」に焦点をあてましたが、アメリカの作品も混ざっています。3年目はもっとずっと入り混じっています。つまりUTRは常に国際的であると同時に全米的なのです。海外の作品とアメリカの作品とを対峙させたいというのが根底にあるからです。
 独立独歩でやっているアーティストたちには、彼らがどこにいようとも共通した世界があります。それは、自分と時代を共有する観客とつながることのできる作品を小さな規模で作り、独自の方法論で模索するという世界です。それを以て眺めると、小規模な作品に焦点をあててそれらを紹介するUTRは、それぞれの国の若い世代の考えを伝える役割を果たしているわけで、つまりは非常にローカルなレベルでの草の根交流と言えるでしょう。小規模の演劇というのはゲリラ的かつ現代的ですから、このような草の根交流に最も適していると思っています。

──でも、国際的な作品をアメリカ人に見せる際には言語の問題があります。一般的に言ってアメリカ人は非英語の作品にあまり肝要ではありません。
 ここ10年間に、テクノロジーが字幕に与えた可能性は多大です。かつては字幕といえばスライドで作られていて、たいそうぶざまなものでした。あるいは同時通訳という方法もありましたが、あれも醜悪でしたね。でも今はパワーポイントとプロジェクターが大きな変化をもたらしてくれました。海外の映画を観るのと同じように、海外の演劇も観られます。字幕だけでは岡田利規の日本語の微妙なニュアンスは表現されないかもしれません。けれど輪郭はわかります。そして何よりも重要なのは、日本のアイデンティティーと今日の日本の状況が伝わり、そしてその内容が世界の状況にも直結しているのが汲み取れることです。

──翻訳があれば、演劇作品は他の言葉をしゃべる国の人々とも交信し合える、そう信じていらっしゃるのですね。
 楽観的、あるいはナイーブなのかもしれませんが。その作品が優秀であれば、ユニバーサルな共鳴音を持っているものです。例えば同じポーランドの演劇を観たとしても、「この作品はポーランド人の間でしか通じない会話ばかりで、海外には通じないな」と思う作品もあれば、「これはポーランドの移民問題を語っているけれど、米国人にも共鳴するテーマだ」と感じられる作品もある。そういうものを探すわけです。

──ヨーロッパに観に行くと、字幕がフランス語とドイツ語だけとか、あるいはオランダ語だけのように英語字幕がないことが頻繁にありますよね。そんな時はどうしているのですか?
 直感の為す部分は大きいですね。つまりその作品から「真実」を感じ取れるかどうかとか、自分の観客の琴線に触れるかどうかとか。さらに、その作品の言語と内容を理解できる第三者の意見を仰ぎます。それを元に、内容が自分の観客をどう導くか、それにはどのような文脈づくりをしてやればいいのかなどを考えます。私はフランス語を解しませんが、2005年にニューヨークであった「アクト・フレンチ」というフランス演劇のフェスティバルのプログラムづくりに参画しました。その時に私が発見したいくつかの若いフランスのグループは、その後米国でのキャリアも発展させて成功しています。

──では、そろそろ日本の演劇についてのお話を伺えればと思います。
 今はおもしろいアーティストが次から次へと登場してきているように見えますが、違いますか? 岡田利規は凄い。三浦大輔(ポツドール)の『夢の城』という作品をモントリオールのフェスティバル・トランスアメリークで観ましたが、彼も面白いかもしれません。ただ、あの作品のセックス表現だらけのすごさに衝撃を受けて興味をそそられただけなのかもしれず、彼が本当に伝えようとしている何かを私がわかっているかどうかはまだ疑問です。今後どうなって行くのかに興味はありますね。
 私の日本に関するリサーチはまだまだ希薄です。セゾン文化財団が日本でやる集中講座みたいなのに出席しようかとも思いましたが…。ただとにかく行って色々な話を聞いて、どんなことが今日本で起こっているのかを見つけるのは面白いことかもしれませんが、それでもちょっと難しいですよね…。

──その「難しい」というところをもう少し詳しく…。
 日本をまだ本当に眺めていないだけなのかもしれませんが、まず私は日本で行われているフェスティバルというものを知りませんし、自分と審美眼を共有できそうな日本在住の人がたくさんいるという話は、少なくとも耳にしたことがありません。塩谷さんはそういう人の一人で、君があれを観に行けと言えばそれは真摯に受けとめます。でも日本の中にはそう人がいない。
 言い換えれば、自分の相方(カウンター・パート)になるような人が日本にいないということです。自分の相方、つまりプレゼンターやフェスティバルを引っ張っている人々は、ベルギーにもフランスにもアイルランドにもポーランドにもチリにも、あちらこちらにいて、彼らは「リーチアウト」ということの意味をよく知っています。私の役割、そして相方たちの役割は2つあって、ひとつはプロダクションを買うバイヤーであり輸入業者であること、もうひとつは「関係性を構築し、それを重視する」ことです。後者の役割は誰にでも担えるというものではありません。こういうことが日本にあるでしょうか。もしも私の相方が日本に存在しているのであれば、「岡田利規の次」を発見した時には、「マーク、こいつを観なければダメだぞ」と私に連絡をくれるでしょう。こういうやりとりに基づいて次に出かける場所を決める。30年間こういうやり方でやってきたのですから、これが私にできる方法ということだと思います。
 日本はその資力を舞台芸術の輸入ではなく、輸出に投じたら良いのではないでしょうか。そのためには、私のような他の国のプレゼンターやプロデューサーが、日本のプレゼンターやプロデューサー、あるいはアーティスと直接的な関係を作っていけるような何らかの手段を講じてくれれば、と思います。

──今年のUTRのラインアップには日本の作品が2つ含まれています。それを除けば、UTRでアジアの作品が紹介されたのは、数年前の韓国からの『ヴォツェック』だけですよね。
 その通りです。アジアについては非常に一生懸命ウォッチングしています。インドネシアからある作品を持ってこようとしたこともありますし、カンボジアにも候補がありましたが、まだ実現に至っていません。アジアは広大だ!と感じていて、しかも簡単ではありません。何しろアジアには非常に多種類の言語があって、個々の国の文化も違えば慣行もいちいち違う。ヨーロッパだって様々な国がありますが、ヨーロッパの作品と比べると、アジアの国々から来る作品は少ないです。言うまでもなく、ニューヨークからはとても遠いですからね。

──最後に将来の計画あるいは夢について語ってください。
 私の夢の構想は、フェスティバルが「一人前」の予算を備えることです。具体的に言えば、現在の総予算60万ドルなんて金額よりずっと多くの予算が欲しいということです。60万ドルで本当に何から何まですべてまかなわなければならず、この中にはスタッフの給料やアシスタントやテクニカル・ディレクターのフィーまで含まれています。パブリック・シアターが少しずつ経費負担の範囲を増やしてくれてはいますけれど、最初の数年は自分の食い扶持分まで含めて資金調達をしなければなりませんでした。
 自分で自分の場所を運営したいですよね。自分の場所にいて、自分のやり方でアーティストに報酬を払えるというのが、やはり一番です。今はそれができませんから。もしも劇場があって、インフラがあって、ちゃんと援助があって、マトモな予算があって、そういう場所の役職をオファーされたなら、たとえニューヨーク外であっても移るかもしれません。私は高額ですが、でもフレキシブルですよ(笑)。
 マジメな話、今はUTRをできるだけ長く続けていくことが、私の希望です。十分長く続ければ、私が去った後にもフェスティバルは生き残る。これまでに、資金調達が十分にできるかどうかわからずに「今回はフェスティバルが開催できないかも」と思った年が何度もありました。結局いつも資金を調達できてはきましたが、資金のことは常につきまとってきた問題です。資金の切れ目が生命の切れ目となって消えてしまったフェスティバルは過去にたくさんあります。UTRだってそうならないとは限りません。
 私がパブリック・シアターに移った理由は、自分が同シアターの中に深く入り込めば、そして同シアターがUTRを自身の“資産”とみなすようになれば、UTRはある種の伝統になる──クリスマスみたいにね。そうなれば私が去っても、彼ら自身のプラットフォームたるUTRをおいそれとは止められないでしょう。だからずっと続いていく。P.S.122は、私が去ったあとも消滅しませんでした。もちろんかつてのP.S.122とは多少違ったビジョンの場所にはなっていますが、今もなお観ておかなけりゃと思う作品が上演される場所であり、そして今も観にでかけて行く場所です。P.S.122は続いている──それが私が最も誇りにしていることのひとつです。

──長いお時間と、興味深いたくさんのお話をどうもありがとうございました。
 
TOP