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マンディープ・ライキー
マンディープ・ライキー
Mandeep Raikhy



「イグナイト!」
IGNITE !

http://ignitedancefestival.com/ イグナイト!
Presenter Interview
2015.3.27
From the Indian dance community, the international festival “IGNITE!” 
インドのダンス・コミュニティが発信する国際フェスティバル「イグナイト!」 
2010年からインドの首都ニューデリーで行われているコンテンポラリー・ダンスの国際フェスティバル「イグナイト!(IGNITE!)」。“発火”を意味するこのフェスティバルは、公演主体のフェスティバルとは一線を画し、インドのコンテンポラリーダンスを長期的な展望をもって育てることを目的に実施されているものだ。フェスティバルの主体となっているのが、若いダンサーたちが集まり、ダンス・コミュニティを形成し、伝統舞踊にも深くアクセスしつつ、インドに根ざしたダンスの文脈を創って行くことを目指している「ガティ・ダンス・フォーラム Gati Dance Forum」だ。創設者の一人であり、マネージング・ディレクターを務めるマンディープ・ライキーに話を聞いた。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

「対話」が重要なダンス・フェスティバル

──今年の『イグナイト!』は、1月11日〜18日に開催されました。私ははじめて伺いましたが、非常に興味深いプログラムでした。初めの3日間は朝の9時から夜の7時(3日目は5時)まで、インドの伝統舞踊からコンテンポラリー・ダンスについての専門家、また作品を発表するアーティスト自身が出てきて、実演を交えながらカンファレンスが行われました。この3日間は夜に大きな作品が1作品上演されるだけ。それに対して後半の日程にはワークショップやマスタークラスが行われ、午後から夜まで大小様々なパフォーマンスがプログラムされていました。とてもユニークですね。

 ありがとうございます。2010年にスタートしたときに比べ、「イグナイト!」の規模はほぼ倍になりました。私達は“対話を重視したフェスティバル”を目指しています。公演前だとダンサー達は余裕がないので、今回はカンファレンスをプログラムの前半に集中させ、なかば監禁するようにして(笑)、対話するしかない状況を作ったのですが、成功でしたね。
カンファレンスにはインド全般から約80人のダンサーが参加しました。以前はインドのダンスが中心でしたが、しだいに南アジアや隣国との対話を共有するよう拡張しています。私達は国境を越えて近隣諸国と歴史や古典舞踊という財産を共有していますから。今後はさらにアジア、地球規模へ対話を展開していくつもりです。

──会場となったのは、ドイツ大使館内のゲーテ・インスティテュートやスペイン大使館内のセルバンテス文化センターなどでした。
 中心となったゲーテは私たちの最初の提携機関で、素晴らしいホールを使わせてもらっています。スタッフも非常に好意的で、とても温かい雰囲気ですし、フェスティバルのメイン会場にふさわしい。セルバンテス文化センターとの提携は今回が初めてです。彼らは素晴らしく美しいギャラリーをもっていて、今回はパドミニ・チェッターのサイトスペシフィックな『wall dancing』という作品に最適でした。

──公演プログラムも魅力的でした。1日目はチョイ・カーファイの『SOFT MACHINE:SURJIT AND RIANTO』。カーファイはシンガポールのアーティストですが、本作ではインドとインドネシアの伝統舞踊とコンテンポラリー・ダンスとの関係を扱っています。2日目のディーパク・クルキ・シヴァスワミーは印象的でした。彼らはインド・パキスタン間で緊張が続くカシミール地方からの招聘ですね。上演された『BRITTLE FRAMES』は戦闘を思わせるシーンも多く、とても政治的な作品でした。また、3日目には先ほどのチェッターによる、コンセプチュアルな作品がありました。
 今年の参加作には多くの政治的な作品がありました。『ミックスビルド1』というカテゴリーでは4人のインドの若い振付家を紹介しましたが、いずれも力強い政治的主張のある作品ばかりです。ミラの『According to official sources』は身体に悪影響を与える工業製品やその広告を批判していました。また、スリランカのヴェヌリ・ペレラ『traitriot』は自国での内戦が女性の身体に与えた影響に注目しました。そして多国籍アーティストを自称しているポスト・ナティヤム・コレクティブの『super ruwaxi: origins』は、性別・性差そして地域性を扱い、既成概念を揺さぶりました。フェスティバルでこういう多様な作品が見られるのは重要なことです。

──別の日に上演されたドイツ・インド・バングラディシュの共同製作によるヘレナ・ウォルドマン(ヴィクラム・イェンガー共同振付)の『MADE IN BANGLADESH』も実際にあったサバール縫製工場崩壊事故を扱った力作でした。公演作品はどのように選ばれるのですか。
 インド国内外のダンサーを公募し、選考委員会で選考しました。作品募集要項は「内容的あるいは文脈的にインドダンスに貢献する作品」であれば、どんな系統のダンサーも参加できるようにしました。また身内ばかり選ばれることのないよう、選考委員にはダンス界以外の様々な分野の専門家を入れています。8〜10人くらいで、作品の「質・批評性・フェスティバルの文脈との関連性」を基準に、全員が合意するまで話し合いました。

──今回驚いたのは、多くのパフォーマンスが入場無料だったことです。「インドでは、歴史的にダンスなどの芸能は富裕層が招いて無料で庶民に見せるもの」だったと聞いたことがありますが、本当ですか。
 はい。特にデリーでは「舞台はタダで見るもの。公演途中に退出してもかまわない」という慣習があります。私たちはなんとかこの習慣を変えようとしてきました。価値のある作品を創り、そのチケット代をさらなる創作に充当するため、今回も頑張って多くの公演でチケット入場制を採り入れています。だいたい200〜400ルピー(約390円〜770円 1ルピー=1.93円で換算)ですから、カフェでコーヒーを飲むのとかわりません。まずは「芸術観賞にはお金を支払うものだ」という意識を人々に持ってもらいたいのです。

──フェスティバルの予算額をお尋ねしてもいいですか。
 約70万ルピー(約135万円)です。しかしこれは減額したものです。というのも6カ月前から企業に協賛を依頼していたものの、フェスティバル1カ月前に予算が足らないことがわかり、急遽クラウド・ファンディングで15万ルピーの資金を調達しました。苦肉の策でしたが、「このフェスはインドの文化形成に必要不可欠なんだ」という意識が生まれ、かえってフェスティバルへの参加意欲は高まりました。驚いたことに、真っ先にお金を出してくれたのは、収入が少ないはずのアーティストやダンサー達自身でした。しかも彼らの募金額の方が、富裕層の支援額よりもトータルではずっと大きいのです。私達は少数の金持ちの支援ではなく、この場を誰よりも大切に思ってくれるアーティストやダンサー達の草の根支援で成り立っているのです。


ガティ・ダンス・フォーラム

──フェスティバルの主体である「ガティ・ダンス・フォーラム」は、どのような経緯で設立されたのですか。設立は2007年ですね。

 はい。2005年に私がロンドンのラバン・センターを卒業したばかりの夏、デリーで、やはりロンドンから帰国して間もなかったダンサーのアヌーシャ・ラルと出会ったことが全ての始まりです。私達は意気投合し、一緒にリハーサルを続けましたが、不思議なことに創作意欲がまるで湧いてきませんでした。その理由を二人で話しているうちに「インドには、まだコンテンポラリー・ダンス作品が受け入れられる文脈が存在していないからだ」と思い至りました。クリエイションに資金提供してくれるところはなく、観客といえば何をやっても褒めちぎる家族以外にいない。施設もない。私たちのリハーサルはニューデリーの真夏の6月、46℃の炎天下、アヌーシャの家にある硬い床の扇風機もないリビングルームで行っていましたし(笑)。しかし最大の難点は、作品を批評的に鑑賞し、フィードバックしてくれるダンスコミュニティがないことでした。作品を作っても、まるで真空に吸い込まれるような気分でした。
 その話し合いの後、アヌーシャが知り合いのカメラマンの地下スタジオを借りてくれました。そこで「ここにダンスのコミュニティを作ろう」と閃いたのです。それから月1回、ワークショップや上映、討論会を開催するようになりました。多種多様なダンサー達が集まり話し合ううちに、共同体としての結びつきや共通の問題意識が生まれてきました。現在の「フォーラム」という名のとおり「意見交換の場」ができてきて、そこで紡がれた言葉は現在も私たちの活動方針として生き続けています」

──受け継がれている活動方針とは具体的にどのようなものですか。
 ひとつ目は「包摂性」です。我々はあえて「コンテンポラリー」という言葉を我々の活動に当てはめていません。ひとつにはダンスを幅広く捉える視点を保つため。そして「コンテンポラリー」という言葉でひとくくりにされると、そこで議論は終わってしまうからです。2つ目は「批評性」です。自分の作品も客観的に評価できること。また「コンテンポラリー」という西洋的なニュアンスを常に疑い、挑戦する姿勢も大切です。
 3つ目の指標は「自国のダンスへの取り組み」です。インドのコンテンポラリー・ダンスはまだ未成熟で、自信も確立していません。世界への門戸を開くのは慎重にしないと、せっかくの萌芽が一掃され、浸食されかねません。私たちはここ2〜3年の間、新しい試みが生まれるシーンを守りつつ、インド独自のボキャブラリーと文脈、そしてアイデンティティが醸成されるよう見守ってきました。

──そういえば『イグナイト!』で上演された大きな作品は海外、主にヨーロッパとインドのアーティストとのコラボレーション作品がほとんどでした。これはダイレクトな西洋のカンパニーの招聘公演を避け、コラボレーション作品にすることでワンクッション置いていたわけですか。
 そうです。もちろんダンサー達はいずれ否応なく外へ出て行くことになりますが、それまでは保護されるべきです。私たちはインド国内のダンス指導者を招待して、私達のスタジオにレジデンスして学べるようにしています。もちろん「イグナイト!」がインドのダンスの実践に貢献するよう運営されていることはいうまでもありません。

──しかしマンディープさん自身はロンドンでダンスを学ばれていますよね。
 はい。実際、私自身のイギリスでの経験も関係しています。私はラバン・センターの後、別の大学でダンスを学びながら、どうにも西洋のコンテンポラリー・ダンスにしっくりこないものを感じていました。自分のアイデンティティやイギリスで活動を続けることに悩んでいたんです。そんなときインドの伝統舞踊バラタナティヤムを使ったロンドンのダンスカンパニーの公演を観て、その力強さに魅了されました。そのカンパニーで4年間ほど働き、通算7年間もロンドンに住みましたが、次第に「インドらしさをアピールしたダンスでイギリスから助成金をもらう」という自分の行動が欺瞞に思えてしまったのです。ホームシックもありましたが、とにかく「西洋ダンスの文脈の中でインド的な作品をつくること」にまったく興味がなくなりました。その時はまだインド国内にコンテンポラリー・ダンスの文脈が存在していなかったとはいえ、私が対話したい相手はインドを措いて他にはなかった。よく晴れた日の朝、それに気づき、わたしは帰国することを決めました。

──そして、インドに戻ったあなたとアヌーシャさんが中心になり、2007年にガティ・ダンス・フォーラムを正式に発足するわけですが、団体名が「フォーラム」というのが面白いですね。
 「学校」「アカデミー」「カンパニー」「センター」といった、自分たちを中心に置くような言葉は絶対に使いたくなかったんです。そこからはコミュニティを想起できませんから。我々のヴィジョンはあらゆる活動の中心に「対話」を据えることでしたが、これは逆にいえば、作品を適切に語る言葉を見つけ出す必要があった、ということです。なぜならそういうディスコース(言説)を積み重ねていかなければ、どんなに新しい作品を発表しても、一過性の物として消費されるだけですから。
 2007年に私たちは少し広い場所に移り、内装工事の資金集めに「ダンスレンガ募金」を始めました。募金額の多寡に関係なく、全ての募金者の名前は改装に使われたレンガに残っています。これはダンサーだけでなく、観客や熱狂的ファンも加わって大規模なものになりました。こうしたひとつひとつの積み重ねが今に至るまで続いています。

──現在のガティ・ダンス・フォーラムの主な活動について教えてください。
 主なものは、「創造」「教育」「研究」「喚起」「ダンス・コミュニティの創造」の5つです。「創造」は、文字通り作品をつくることで、レジデンスやレジデンスを通じたクリエイションも行っています。「教育」では、2015年下半期からデリーの大学と提携してダンス実技のMAコースを開始する予定です。「研究」としては、10人ほどの若い研究者に依頼して、インドのダンス史に関する本を今年の下半期に出版する予定です。「喚起」というのは、スポンサーの獲得など、ダンサー達がダンスの未来のための基盤づくりに積極的に関わることです。
 また、私達のスタジオはニューデリーの中心部のビルにあり、そこが「ダンス・コミュニティの創造」をする場になっています。二つのスタジオがあり、ダンサーは商業利用の場合の半額以下の料金で使うことができます。あらゆる系統のダンサーに開かれているので、互いの技術の交流を含め、仲間に会える居場所と感じているはずです。
 実は、ガティ・ダンス・フォーラム設立当初に決めたルールがあって、それが「私たち運営側のダンサーは、フォーラムに自分の作品を持ち込まない」ということでした。開かれたダンス・コミュニティ空間を運営するなら、人々にとってそこが中立の場所でなくてはなりません。だから私達のクリエイションの資金がフォーラムから出ることはなく、フェスティバルでも私達スタッフの作品は上演されることはありません。

──予算について聞かせてください。主な支援はどこから受けているのですか。
 予算については継続性の判断が難しいものもあります。そのため役員には公開していますが、ウェブサイト上では閲覧できません。現在はゲーテ・インスティテュート、セルバンテス文化センター、ノルウェー大使館からの助成金を受けています。ノルウェー大使館とゲーテ・インスティテュートはニューデリーを文化的に重要な拠点と評価してくれていて、フォーラム設立初期から多大な協力をしてくれました。この2団体がなければ、私たちダンサー集団が継続的な活動をする組織に生まれ変わることはできなかったでしょう。ただもちろん本国の事情で変動する可能性は絶えずあるので、私たちは常に新しい支援団体を探しています。
 今回、「イグナイト!」は、奇跡的に「サンギート・ナタック・アカデミー」からの支援を受けることができました。彼らは1952年に設立され、政府から資金を受けていますが独立した組織であり、音楽や舞台芸術の支援を行っているインド屈指の権威ある組織です。これは先述した「喚起」の活動の成果です。政府系機関との対話も重視し、常にインドの文化を考える者としての一体感を持った交渉の賜物だと思います。


インドのコンテンポラリー・ダンス状況

──インドのコンテンポラリー・ダンスについて、もう少し聞かせてください。ガティ・ダンス・フォーラムが先駆的な存在であることはわかりましたが、それ以前はどんな状況だったのでしょう。とくに強い影響を受けた人はいますか。

 インドはとても広い国です。インドの現代ダンスの歴史には、多くの功労者がいましたが、各地でそれぞれ孤立した状況下で活動していたため、誰が中心と一概に言うのは難しいですね。
 地域的にいうと、たとえば南インドのチェンナイにあるカラクシェトラ芸術学院(1936年設立。インドの伝統文化、とくにバラタナティヤム舞踊とガンダルヴァ・ヴェーダ音楽の保存に注力)では、チャンドラレーカ(バラタナティヤムを修め、インドにおけるコンテンポラリー・ダンスの嚆矢で世界的に活躍)から、彼女の舞踊団出身のパドミニ・チェッターに至るまで、多くのダンサーを輩出しています。
 ムンバイ(ボンベイ)にはアスタッド・デブー(カタック、カタカリといったインド伝統舞踊と現代舞踊を学び、ピナ・バウシュ作品にも出演)がいます。彼は70年代の現代ダンスを牽引した功労者で、様々な面で変革をもたらした重要人物といえるでしょう。ムンバイにはまたテレンス・ルイス・アカデミー(ボリウッド、コンテンポラリー・ダンス、武道など幅広いダンス教育を行っている)があり、信頼できる堅実なトレーニングを行っています。
 デリーにはウマ・シャルマ(カタックの改革者)や、ウダイ・シャンカール(インド舞踊を世界へ紹介した功労者。1923年にはアンナ・パブロワと共演)といった代表的ダンサーがいます。
 過去10年でみれば「アタカラリ・センター・フォー・ムーヴメント・アーツ」(1992年設立)を擁して高い教育を行い、コンテンポラリー・ダンスの様々な活動のハブとして機能しているバンガロールが、一番勢いのある都市だと思います。

──広く多様で長い歴史を持つインドには、各地に様々な舞踊家の軌跡があるわけですね。
 その通りです。私たちはいま「舞踊家の個人史と地理的側面を掛け合わせたインド現代ダンス史の地図」をつくりたいと思っています。1人の著者が書いた歴史ではなく、舞踊家が自分の個人史を各活動地域にマッピングし、各地で形成されてきた複雑なダンス史の軌跡を共有体験するための地図をつくりたいですね。
 というのも、多くのインドの若手ダンサーは現代ダンスの歴史や背景に無頓着だからです。YouTube動画を見ただけだったり、他国のダンスしか知らなかったりする。しかしインドには、ダンスの実践の歴史があり、何十年も携わってきた自国のダンサー達、研究に値する極めて重要な作品があります。しかし、若いダンサー達にはインドの歴史的な文脈への欠落があると言わざるを得ません。
 我々は数年前から、歴史を学び、かつダンス作品を多角的に分析できる批評性のあるダンサーを育成するためコースの見直しをしました。内容は「トレーニング」「創作」「批評的思考」から「執筆スキル」「分析スキル」といった専門的スキル、そして照明・舞台・ダンス音楽の分野に至るまで多岐にわたります。このような多分野への取り組みから、ダンサー自身の創造性の基盤を充実させるための鍵となるような、情報やアイデアを検証しています。

──伝統舞踊とコンテンポラリー・ダンスとの関係はどうですか。両者を融合させようとする人もいれば、伝統から自由になりたくてコンテンポラリー・ダンスへ向かう人もいるものですが、インドではどうでしょうか。
 それはインドでも同じです。互いを拒絶し、無視することで自己正当化するような緊張関係が続く状況がまずありました。実際コンテンポラリーの中には伝統的なものを投げ出して、ゼロから出発したいと思う人も多いですし、それ自体は悪いことではありません。しかし、それはときに継承文化の多大な損失を意味します。伝統形式の歴史を背負った身体を全く脱ぎ捨ててしまうのは、まるで湯桶から赤ん坊を投げ出すようなものです。その一方で、伝統に固執するあまり、いっさいの変化を許容しない保守的な傾向もあり、これもダンスそのものを硬直化させてしまうでしょう。
 そこで我々は中間的な立ち位置を目指してきました。我々は、伝統形式の軛を緩ませながら、伝統舞踊の中で新作をつくろうとする若手ダンサーを奨励しています。まだ十分な結果が出ているとはいえませんが、時代に通用する世代作品が伝統の中から生まれるよう、精一杯の努力をしています。

──たとえばアクラム・カーンはロンドン生まれのバングラデシュ系イギリス人ですが、インド古典舞踊のカタックを採り入れてヨーロッパのコンテンポラリー・ダンス界で活躍しています。彼はインドのダンサーにはどう映るのでしょう。
 彼の作品は分かりやすく、かつ極めて高水準なので、世界中の人々同様、ほとんどのインドの人々も彼のことを好きだと思います。ただ2年前に彼のカタックを使った公演を観ましたが、そのとき「カタックは作品全体に力を与えていたが、カタックが本来持っている優美な柔らかさはないがしろにされていた。それは彼が伝統に属していないからだろう」という批評が出ました。私も同意見です。とはいうものの、コンテンポラリー・ダンスを大衆に分かりやすく商品化に成功した点で改革者だと思います。

──若いダンサーはボリウッド(インド・ムンバイの映画産業の俗称)で振付の仕事などはしますか。
 ボリウッドは極めて組織的に運営されているので、独立系ダンサーとはまったく別の世界ですね。搾取的な側面がないとはいいませんが、産業としてきちんと体制が整っているので、ダンサーの最低賃金は保証されています。ボリウッドのダンサーはそのシステムの中で働き、守られています。独立系の若いダンサーの多くは学校やジムで教えることで食べるのに困らないくらいの収入は得られますが、ダンスを本業に、作品制作とツアーだけで生計を立てている人は、おそらくいないでしょう。

──ダンスを観る客層に変化はありますか。
 フォーラムの活動開始当初は若い世代の観客しかおらず、4年前のフェスティバルでも同じような客層でした。その上、ある公演では425席の大ホールに観客はわずか15人、しかもそのうち10人は関係者でした。しかし最近は、若者・大学生・ダンサーから一般の芸術愛好家や古典芸術が好きな高齢者まで幅広い年齢層がコンテンポラリー・ダンスを観に来ます。着実に文化として根付きつつありますね。

──最後に、少し聞きにくいことを伺います。世界のどの国にも「ダンスなんて贅沢なものだ」という人々がいます。今回「イグナイト!」でホテルからタクシーに乗り、貧しくて路上で生活している大勢の人の横を通って美しいフェスティバルの会場に向かったことは、私にとって強烈な経験でした。社会とダンスの関係についてあなたの考えを聞かせていただけますか。
 とても難しい質問です。私も道路に出ると、自分がやっていることが贅沢なのではないかと感じることはあります。しかし貧困を軽減し、教育を行き渡らせることと同じくらい、芸術の発展は重要なことです。それは二者択一ではなく、同時に進行すべきことです。たとえば幼少期の子どもは世界を理解する術として、絵を描いたり物の形や色を認識したり、動きを真似したりといったことを最初に学びます。人生の初期段階において芸術的教育ほど重要なものはありません。大人に対してもそれは同様で、芸術の発展は、社会のすべての発展を支える幹のようなものです。私はそこに自分たちの活動の意義があると信じています。伝統であれコンテンポラリーであれ、芸術は人間の核心であり、決して欠くことのできないものですから。

──長時間、興味深いお話をどうもありがとうございました。
 
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