国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Artist Interview アーティストインタビュー

2006.6.6
日常から沸き出す妄想の世界 劇作家、佃典彦

A world of the imagination overflowing from the everyday- Playwright Norihiko Tsukuda

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日常から沸き出す妄想の世界 劇作家、佃典彦

佃 典彦

記念すべき第50回岸田國士戯曲賞を『ぬけがら』で受賞した佃典彦。名古屋市在住の劇作家では1984年の北村想以来の受賞である。名古屋は、地方都市でありながら、70〜80年代には東京で話題となった小劇場演劇の巡回公演が積極的に行われており、佃もこうした小劇場第一世代、第二世代の洗礼を受けて育った。受賞作は、抜け殻を脱ぐたびに10歳ずつ若返る老父と、クローンのように60代、50代、40代、30代になって蘇る抜け殻たちという卓抜したアイデアが高く評価された。日常に不気味な裂けめをつくる奇想天外な発想と、役者の個性を引き出す技巧が冴える佃──本人はあくまで自然体の佇まいだが、その頭の中には妄想のひき出しが一杯詰まっている。
(インタビュー・構成 小堀純/協力 望月勝美 2006年5月10日、愛知県名古屋市千種区の劇団B級遊撃隊アトリエにて収録)

佃さんは名古屋生まれですか?
1964年、愛知県名古屋市生まれです。東京オリンピックが開催され、名古屋に新幹線が開通した年です。飲みや街で有名な千種区の今池育ちで、大学も地元の名城大学だったので、名古屋から離れたことはありません。
演劇を始めたのはいつからですか?
中学、高校までは剣道部に入っていて、武道少年でした。演劇と言えばテレビで吉本新喜劇の舞台中継を見るぐらいでしたが、岡八郎とか、藤山寛美は好きでしたね。
大学は商学部で演劇とは関係なかったのですが、友達が演劇部に入るというので一緒に学内サークルの「獅子」という劇団の部室に見学に行ったんです。
そうしたら先輩たちが少ししかいなくて、部員が欲しいから大歓迎してくれた。それで、つい、じゃあ入ろうかと(笑)。
初舞台は何だったのですか?
先輩が書いた本に役者として出演したのが最初です。何の役だったのかさえ覚えていませんが、つかこうへいさんの『広島に原爆を落とす日』のパクリというか、殆どそのままみたいな本でした。先輩はオリジナルだと言い張ってましたけど(笑)。何せ演劇はそれが初体験だったので、「これが芝居というものなんだ!」って思いました。ピンスポットに浮かんだ役者が客席に向って長ゼリフをとうとうと喋り、役者同士が機関銃のような早口でまくしたてる……もう、つか芝居そのものですよね(笑)。僕自身はつかさんの芝居を見たことはなかったんですが、当時の学生演劇にはつかさんの影響がとても大きかった。
オリジナルを書くようになったのは?
大学2年の時に医療刑務所へ慰問公演で行くことになり、僕が本を書きましたが、もうタイトルすら覚えていません。つかさんタッチの芝居で、最初は何をやっても受けてもらえたけど3時間もあって、最後は雰囲気がヤバかった(笑)。その後、僕が獅子の代表になり、日本神話を元にして3部作をつくりました。『宝島〜バックドロップはこうするんだ』など、まあ、荒唐無稽な話で、プロレスを劇中に取り入れたりしてました。プロレスは、七ツ寺共同スタジオで見た南河内万歳一座の芝居の影響です。凄く面白かったですから。
劇作家として自覚し始めた頃に、影響を受けた作家はいますか?
それはもう、竹内銃一郎さんですね。(自分では)台詞の文体も竹内さんを意識しているところがあります。斜光社時代の舞台は見ていなくて、秘法零番館になってからの『あの大鴉、さえも』の再演や『かきに赤い花咲くいつかのあの家』などを見ました。名古屋公演だけでなく、東京のアトリエ公演も見に行ってました。
竹内さんの戯曲で最初に読んだのは斜光社時代の『少年巨人』です。延々と「1000本ノックだ」と言って人を殴り続ける作品ですが、もの凄い、圧倒的なエネルギーを感じた。「なんだこれ!!」って感じでした。実際に舞台を見ると木場克己さんや森川隆一さんの存在感が凄くて感動しました。
結局、学生時代の僕の芝居は、文体は竹内さんから借りて、アクションは内藤裕敬さんの南河内万歳一座から引っ張ってくるという、そんな感じでしたね。
竹内さんの芝居以外ではどんな芝居を見ましたか?
大学に入るまでは全く見たことがなかったのですが、先輩に「行け」と言われて、生まれて初めて見たのが唐十郎さんの状況劇場です。白川公園の紅テントで『新・二都物語』をやっていたのを、大雨の日に、長蛇の列に並んで。何かいかがわしい雰囲気で、テントの中に入ったら、もう出て来られない気がしました。怖かったですね(笑)。
お化け屋敷じゃないんだから(笑)。
いやいや、お化け屋敷は最終的に「出られる」というのがわかっているからいいですが、紅テントはとても出られる気がしなかった(笑)。で、一番前の席に座ったら、いきなり唐さんが登場して「新宿養老院の皆さん!!」とか叫ぶんです。わけがわからない。唐さんや李麗仙さんに客席から「ヨッ、カラ!」「リー!」とか声が掛かって、歌舞伎みたいでした。芝居の内容はよくわからなかったけれど、何か興奮したのはよく覚えています。トイレの汚物入れにお金入れようとして入らないシーンとか、今でも目に浮かびます。
話は戻りますが、竹内さんの戯曲の何に一番惹かれたのですか?
ひとつは文体のリズム。それは間違いないです。竹内さんの劇は読んでいてすんなり頭に入ってくる。『悲惨な戦争』も凄くわかりやすくて、面白かったですし、舞台を見てからまた読むと、木場さんたちの台詞廻しが頭に入っているから、その調子で読んでいるだけで楽しい。僕はそもそも役者をやりたかった人なので、実は、自分はもう秘法零番館に入るしかないと思って、大学4年の時に就職が内定していたにもかかわらず、「劇団員募集はありますか」って劇団に電話した。そしたら電話に出たのが木場さんで、あの声で「ありません」って。「木場さんですよね。頑張ってください」って言って電話を切ったんですが、「ああ、もうダメだ。就職するしかないのか、俺は」って。そういう時に流山児祥が監督した映画『血風ロック』を見に行った。そしたら小劇場の人がいっぱい出ていて、アフタートークの流山児と川村毅の話を聞いていたら「もう、就職なんかしてる場合じゃない」と(笑)。
B級遊撃隊の旗揚げは大学5回生の時、1985年ですよね。
ええ。内定先の会社に断りを入れて留年しました。親に「就職をやめて芝居する」と言ったらひどく怒られて。まあ、当たり前ですけど。「25歳までに名古屋でお客さんを1000人動員して、東京公演を実現する」とタンカを切って、芝居やらせてくれと頼み込みました。
当時、獅子は名古屋の学生劇団の中で一番動員力がありましたし、面白いとも言われていましたから、天狗になっていたところもあります。自分が劇団の人気を高くしたという自負もあったし、あの頃は本気で「俺が名古屋の演劇界を変えるんだ!」と思っていました。──それで、1987年に『審判〜ホロ苦きはキャラメルの味』で名古屋市文化振興賞を受賞しました。
偶然賞公募のチラシを見て、「賞でも取れば親も納得するんじゃないか」と、軽い気持ちで書いたのが『審判』です。はっきり賞狙いで書きました。芝居を見に行った時にもらったチラシの束の中に、加藤健一さんのひとり芝居『審判』のチラシが入っていて。「審判か、野球の審判の話にしたら面白いかな」と。それを思いついたのが彼女とのデートの前で、待ち合わせしている間に大学ノートに2時間ぐらいで一気に書き上げました。
野球の審判にはモデルがいたのですか?
いや、全く僕の創作です。野球は好きだったのでよく見には行ってはいました。
賞をもらって変わりましたか?
変わったのは僕よりも母親でしたね。受賞にはそんなに喜ばなかったのに、NHKから「ラジオドラマを書かないか」と依頼が来てからころっと変った。それまで大反対していたのに「芝居頑張りなさい!」と応援してくれるようになりました。
『審判』は北村想さんの劇団にいた伊沢勉さんのひとり芝居で上演されて評判になりました。実際に球場での野外公演も行われ、NHKで放映されました。
本当に『審判』を書いてよかったと思います。23歳の時でしたが、伊沢さんの公演では想さんに演出してもらい、モノローグをダイアローグに書き直せと言われて直したり、もの凄く勉強になりました。
『審判』以後、B級遊撃隊にオリジナル戯曲を書き下ろすようになりますが、竹内さん以外で影響を受けた人はいますか?
僕はあまり本を読むタイプではなかったので、竹内さんがカフカや安部公房について書いているとそれを読む、という具合でした。カフカと安部公房は今でも面白いと思っています。カフカでは『変身』『審判』、公房は戯曲より小説が好きです。公房は確信犯的に嘘をついていて、その“嘘のつき方”のディテールが細かくていいですね。それと、足のすねからカイワレ大根が突然生えてくるとか、グロテスクなところも好きです。ホラー漫画の楳図かずおや日野日出志も好きですね。
小説を書くことに興味はないのですか?『ぬけがら』のあと書きに、「書きたいモノがある人が小説家になり、見たいモノがある人が劇作家になる」とありますが。
劇作家で小説を書く人もいますが、僕は30歳過ぎた頃にはもう「小説は書けないな」と思っていました。そういう語彙力がないんですよ。
先ほど北村想さんの話がでましたが、同じ名古屋を拠点に活躍している先輩です。佃さんはいつから想さんの芝居を見ているのですか?
彗星ユ86の時代から見ています。『グッドバイ』や『挽歌RAブルース』などを見ましたが、どもりながら台詞を言う神戸浩さんという役者さんには本当にびっくりしました。その他の役者さんもとても好きでした。でも役者さんのキャラクターがはっきりしていた分、逆に想さんの作風に僕が影響されるということはなかったです。
大学4年の頃、「獅子」で部員がやりたいと言って想さんの『寿歌』を上演したことがあります。でも、本を読んでも、加藤健一さんがやった舞台のビデオを見てもよくわからなくて、最初僕はあまり乗り気じゃなかった。ところが、想さんが演出したT.P.O師★団時代の『寿歌』の公演を録音したテープを聴いたら、これが無茶苦茶面白くて。矢野健太郎さん、火田詮子さん、おかち以蔵さんが出演した伝説の舞台でした。「この芝居は俺が演出する。ゲサクも俺がやる」って、部員から取り上げて(笑)、野外で上演しました。
佃さんは“役者の個性に当てて台本を書く”いわゆる「アテ書き」派の作家と言われています。最初に影響を受けたつかこうへいさんは、役者の個性を重視し、稽古中に役者に口移しで台詞を伝えながらテキストをつくっていく「口だて派」ですが、そういう影響があるのですか?
つかさんの影響というより、目の前にいる劇団員と芝居をつくるしかないので自然とそうなったというのが正直なところです。僕はまず最初に「作品(戯曲)」在りき、というのではないと思っています。役者の顔と体を見てからじゃないと書けない。それは、自分の劇団以外に戯曲を書き下ろすときも同じです。だから必ず出演者に会わせてもらって、どういう人か自分なりに理解してからしか書きません。
役者のどこに一番こだわりますか?
“声”が一番です。事前にワークショップなどをやった後、一緒にお酒を飲みに行ったりして、声とか、話し方とか、身体つきとか、仕草とかを観察する。それからその人が何に興味を示すかについても見ます。でも声が一番ですね。だって、人の説得力は声で決まりますから。声を聞くとわかります。
学生劇団時代も含めて最初の頃は作・演出・出演をこなしていましたが、最近は演出しなくなりましたね。
役者と演出を兼ねるのがシンドクなってきた。役者は話の筋とか次への展開だとか、そんなことはお構いなしに、自分が今、どう在るかというところでつくっていけばいいけど、演出家はそうはいかない。役者としての自分を抑える演出家の自分がどこかにいるのが見えてきて嫌になりました。僕は、戯曲書くことと役者はずーっと続けていきたいと思っているので、劇団の演出は神谷尚吾にまかせるようになりました。でも他の劇団に台本を頼まれて自分が出ない時は演出もします。
佃さんにとって役者の魅力とは?
“その気”になれるところですね。例えば誰かを“殺す”気になれる。実際に殺すことはできなくても“その気”にはなれる。もちろん芝居がうまくいかないとそうはなれないですが。
それと自分の劇団で演じるのと客演するのとでは全然感覚が違います。深津篤史さんの芝居に出た時は、台本を読んでもさっぱりわからなくて。だけど、稽古をしているとそのわからないところが自分の体の中に入ってくるわけです。その“違和感”は好きですね。嫌いじゃない。アサリを食べた時に砂が入っていて、ガリガリッと噛んだ感じ。それを愉しむ感じですね。
話を聞いていると、佃さんは、常にどこかで自分を客観視しようとしているように聞こえます。作品を書いている時、“お筆先状態”いわゆる“自動筆記状態”になるタイプとは違うようですが?
僕は書いているとすぐ疲れちゃうので、1時間とか2時間書くと、1時間ぐらい寝ます。で、起きてまた2時間ぐらい書いて、寝ての繰り返し。昼も夜もない。寝ている時に夢を見て「あっそうか!」って思うこともあります。1日のうちに短時間でも時間を見つけて書いていく。調子がよくてどんどんかける時にも止めて寝ます。筆がのりすぎるのは絶対よくないと思ってるから。疑り深いのかな。常に、うたた寝しながら書いてます(笑)。
なかなか書けなくてたまりにたまって書き出すという人は多いと思いますが、それは珍しい。“うたた寝劇作家”(笑)ですね。そういうところも“客観視”の作家と言えますよね。ところで、岸田賞受賞作の『ぬけがら』では、亡くなった父が「脱皮」をくり返してどんどん若くなっていきます。あのアイデアは秀逸でしたが、思いついたきっかけは?
死んだ人が若返るというのは、これまでもいろんな人が書いているアイデアだし、楳図かずおの漫画『アゲイン』もそうですし、別に目新しいものではありません。実は、文学座に書き下ろしを依頼された時に、私生活で認知症になった父と暮らさなければならなくなったんです。夜中に父がトイレに行ったきり1時間以上出て来ない。それで心配になってトイレの戸を開けたら、もちろん父はいたんですが、その姿を見た時に「ここでフニャフニャの抜け殻を置いて、若くなった父が出てきたらどうだろう」と閃いた。で、すぐメモしてコレはいけるぞ!って(笑)。
過去に読んだ楳図さんの漫画も下地にはなっていたと思います。それと、芝居の冒頭、抜け殻の6人の父が寝ているところから始まるのは、竹内さんの『酔・待・草』のファーストシーンが参考になっています。あの芝居は木の下に女の人が寝ていて回想形式で始まるでしょ。そういう始まり方をする芝居をずっとやりたいと思っていて、6人の父がいきなり全員寝ていたら面白いんじゃないかと思いました。
結構職人的に書いているような感じですね。
はい。僕は「職人」だと思っています。同じ名古屋を拠点にしている少年王者舘の天野天街は天才ですが、僕は職人。そういう自覚はもう10年以上前からありました。そう思ったのは、30歳の頃、十二指腸潰瘍で倒れた時です。天才は病気が脳にくるじゃないですか。それなのに僕は中間管理職みたいに十二指腸にきた。「ああ、俺は天才じゃないんだ」と、それからは職人の道一筋です(笑)。
職人的に巧いだけでは、もちろん岸田戯曲賞はとれません(笑)。ところで佃さんが、今、一番関心をもっているテーマは何ですか?
「モラル」についてですね。それをテーマにして6月に劇団の新作『プラモラル』を上演します。僕には中学生になる娘がいて、それで今PTAの会長をやっているのですが、「不審者」が子供たちにいたずらする事件が多くて問題になっているでしょ。ところが、僕が学校へ行くと、よれよれのつなぎのジーンズを着ていたりするから、もう充分「不審者」(笑)なわけです。実際に間違えられたこともあったし。
「この人はいったい誰なんだ」ということは見ただけじゃわからない。初対面で何も情報がないところでは、実際、人間というのはよくわからない。殺人犯が捕まると「あんな真面目そうな人が」とか、「やっぱりそういう人だった」とか。『藪の中』じゃないけれど、人によって、また、見方によってその人物が如何様にも変わっていく。そこに興味がある。「実のところ、お前は誰なんだ」という……。
唐さんも、「事件が起こると、テレビのコメンテーターが何でこんなにひどいことができる人がいるのか“わからない”と言うけど、元々人は本質的に“わからない”存在だ」と言っていました。
そうそう。人間は元々わからない。だから僕の台本は登場人物も名前じゃなくて、「男1」とか「男2」になっているのが圧倒的に多い。それは、例えば「木村君」と呼ばれたらその登場人物は観客に「木村君」として刷り込まれてしまうわけで、それで果たしていいのかと。「木村君」と呼ばれるから単純に木村君でいいのか。そこに引っかかるからです。
そういう佃さんの劇作家としてのスタイルができていったのはどの辺りからですか?
それは1992年にB級遊撃隊公演として上演した『インド人はブロンクスへ行きたがっている』を竹内さんに演出してもらった時からですね。竹内さんに戯曲のダメだしをめちゃくちゃ受けましたし、演出にしろ、役者の立ち方にしろ、もう目からウロコが百枚くらい落ちました。
竹内さんから言われた事で一番印象に残っている言葉は何ですか?。
「先にわからせろ」「答えは先に出せ」ですね。ですから『ぬけがら』でもそうしています。竹内さんには「面白いこと思いついたらすぐ書いてすぐやれ。出し惜しみするな」ってよく言われました。
佃さんの戯曲は、部屋に唐突に土管が突き出ていて、その土管で繋がった世界を描いた『土管』や、礫死体を集める仕事をしている「KANムKAN男」など、不条理な設定ではじまります。不条理劇作家と呼ばれることについてはいかがですか?
そういう設定(異物)がないと書きはじめられないんです。だから本当は不条理じゃないと思いますが、そう言われるのは嫌じゃない。前に言った「アサリを食べて砂がガリッ」じゃないけれど、何か“異物”がないと始まらないんです。
実際の劇は日常的なシチュエーションで展開します。日常の中でどういうものと出会った時に芝居のモチーフにしたいと感じますか?
第三者には理解できないような「情熱」を垣間見た時には面白いと思いますね。例えば、警察の鑑識課に友達がいるんですが、靴の裏、足跡を見ればどんな人かわかると言うんです。そいつは、子どもの頃から“足の裏フェチ”で、怪獣でも足跡にしか興味がなくて、足跡で怪獣の名前を言い当てていました。そういう人の話はたまらないですね。
異能な人にひかれる。
はい。それもどうでもいいことに異能な人。例えば亀が大好きで、亀に夢中になっている人を知ったとすると、僕の中でその人と亀のことがどんどん膨らんでいって。そして「部屋いっぱいに大きくなった亀に一生を捧げる男二人の話」になったりする(笑)。
それはその人の情熱の行方にひかれるのですか?それとも人間そのものの「存在」にひかれるのですか?
どうだろう。そういう情熱をもった人がいると、自分の中でその人のことをデフォルメして見ているんです。例えば「KAN-KAN男」だと、線路をじーっと見ている人がいて、それを「何だろうなあの人は、礫死体か?」という具合にデフォルメしていく。妄想が膨らんで、その妄想した世界と自分がどう係わるのかと考える。デフォルメしたものと、「デフォルメしたものに押しつぶされそうになっている私たち」の両方を見てみたいんです。
佃さんにとっての劇世界は、「自分がデフォルメしたものとその側にいる私」ということなんですね。自分自身を突きつめて作品を書いていくと、「デフォルメした不条理な世界」をつくらないとしょうがない。そうして必ず“そこ”に自分もいる。
そうだそうだ、そんな感じですね。
Profile

佃 典彦(TSUKUDA, Norihiko)
1964年愛知県名古屋市生まれ。劇作家、演出家、俳優。名城大学卒。劇団B級遊撃隊主宰。きわめて突飛なシチュエーションを使い、ストレートかつリリシズムあふれる世界を、笑いでいろどりながら作品化する。1987年の第3回名古屋市文化振興賞を受賞した『審判〜ホロ苦きはキャラメルの味〜』をはじめとし、劇作家協会優秀新人戯曲賞、読売演劇大賞優秀作品賞など多数の受賞歴を持つ。戯曲のほかに、ラジオドラマ、テレビの脚本の仕事も多い。第50回岸田國士戯曲賞を授与された『ぬけがら』は、文学座のアトリエ公演のために書かれたもの。

http://www.bkyuyugekitai.com/

文学座アトリエの会『ぬけがら』
(2005年/文学座アトリエ)
作:佃 典彦
演出:松本祐子
撮影:飯田研紀

B級遊撃隊『破滅への二時間、又は私達は如何にして「博士の異常な愛情」を愛するようになったか』
(2005年)
(c) B級遊撃隊