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OKI
OKI
1957年生まれ。本名は加納沖。これまでにソロ、バンド、ダブミックス版などを含む合計20枚以上のオリジナルアルバムを発表。

アルバム『トンコリ』(2005年)では、昭和20年代から30年代にかけて研究者などが収集した(*2)西平ウメ、白川クルパルマㇵ、藤山ハル(エソㇹランケマㇵ)などの演奏音源を元に、トンコリ奏者として古典に挑戦している。

ファーストアルバム『Kamuy Kor Nupurpe』(1996年)から最新作まで、アイヌ語の歌詞や語りが入っており、現代に伝わる伝承歌のほか、葛野辰次郎エカシ(*3)と一緒に作ったアイヌ語のオリジナル曲等を発表している。また『Sakhalin Rock』(2010年)収録の「Osoro Omap」と「Tawki」では、拠点としている旭川のアイヌ語教室の子どもたちが作ったユニークなアイヌ語歌詞が付いている。

古典や文化的アイデンティティを大切にすると同時に、『OKI DUB AINU BAND』(2006年)や、『Sakhalin Rock』(2010 年)では、ブルース、レゲエ、ダブなどがミックスされた最先端の音楽表現が実現している。またサードアルバムの『No One’s Land』(2002年)では、ロシアの先住民族チュクチのシンガーや、東ティモールの詩人などをゲストアーティストに迎え、1997年に自身も出席した国連先住民作業部会の音声がミックスに使用されている。

OKIが主導するプロジェクトとして結成されたOKI DUB AINU BAND(トンコリ:居壁太、ドラム:沼澤尚、ベース:中條卓、ミックス:内田直之、キーボード:HAKASE-SUN)は、世界最大規模のワールドミュージック・フェスとして知られる WOMAD(2004年オーストラリア、2006年イギリス、2007年シンガポール、2017年オーストラリア)や、レインフォレスト・ワールド・ミュージックフェスティバル(マレーシア2019年)に招聘され、日本国内でも数々の音楽フェスティバルに参加している。また、音楽プロデューサーとして音楽レーベル「チカルスタジオ(Chikar Studio)」を主宰し、アイヌの伝統歌「ウポポ 」を再現・継承するボーカルユニット「マレウレウ」をプロデュース。ムックル(口琴)とウポポ の名手として知られる安東ウメ子(1932-2004)も同レーベルのアーティストとしてOKIのセカンドアルバム『HANKAPUY』(1999年)から参加している。

チカルスタジオ
http://www.tonkori.com/


*1 トンコリ
アイヌ民族の伝統的な弦楽器で、北海道北部でも一部使われていたが、現在は樺太(現在の南サハリン)を発祥とする資料や演奏方法が伝えられている。多くは5弦で、フレットがなく開放弦で演奏する。

*2 現代ではそうした音源の一部を北海道博物館や東京藝術大学小泉文夫記念資料室、早稲田大学などがインターネット上で公開している。また国立国会図書館や各地の博物館などにも所蔵されている。

*3 葛野辰次郎エカシ(1910〜2002)
北海道静内の文化伝承者。アイヌ語が堪能で、儀礼などにも精通し、長老的存在として敬われていた。「エカシ」はアイヌ語で男性の年長者を指す。

*4 民族共生象徴空間(愛称ウポポイ)
「国立民族共生公園」「国立アイヌ民族博物館」「慰霊施設」の3つからなる施設であり、2020年にオープンした。ウポポイが設立された背景には、明治維新から始まる近代化の過程で日本政府が敷いた、アイヌ民族に対する同化政策がある。

日本政府は北海道や樺太、千島列島を日本の領地として統治する過程で、アイヌ民族の土地や資源に関する権利を剥奪し、狩猟採集や文化的習慣を禁止し、日本語による教育を強制した。こうした政策は、アイヌ民族の生活や文化の存続に深刻な打撃を与えた。

1997年、アイヌ民族として初めて国会議員となった萱野茂らが原告となった「二風谷ダム裁判」で、初めてアイヌ民族を「先住民族」と認める判決が下され、同年、約100年ぶりにアイヌ民族に関する新法「アイヌ文化振興法(通称)」が成立。

その後2007年の「先住民族の権利に関する国際連合宣言(UNDRIPs)」および2008年の国会「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」の採択を受け、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が設立された。同懇談会の提言を受け、民族共生の象徴となる空間の整備が進められた。

2019年には「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(通称「アイヌ施策推進法」)が成立し、初めて法律上でアイヌ民族が「先住民族」であることが明記された。

「ウポポイ」の運営は、北海道白老町で長年アイヌ民族が中心となって運営してきた民間の組織である一般財団法人アイヌ民族博物館と、アイヌ文化振興法の下で設立された公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構が合併し、2018年に新たに設立された公益財団法人アイヌ民族文化財団が担っている。
*5 シャモ
アイヌ語で、非アイヌの多数派の日本人(和人)を指す言葉。この他、隣人という意味の「シサㇺ」という言葉も使われている。
*6 マユンキキの初めての個展「SINRIT シンリッ ― アイヌ女性のルーツを探る出発展  teoro wano aynu menoko sinrici a=hunara」は2021年1月19日〜1月30日に札幌市のCAI03 で開催された。
https://cai-net.jp/exhibition/sinrit/
*7 萱野茂(1926〜2006)
1994年にアイヌ民族として初めて国会議員に就任し、史上初めてアイヌ語で国会質問を行った。自らも文化研究者としてアイヌ民具や口承伝承の録音を収集し、その一部は現在重要有形民俗文化財に指定されている。
*8 川村兼一(1951-2021)
1983年から40年近くに渡り、北海道旭川市の川村カ子トアイヌ記念館の3代目館長を務めた。また、重要無形民俗文化財「アイヌ古式舞踊」の指定保護団体である旭川チカップニ・アイヌ民族文化保存会の会長などを歴任した。
*9
注3を参照。
OKI
*10 ウタサ祭り2021年の様子はYoutube「DAX -Space Shower Digital Archives X」で公開されている。
https://www.youtube.com/channel/UC_YARi5VMmOdHGDRU3PXE0g/videos
*11 熊猟でとらえた子熊を村で大切に育て、大きくなったころに盛大な儀式とともにカムイの国へ送り返す習慣。
Artist Interview
2021.5.5
音楽
The Music of OKI’s World   Rooted in the Tonkori and the Unique Expression it Inspires  
トンコリでルーツと表現を繋ぐOKIの音楽世界  
カラフト・アイヌの弦楽器「トンコリ」(*1)を基調とした革新的な音楽で世界を股にかけて活躍するミュージシャンOKI。自らのルーツと向き合いながら、アイヌ伝統音楽、レゲエ、ダブ、R&B、ジャズ、ワールドミュージックなど世界のルーツ音楽を織り交ぜた音楽表現に挑戦し、マレウレウなどの音楽プロデューサーとしても活躍するOKIの世界についてインタビューした。
聞き手:谷地田未緒(国立アイヌ民族博物館)

──「民族共生象徴空間ウポポイ」(*4)がオープンし、アイヌ文化について改めて注目が集まっています。OKIさんはそのずっと以前からミュージシャンとして活躍され、トンコリ奏者、アイヌ文化の継承者・現代的表現者、ワールドミュージックの担い手、先住民族の音楽家、音楽プロデューサーなさまざまな肩書きで紹介されてきました。まず、OKIさんはどのようなアーティストであるかをお聞かせいただけますか。
 ミュージシャンにはそれぞれユニークな点が必要です。例えばR&BならR&Bのマナーに則って音楽をやりますよね。黒人音楽だから黒人でなくちゃいけないということはないけれど、じゃあそのR&Bを「誰が」「どこで」「どの時代」にやっているのか。その時に自分の個性、他の人にはない何かを持っているかということが重要です。僕の場合、他の人にはないものという点で、トンコリがその個性の中心になって音楽を作っていますが、「アイヌらしさ」ということも大事にしています。知識の蓄積とか、楽器のトレーニングということもありますが、そのほかに、心の中に火が燃えていることが必要。折れそうになる時というのは、その火が消えそうなときだと思います。
 アーティスト活動としては、どんな人に会ってどんな場所に居合わせるのかということと、ダメだと思ってもやりたいことは食い下がってやってみるということが大切です。あと、自分のために音楽をやっていると思わない方がいい。もちろん、最終的に自分のためでもあるし、そのこと自体は大切なんだけれども、聞いてくれる人のことをどう思うか。それもいわゆるファンではなく、意外なところで意外な人が聞いてくれていることがあります。例えば先日まで入院していたのですが、これまで淡々と仕事をしていた担当医が、ある日「実はファンなんです」と話してくれました。体が弱っていたこともあり、音楽をやっていてよかったなとしみじみと思いました。曲を作った直後は良いものができたと思っても、時間がたつともっと良くしたいところばかり気になるようになります。ライブも、よいと思う時とそうでもないと思うときの両方があります。関心が自分にあると、自己評価は高くならない。けれど、価値を判断するのは自分ではなく、聞いてくれた人が決めるんだという思いに支えられます。

──OKIさんが音楽活動をされたことで、1990年代頃まであまり演奏を聞くことができなかったトンコリが世界的に有名な楽器になりました。スピーカーを震わせて大音量で聞きたい最先端の音楽から、まるでクラシック音楽のようにストイックに古典にこだわったもの、海外のアーティストとのコラボレーションまで本当に様々ですが、この幅広いOKIさんのオリジナリティというのは、どのあたりから生まれて来るのでしょうか。
 僕はアイヌのことだけを見ているわけではなくて、先住民の知り合いもたくさんいます。例えば1996年にキャンベラにあるオーストラリア国立美術館を訪れました。日本では博物館というと、研究者たちが常にウロチョロしていて、その保護下にアイヌ民族がいるというようなイメージがありました。でもオーストラリアではそういうのを感じない。その時開催されていたアボリジナル・アートの展覧会で筆頭キュレーターを務めていたのは、足元まである長いドレッドを引きずるバンジャラン族(オーストラリア先住民)のジョン・ムンディン(Djon Mundine)でした。ジョン・ムンディンは、それまで木の皮とかに描かれていた先住民の絵画を、同胞たちにアクリル絵の具を渡してキャンバスに描いてもらって、それを欧州で発表しました。アクリル絵の具を渡したことで、美術の世界に彼らの作品が流れ込んだ。これもプロデューサーとしての仕事だと思います。アメリカでも、先住民族自身がプロデューサーとして仕事をしています。1998年に訪れた国連の先住民作業部会でも、出会ったオーストラリアの先住民は国際法の弁護士でした。
 そういった色々なシーンを見てきて思うのは、みんなでアイヌ文化の紹介だけをやっていてもうまくいかないのではないかということ。僕が弁護士とかだったらもっと影響力があるだろうけれど、僕は音楽をやっているので、観光客や議員に頼まれて歌や踊りを見せることと役割分担としては同じかもしれません。でもそうやって、依頼を受ける側として受け身で踊りや歌を披露しているだけだと何も状況は変わらない。そうではなくて、自分で場を作ってプロデュースをしていかなくちゃいけない。アートや表現活動というのは、昔は自分を掘り下げることだと思っていました。今なら違ってきていて、重要なのは自分が社会にどう関わるか。アートの役割は社会的なことだと思います。


ルーツとの出合い

──東京藝術大学の工芸科に入学されていますね。そのころから自分で作品を作って生きていこうというイメージはあったのでしょうか。

 それしかなかったですね。そもそも美大を目指した理由として、版画家である父親の影響がありました。でもどちらかというとアートは嫌いというか、父には勝てないという気持ちがありました。父はストイックな人で、受験準備をしているとき、家に石膏像が一つだけあったので、Steve Miller Bandをガンガンかけながらデッサンを描いていたら、「絵は静寂の中で描くものだ」と、レオナルド・ダ・ヴィンチみたいなことを言うような人でした。それで僕は自分の道を行こうと。本当は最初からミュージシャンになりたかったんだけど、親に猛反対されて断念しました。
 ただそんな父から、ある日読んでみろと言って渡された本が、『イシ──北米最後の野生インディアン』(岩波書店)という本でした。親父に読めと言われて渡された本は、後にも先にもこれだけ。感動して、これをきっかけに、アメリカン・インディアンの詩集を買って読み始めました。そこから、レヴィ=ストロースの「構造主義」とか、『悲しき熱帯』とか、ガストン・バシュラールの哲学書とか、そういう本を読み漁りました。当時そういう本をよく売っていたのが池袋のデパートの上の本屋で、帰りは同じデパートのギャラリーでやっていたジャスパー・ジョーンズの作品を見たりしていました。
 美大を目指したのは、アーティストになろうと思っていたわけではなくて、音楽ができないならデザインとかがやりたいと漠然と思っていたからです。現役時代に美大を受けて、実技試験まで進めずに落ちて、それで悔しくなって火がついたんですね。結局2年浪人して芸大に受かったけど、入試の石膏像デッサンが、ちょうど場所や光の加減が良くて書きやすかったし、運が良かったんだと思います。入ったら周りはみんなへたくそで面白かった。周りの先生からも、お前らの学年は失敗だったといわれるような学年でした。

──最終的に工芸科に進まれましたね。在学中にはどんなことを経験されましたか。
 デザインと思っていたのが、工芸科鍛金専攻に進んだのは、当時もっとも現代美術とのつながりの強い専攻だったからです。その点はやっぱり面白かったけど、入ってから面白さを知ったのは古美術。室町時代の仏像とか、建築や絵画をたくさん学びました。そういうものに触れていく感じが心地よかった。この時期、日本人としての自分の原風景が形作られていったんです。日本のことに興味を持つ一方、アメリカン・インディアンの文化への興味から、レゲエにハマるようになりました。そんな時、皮肉なことに親父が唯一勧めた本がきっかけになって、ふとしたことから、北海道に実父がいて、自分はアイヌであるということを知りました。
 それで雪景色の北海道に会いに行きました。最初はよかったんです。これまで会ったことのない親戚が歓迎してくれて、よく帰ってきたなと言ってくれました。それはそれで幸せなひと時だったけれど、何度か北海道に通って色々な人に会っていくうちに、今度は自分が全く「アイヌらしくない」ということに気づくんですよ。北海道に滞在していたある日、借りていた小屋に親父がふらっと来て、叔父さんがお店をやっているから遊びに行こうと言われ、一緒にヒッチハイクして阿寒湖に行きました。店のドアを開けたらカウンターがあって、そこにずらっと座ってみんな親父が来るのを待っていました。ずらりと並ぶアイヌの男たちから、鋭い視線を感じました。まるで西部劇で流れ者のガンマンが酒場に入ってきたような感じ。そこで最後どうなったかわからないくらいさんざん飲んだ後、次の日はまた朝から飲んで、帰る時、親父の親類で友人の一人が車を出してくれた。僕は助手席に乗って、親父は後部座席で酔っ払って寝ていました。
 阿寒湖の原生林がバーッと広がる中を走りながら、運転席の友人に「おまえみたいな東京育ちのボンボンに、アイヌのことがわかってたまるか」みたいなことを聞かされました。その時話を聞きながら、窓越しに流れていく広大な原生林をじっと見て、ふと「これ、一本もアイヌの物じゃないんだ」と思ったんです。前の日まで、昔の武勇伝とかをいろいろ聞かされて、「シャモ」(*5)っていう言葉を覚えたりして、今も隣の席からいろいろ言われているけど、でもこの木は一本もアイヌのものじゃない。そう思ったら、涙が出てきちゃって。僕が生まれて初めて考えた、先住民族の土地の権利問題。もうちょっと色々知っていたら深く考えたのかもしれないけど、その時はとにかく「何でここは今アイヌの土地じゃないんだろう」と思って、悲しかった。この時言われた言葉は大きかったですね。それまで歓迎されているのかと思っていたけど、歓迎されていたとしてもそれはお客さんとしてだし、僕がどうこうあがいて振舞ったとしても、それは違うんじゃないかっていうか‥‥。


ニューヨークとアリゾナ

──卒業後、ニューヨークに向かわれましたね。

 1年間程北海道に通っていたのですが、しばらくして行くのをやめたんです。もういい、という思いでした。ただ頭ではそう思っても、体はなかなかそう思ってくれなかったらしく、芸大に戻ったらいろんなものがうつろに見えてきました。今まで好きだったものが色あせて見えてくる。例えば奈良時代のものだとか、それまでいいと思っていたもの、好きだった本に、急に興味がなくなってしまいました。アイヌだということがわかって、皆が歓迎してくれると思ったらそうでもなくて、東京に戻って元通り生活を始めたけど、以前のような生活にも戻れない。それが一番辛かった。今までは親も自分も日本人(和人)だと思っていたものが、グラッと揺らいで、変わっていくと思ったら、また元に戻った。出戻りの感覚っていうか、虚無感がありました。それで結構時間を浪費しましたね。いろんな意味で苦しくて。でも大学を出なきゃいけないので、今とは別のことをしたいと思って、溶接工でお金を貯めて100万円持ってニューヨークに行きました。
 そのころ、アイヌっていうことを考えなくてすむようにしようと思ってニューヨークに行ったのに、今度は日本では意識しなかった自分の振る舞いが「日本人的である」ということに向き合わないといけなくなって、「めんどくせぇ」と。最初はいろいろなことを「アメリカのせい」にしていたけれど、それでも向こうで新しい生活を作っているうちにだんだん馴染んできました。何かを断ち切ろうとしていたんだと思います。日本とかアイヌとかが嫌で逃げたくせに、気が付くとニューヨークでは先住民の友達ばかりできました。街中の電柱にチラシが張ってあって、そこで知ったアメリカン・インディアンの詩の朗読会などに足を運んでいました。ソーホーのギャラリーで、ナバホ・インディアンの作家、ジョエラ・アシュケ(Joella Ashike)さんに会いました。話をしているうち、今度アリゾナの家に遊びに行っていいですかと聞いたら、いいですよと言ってくれて、住所をもらいました。この社交辞令を本気にして、本当にアリゾナに向かいました。ヒッチハイクをして、ようやく辿り着いたところが、ナバホ・インディアンのリザベーション(居住区)で、ビッグマウンテンという聖地の山の麓に彼女の家がありました。そこは水道も電気もなく、周り10キロ四方に家がないような乾燥地帯で、先進国アメリカにこんなところがあるのかと本当に驚きました。

──札幌で開催されたマユンキキさんの個展(*6)で、ご本人からインタビューを受けていらっしゃった中でも、このナバホ居住区を訪れた時のお話をされていましたね。

 そうですね。当時自分の友達はアジアやインドに行っていて、僕はへそ曲がりだからそっちにはいかなかったんです。アメリカン・インディアンの文化は、本当に衝撃的なことの連続でした。日本に住んでいると、山は緑に覆われていて、どちらかというと箱庭的な風景だったのですが、アリゾナは乾燥地帯で雲もなく、岩肌や地表が剥き出しになっていて、地球という惑星に住んでいるということを強く実感しました。
 夜に乾燥地帯の平原を歩いていると、天の川がドームのように自分に降り注いできました。まるで昔読んでいたインディアンの詩集に書いてあるような風景が目の前に広がっていて、コヨーテが鳴いていました。ラジオでお祈りの言葉と太鼓の音が聞こえる中、アワビの殻にセージを焚く儀式から一日が始まるようなところでした。そうかと思ったら、シャワーに入りに行こうと誘われて出かけたら、ブラック・メサという聖地の山で石炭の採掘している、敵対している会社の従業員が働く工場のシャワーを勝手に使うという話だったことも。政府の土地収用に反対するレジスタンス活動や、サンダンスのような儀式が日常にある一方で、どこの国も若者は一緒で、砂漠にライフルを撃ちにいったり、マリファナを吸ったり、適当に悪さもしていました。
 そんなある日、自称カメラマンの不良青年と一緒にビッグマウンテンに登ったとき、頂上が近くなったあたりで、「OKIはここから先は来ないでくれ」と言われました。なぜかと聞いたら、他人にお祈りをするところを見られたくないということでした。さっきまで一緒に遊んでいた友だちが急に真面目になった時、彼の背後にある深いルーツを見たような気がしました。その時、いつか自分も北海道に戻って、自分のルーツと向き合う日が来るんだろうと直感的に思いました。
 1カ月くらい滞在しましたが、ニューヨークのアパートの家賃を払わなくちゃいけないとか、お金も無くなってきたとか、そういう理由で帰ってきました。もっといるべきだった、もっと何度も行くべきだったと今では思います。なんだか満足しちゃったんですね。それまでアイヌとかなんとかで、もやもやしていた気持ちがなんかスッキリしてしまったというか。今度は逆にニューヨークで白人文化に興味が出てきたり。大変な思いもしたけれど、ニューヨークには今でももう一度住みたいと思います。


帰国、トンコリとの出合いから、ファーストアルバムへ

──日本へ帰国されたのは映画製作が理由だったと伺いました。

 帰国を決める前は、ハリウッドに引っ越して特撮映画の仕事に携わろうと計画していました。ところがある日、日米合作のテレビドラマのための人材を探しているからと誘われて、仕事を辞めて帰国しました。でもだんだんとプロデューサーと連絡が取れなくなり、最終的に企画がつぶれてしまったことが分かりました。そこからが人生の中でとてもつらい時期でした。ゴジラの着ぐるみを作っている日本のスタジオでバイトを始めたのですが、ニューヨークの設備に比べるとプレハブの町工場のようなところで、負けたような気がしていました。自分でやらないと、人に雇われるだけではだめだと思って、ドキュメンタリーなら一人でも撮れるんじゃないかと思いつきました。そこで北海道へ渡って、萱野茂さん(*7)のところを訪ねました。
 萱野さんにそれまでの話をすると、「どこに行っても、どこまで行っても、アイヌはアイヌだから」と言われました。ドキュメンタリー映画について話をすると、「僕を撮ったらどうだ」と提案されました。今考えると、あの時撮っていれば、アイヌ民族がアイヌ民族を撮影した初めてのドキュメンタリーになっていたのにと、後悔の念がないではないけれど、当時はちょっと尻込みしていたんですね。結局、萱野さんのドキュメンタリーは撮らず、親類である川村兼一さん(*8)のところに行きました。当時兼一さんのところには、お客さんが毎日のように来ていて、しょっちゅう宴会をやっていました。あるとき酔っ払った兼一さんが、隣の部屋に行って、そこから放ってよこしたのが、トンコリでした。これがトンコリっていうやつかと。弦が5本張ってあって、音も小さいし、フレットもないのでボロンと音を出して終わり。兼一さんに「アイヌでこういうのを使って一人くらい音楽やるのがいてもいいべや」と言われ、とりあえず持って帰りました。

──このとき初めてトンコリを手にされたのですね。
 そうです。その時、音楽好きが高じて、知り合いにもらったMTR(マルチトラックレコーダー)という、4トラックのカセット録音ができる機材とリズムマシーンを持っていました。北海道から戻った後、これにトンコリを入れてみようかという気になったんです。ベースも入れてみようとか、アイヌ語もつぶやいてみようと思い、手元にあった本をめくって録音をしました。3、4曲作ってみたところで「あ、曲を作る才能がある」と思ったんです。絵を描いているときには感じたことのない、根拠のない達成感がありました。今から考えると、ただの自分に対する誤解かもしれないけれども、これが最後の分岐点でした。それで北海道に生活拠点を移しました。

──北海道に引っ越してすぐ、アイヌ語と文化の伝承者でいらした葛野辰次郎さん(*9)に会いに行って、葛野さんのご自宅の離れに住みながらいろいろなことを学んだと、過去のインタビューでおっしゃっていますね。葛野さんのことはどのような経緯でご存知だったのですか。
 静内(新ひだか町)のシャクシャイン記念館に行ったときに買った、葛野さんが書いた『キムスポ』という本を読んで、この人と話がしたいと思って直接行って直談判しました。当時アイヌの本というのは、昔の物語とかが多くてあまり身近に考えられなかったけれど、『キムスポ』の中で葛野さんは「原子力で地球を汚すのは悪い」とか、そういう時事的な話題をアイヌ語で書いていました。昔語りではなく、社会性を持った、現代を視野にした文章を書いている姿が素敵だと思いました。古老は昔の話をするものだというイメージを壊しているところが、ヒップホップグループArrested Developmentのメンバーにいる「スピリチュアル・リーダー」みたいだ、と思いました。離れに住まわせてもらって、アイヌ語を教えてもらったり、『キムスポ』に書かれた内容について教わりました。それで一緒に曲を作ったりして、楽しかったです。

──この時の経験が直接、ファーストアルバム『Kamuy Kor Nupurpe』(1996年)につながっていますね。
 ファーストアルバムは、最もピュアな時期。今聞くと音に問題があるところもあるけれど、やっぱりファーストアルバムというのはいいですね。そこにたどり着くまでひどく迷走しました。でもそうやって自分を追いやっていくのが好きで、グジャグジャになってどうしようっていうのが好きなのかもしれない。とにかくいろいろなことを試しました。2011年の3月まで、15年間くらいは毎年アルバムを出して、走り抜けた感じでした。2011年の東日本大震災は、人生最大のショックでしたね。3つも原発がぶっこわれた、それも日本で。他のインタビューでも話したことがありますけど、この時にしばらく音楽を作る気がなくなってしまった。メンタル上一番ショックだったし、今でもなんとなく引きずっています。

──セカンドアルバムで共演された安東ウメ子さんと、リリース以来大きな話題を呼んで「傑作」と言われた『IHUNKE』(2001年)、それに続く『UPOPO SANKE』(2003年)というソロアルバムをプロデュースされています。安東ウメ子さんとはどのように出会われたのでしょうか。
 当時アイヌ文化の伝承者が、音楽作品として個人の名義でCDを出すようなことはなかったんです。さらに、それをアイヌがプロデュースしているということも初めてでした。そこも戦略として計算していました。僕がウメ子さんに言ったのは、「これで稼ごうよ」ということ。よくあるアイヌの気持ちを伝えるというようなきれいな話はしませんでした。それでアルバム制作がスタートしました。
 ウメ子さんとの出会いは1997年、セカンドアルバムの『ハンカプイ』(1999年)を作っていた頃です。アイヌ文化祭で各地の伝承保存会の人が集まって舞台で演奏するのを見ていたら、帯広から出演していたグループは上野サダさんがリードで、安藤ウメ子さんが追いかけて歌っていました。それを聞いて、すごく良いと思った。それで話を聞いてみたら、1995年にすでに『ムックリと安東ウメ子』(幕別町教育委員会)というCDが出ていました。小川のせせらぎが全編に入っていて、野外で録音をしたものらしく、最後におまけのように4曲のウポポがアカペラで入っていました。それがすごく良くて、かなわないと思った。帯広でライブをするときに入ってもらい、その後、ぜひレコーディングをしたいと考え、アルバムに参加してもらいました。

──同じくプロデュースをされているヴォーカルグループ、マレウレウは、OKIさんのサードアルバム『No One’s Land』(2002年)で名前がクレジットされて以降、『MAREWREW』(2010年)、『もっといて、ひっそりね』(2012年)、『cikapuni』(2016年)、『mikemike nociw』(2019年)という4枚のアルバムを発表しています。マレウレウはどのような経緯で設立されて、いつごろ独立したグループとしてプロデュースすることになったのでしょうか。
 当時付き合っていた彼女が旭川のアイヌで、昔の歌を歌ったら、とてもいい声だったんです。それで曲を作ったり、一緒にライブをしているうちに、自然と歌のメンバーが集まり、グループになっていった。じゃあグループ名が必要だよねということになり、マレウレウと命名されました。アイヌの歌を歌っている人たちで、伝承保存会以外のグループがいなかったので、第1号になろうと。今では多くの人がアイヌ音楽に関わっていますが、トンコリ奏者としても音楽業界で活動したのは僕が第1号だったし、当時はギネス記録がたくさんとれました。チカルスタジオはレーベルとしてやっているので、海外の音楽関係者との交流もあるし、『北と南』(2012年)では大城美佐子さん、『Amamiaynu(アマミアイヌ)』(2019年)では朝崎郁恵さんとのプロジェクトもやりました。実は自分のことよりも、ほかの人のプロデュースをする方が楽しいかもしれない。彼女とはその後結婚して、子どもができました。

──最新曲はオンライン配信でしたね。次のアルバムの構想はありますか。
 もうアルバムなんて出ないですよ、この時代。今はもうモノとしてアルバムという形を目指して作る必要はなくなってしまいました。逆にLPは物質として生き残った感じ。CDはコンサート会場でしか売れないので、記念品くらいの気持ちで作っています。今後は時々曲を作ってその都度発表して、まとまったらアルバムにするかもしれないし、しないかもしれない。


「アイヌ音楽」について

──OKIさんのルーツである「アイヌ音楽」ですが、どのような特徴がありますか。曲を作っている時に苦労することはありますか。

 セカンドアルバム『ハンカプイ』(1999年)に入っている「バッタキ」という曲は、十勝地方であったバッタの被害を伝える伝承歌を元にアレンジしている曲ですが、細野晴臣さんに「僕には絶対にできない」と驚かれたことがあります。安東ウメ子さんのボーカルにトンコリのトラックを重ねて作っていますが、このキーがすべて違うらしいんです。西洋音楽のルールになれた耳を持つ人には衝撃的だったようです。
 細野さんにそう言われた時は、怖いもの知らずだということが褒められたのか、批判されたのかわからなくて、「僕ってやっぱりアマチュアなんだな」と落ち込みました。でもずっと覚えていた。スタジオでセッションしたり、録音をする時も、よく「OKIは8小節で進まない」、「きちんと(拍数を)数えて」と怒られていました。33歳から本格的に音楽活動を始めたので、「ああ自分はまたやらかしたんだ」と落ち込んだけれど、ウメ子さんとやっているとそういうところが全然関係ない。8小節にはまらないどころか、裏拍と表拍が入れ替わるし、1拍の10分の7くらいのところで歌い始めたりとかする。その揺らぐ歌にまた僕が全然違うキーでトンコリのリフを当てているものだから、今考えると、めちゃくちゃ面白いことをやっていると思います。

──4拍、8拍、16拍をひとつのかたまりとしてカウントすることや、コードやピッチをきちんと西洋音階に合わせて演奏するポピュラー音楽に慣れてしまうと、その整然とした枠組みから出ることは難しいですよね。トレーニングされた自分の枠を一度壊さないと、違うルールに則っている音楽はできない。
 細野さんのコメントを聞いてから、実は「バッタキ」は最近まで聞かないようにして、「ちゃんと合わせないと」と思ってこれまで音楽をやってきました。ところが今年、イギリスで僕の初期10年のベスト版のレコードが出るという話があって、プロデューサーの選曲リストになんとその「バッタキ」が入っていたんです。最初は反対しようかと思ったのですが、マスタリングの確認をしなくてはいけないのでやっと当時の音源を聞いてみたら、なんだかすごいことをやっていると思いました。
 確かに全パートでたらめだけど、でたらめと思っていないところに迫力がありました。20年間引っかかっていた魚の小骨が、いやバッタの羽が、取れた感じがした。変則的なリズムに一番困るのはドラマーだけれど、OKI DUB AINU BANDのドラムの沼澤尚は理解をしてくれていて、「OKIは(小節数を無視して歌いだす)ハウリン・ウォルフ(Howlin’Wolf)だと思っているから、好きにやってください」と言ってくれます。

──OKIさんは以前のインタビューで、トンコリはフレットがないので、役割としてはギターなどの部類ではなく、「リズム楽器」であると話されていました。一度に5、6音しか出せなくても、リズム楽器だと考えると可能性は無限大であると。また安東ウメ子さんも、「アイヌ音楽はリズムと即興性」と言っています。リズムというのはアイヌ音楽にとって重要なのでしょうか。
 僕は「アイヌ音楽」というジャンルを飛び越えて、ハイブリッドにしたいと思ってやっています。「トンコリの音が小さいからドラムも静かにたたく」というのだと、向こうがこちらに歩み寄っているけれど、じゃあドラムの音量に歩み寄るにはどうしたらいいかということを考えて、トンコリを電化しました。アイヌ側の事情に合わせてもらうのか、それともアイヌの方から進んでいって、別の土俵で対等にやるのかといったら、僕のスタンスは後者。リズムが変則的であるということもそうで、ほかの楽器と合わせるときにはなかなか難しい。メンバーを困らせたり、怒られることも多い。一拍ずれちゃったりとか。でも改めて「バッタキ」を聞いてみたら、歌い出すたびに1拍目が違ったりするんです。それも当然で、アイヌ音楽はもともと4、8、16拍というユニットで小節が動かないし、数え方も根本的に前提が違います。それをバンドとしてやろうとすると、相手がこちらに合わせてくれるか、あるいはこちらが相手に合わせるかという選択になります。アイヌのやり方に合わせてもらうばかりではなくて、音量の問題とかも含め、こちらも歩み寄りたいと思っています。

──数々の実験的な音作りをされてきていますが、ポピュラー音楽の枠を壊そうとしていたわけではなくて、むしろ歩み寄ろう、合わせようとされていたのですね。
 そうですね。でも最近は、きちんとするのをやめようかと思っています。昔は勘でチューニングして、ピッチが合ってなくても気持ちよく演奏できていたけれど、今聞くと(音の高さが合わないことが)気持ち悪いと感じます。チューニングを合わせることとか、コードが成立するようにキーを合わせることとか、ピッチとかが気になる「ただしい耳」になってきてしまっている。でも例えば『SAKHALIN ROCK』(2010年)に入っているものすごい変拍子の曲「kon kon」とか、『UTARHYTHM』(2016年)の「kenkeyo」とかは、自分らしいと思います。

──どちらもムックリ(口琴)の曲で、西平ウメさんが楽器を使わず口で演奏の仕方を教えようとした音源を参考にしてアレンジされた曲ですね。
 トンコリ伝承者の西平さんが、いろいろな研究者に頼まれてトンコリ演奏の録音に協力している音源の一つで、「ムックリもやってくれないか」と言われて、「今日はもう疲れたし、そんなにいっぺんにいろいろできない」と不服そうにしながら、こうやってやるんだと、口で「コンコン」とか「ケンケヨケンケヨ」と言いながら、ムックリの奏法を説明しているんです。このリズムはジャズだと思いました。
 僕の音楽も最近は型にはめすぎてきちゃっている。それを伝統的な崩し方に戻すことも大切だけれど、自分らしく自由にするにはもうひと努力必要です。厳密にしようと思わず、(古い音源のテープを)聞いてみて、いいなと思ったら素直に進めばいいという基本的なところができなくなっちゃったのかなと思いました。バッタキを発表した頃に戻るというか、巻き戻す感覚。今の方がスキルも知識もあるし、設備もあるけれど、ああいう怖いもの知らずの恐ろしさの感覚は大切だったと思います。


プロデュースをするということ

──OKIさんのアルバムを時系列で聞くと、実験的なものと伝統的なものが交互に現れているように思います。例えば海外ゲストが参加し、同時代的で実験的な音作りで話題となった『No One’s Land』(2002年)の後には、古典の音源を元にしたクラシック音楽のようなトンコリのソロアルバム『トンコリ』(2005年)を発表されています。

 それは当時の戦略で、ひとつのアルバムを作りながらすでに次のアイディアを考えていたから、アルバム毎にシンプルで古典的なものとアレンジが入ったものとでスタイルを入れ替えようと思ってのことです。次々とアルバムを出そうと思ったのも考えがあって。昔、タワーレコードに行ったら、沖縄コーナー、日本コーナー、ブラジルコーナーはあるのに、「アイヌ音楽」というコーナーはなかった。邦楽のところにお琴とかと一緒に混ざって萱野茂さんが収集した録音のCDが置いてあったりする。それまで「アイヌ音楽」という商品がなかったからです。じゃあ、毎年1枚ずつCDを出してやろうと思った。そうしたら、実際に「アイヌ音楽」というセクションができました。今は自分の他にもCD作っている人がいるけれど、なかなか世の中に広まらないのは、ディストリビューターがついていないし、ミックスやマスタリングがちゃんとしてなくて、雑誌媒体にも出してないから。これはプロのミュージシャンなら普通にみんながやっていることです。僕は別に特殊なことはしていなくて、普通にミュージシャンがやるべきことをやって、ジャンルがないんだったらジャンルも作ろうと思って、音楽産業として常識的なことをしてきただけです。
 一方で、プロとして活動しようというつもりはなくても、自分のルーツであるアイヌの歌や踊りをものすごく大切にしている人がたくさんいます。ただ、自分が提供した歌や踊りが、行先や結果がわからないまま使われてしまうという経験をされた方も多い。多くの場合、仕事が回ってきた時にはすでに大きな枠組みが決まってしまっていて、財源を持っている誰かの計画に当てはめるだけのために、歌や踊りを提供するということになります。結果として自分の意に沿わない使われ方をされてしまった場合も、どうすることもできずに泣き寝入りするしかない。だから、自分の表現が大切で、それを世に発表するのであれば、歌だけ歌っていればいいということにはならない。自分がやっている歌や踊り、自分が表現したものの行先を、自分でコントロールできるかどうかがこれからは大切なのではないかと思います。おかしいと思うことがあるなら、自分で状況をコントロールしていく術を身に着ける。それがプロデュースをするということなのではないでしょうか。

──OKIさんは文化の紹介を受け身でするだけではなく、プロのミュージシャンとして、自分が活動する場自体をプロデュースしているということでしょうか。一方、誰がプロデュースを担うのかという点も含め、また「アイヌ音楽」に限らず、自らの民族的ルーツを表現の核にしてアーティストになるのはいろいろな難しさがあります。
 どうやったらアーティストになれるかは、だれにもこうとは言えないですね。ただ最近思うのは、アイヌ文化に関わっている人は先祖への敬いの度数が桁違いに高いので、新しいものを作るのに、「これは違うのではないだろうか」というリミットがかかって、新しい創作がしにくくなっている感じがします。新しいものを作ろうというときにも、最近はみんな同じピッチでそろえて、手も同じ方向で、みんな同じ衣装で、というような全体主義的な傾向になっているように感じますが、自分はそれはいやだなと思います。
 新しいものが作りにくいという空気を変えるには、外からの影響を利用するという方法があります。阿寒で開催された「ウタサ祭り2021」はまさにそういう、外圧を利用した事例だと思います。阿寒の実演者たちはプロフェッショナルなので、プロデュースされた枠組みや決め事があっても、それに自分の表現を対応させることができるし、新しい表現にも威厳を持って取り組んでいて、さすがだなと思いました。ただ、アイヌも和人もどちらも出演してはいるけど、セッションのリードやアレンジは、主に東京からきたミュージシャンやプロデューサーがイニシアチブを取っていました。でももしかしたらこういう場を通じてプロデュースの手法を学んで、将来的に自分たちでやっていくということができるようになるのかもしれません。

──他人が決めた枠組みの中で音楽をやるのではなく、枠組みや方向性から自分で作るという姿勢は、表現のオーナーシップを持つという意味でも重要であると思います。阿寒湖で開催された「ウタサ祭り2021」は、「互いに交わる」という意味の言葉「ウタサ」がタイトルになっているように、アイヌのアーティストと和人のアーティストとが共演したイベントでした。2021年は残念ながらオンライン配信になってしまいましたが、和人も含めほとんどの出演者がアイヌの伝統的な着物をきている中で、OKIさんはあえてジャージで出演されていました。葛野エカシと一緒に作った「北海道に泥棒がやってきた」という内容の歌詞の曲「トパットゥミ」を演奏されていて、すごくパンチのあるパフォーマンスになっていました(*10)
 みんなが言いにくいことも1回は言う、というのを僕はやろうと思って。腹が立った人もいたんじゃないでしょうか。昔は型破りがたくさんいたから、自分はオールドスクールなやり方をしていると思います。今はなんとなく、きちんとしていないといけないという空気があります。ジャージで登場したのは、ウタサ祭りではなんだかみんなアイヌの伝統衣装を着ていたから。アイヌ民族が冬に被る「コンチ」も、たぶん僕が最初にステージ上で被り始めたと思うけど、最近ではアイヌも和人もみんなかぶるようになっちゃった。OKI DUB AINU BANDではそのあたりはとてもシンプルで、僕と居壁太はアイヌだから自分の民族のものを着るけど、それ以外のメンバーはアイヌじゃないから着ない。ジャケット写真のためにちょっと模様の入ったものを身につけたりはするけど、わざわざ全身着物を来てアイヌっぽく見せるというようなことはしません。

──ウタサ祭りでは若手との共演もされていましたね。
 『アイヌモシㇼ』という映画に出演したカントも、ミュージシャンとして「ウタサ祭り」に出演していたんですが、相談を受けました。その時僕が言ったのは、こういうコードを使った方がいいとか、こういう言葉の方がいいんじゃないかということではなく、なぜこれなのか聞くこと。どんな思いで作っているのか、何を言いたくて、何は言いたくないのかを徹底的に話し合いました。これが僕のプロデュースの方法なんだと思います。若手はいろいろと壊していってくれたらいいとは思うけれど、何を期待するかということについては、民族を背負わせることの「期待」と、何かのプロになっていくことへの「期待」で異なります。どちらも最終的に自分が幸せになるようになってくれればと思っています。自分は人に対して無理にアイヌとしてのアイデンティティを持つように勧めたこともないし、これからも、「アイヌだから期待している」とは言わない。どう向き合うかは本人が決めることだし、言葉でその人の人生を変えたくない。アイヌに関わる活動は、別にやってもやらなくてもいいと思います。ただ、いつか自分のアイデンティティに向き合うときが来るだろうから、その時には手助けをしてあげたいとは思いますね。
 それよりも、ちゃんと何かのプロになって飯が食えるかというところが大事だと思います。それはアイヌだからどうということではなくて、人間としてどうかというところだから。ただ、アイヌであるということで、何かとついてくる視線や先入観などをはねのけなければならないという「面倒くささ」はあると思います。でも、各自がプロとしてやりたい仕事をして稼ぐことができれば、それは幸せなことだと思うし、それがアイヌに関わることである人も、そうでない人もいる。その両方を含めて「アイヌ民族である」ということだと思うから。日本人だって、みんなが戦前にあったような伝統的な生活を知っているわけじゃないし、みんなが日本文化に関わる仕事をしている訳ではないですよね。

──自分で道を見つけて、それが幸せだと思ったら、アーティストの道を歩む若手も増えてくるでしょうか。
 アイヌの気持ちも持っていてスキルがある人がいたら、今はそういう人たちを僕らがピックアップしなきゃいけないと思います。アイヌのルーツを持つ人たちなんて、実はすっごくいっぱいいるんです。僕のコンサートには「私、実はアイヌです」っていう人がいっぱい来ます。何の仕事をしているのかと聞いたら、ベリーダンサーとか、ベーシストとか、サーファーとか。本当は音楽の分野ももっと競争相手がたくさん現れて、フェスの出演とかも「あっちのグループに取られちゃって今年は出番がないなぁ」という風になってほしい。もっと自分のようなグループが生まれてきてほしいですね。

──最近阿寒を舞台にした映画にも出演されましたね。『アイヌモシㇼ』(福永壮志監督、2020年)は、キャストがそれぞれ自分の役として出演し、OKIさんもOKI役としてご出演されていました。そのため、フィクションでありながら、妙に現実感のある作品でした。
 この映画は月日が経つほどに重みが増すと思います。50年後に観た人が「あ!カント爺ちゃん若い!あの人も出てる、この人は誰?昔の阿寒湖はこうだったんだ!」って話になるわけですから楽しみですよね。ストーリーの中で主人公の「カント」が、熊のイオマンテ(*11)の儀式に参加するのを拒んだというシーンがありますが、そもそもそれは、「デボ」役が、嘘をついたままでいたという台本が原因なのではないかと思いました。イオマンテは、昨日まで遊んでいた熊を大人が殺して天に帰ってもらうという不条理を子供が見るということが大事。自分も初めてイオマンテに参加した時、熊の目から精気が消えていくのを見ました。「残酷」という考え方を根本的に変える機会でした。
 もし僕が直接この映画作りに関わっていたら、熊を育てた「カント」には無理矢理にでも儀式に最初から参加させて、僕自身が経験したように、胸を切り開かれた熊のまだ生暖かい内臓をその手で握るというシーンを入れたかった。イオマンテは、アイヌの精神である「神様と人間が対等である」という感覚や、神様をゲストとして迎えること、ゲストに対してどう振舞うかということなど、アイヌと自然との付き合い方が、数日間の儀式の中で学べ、実感できるようになっています。作品が公開されてから、「ウタサ祭り」の際にカントと話した時に、本当の自分だったらどうしたと思うかと聞いたら、「イオマンテには最初から出たと思う」と言っていました。
 自分のいる旭川や、映画に出てきたような阿寒の子供・若者たちにとっては、アイヌであるということは空気みたいなことです。周りがみんなそうだから。でも映画っていうプロジェクトによって、アイデンティティを自覚させられてしまった人もいる。それは僕が変拍子を自覚した時に似ていて、苦しさにつながります。だから、無理して自覚を促しちゃいけないし、自覚したように誰かを見せちゃいけない。

──ウポポイで、夏季に公開されている夜間のプロジェクションマッピング作品に音楽提供もされていらっしゃいますね。
 ウポポイ職員として働く若い伝承者たちに入ってもらって歌のトラックを録音しました。すごく歌が上手で、彼らと一緒に作れたのは楽しかったです。でも本当は、プロジェクトの最初から頼んでくれたらすごくいい物を作ることもできたんだけどなとも思います。よくあるんですが、最初から全部チームも内容も決まっていて、これに音楽つけてくださいと言われてもあまり面白いことはできない。今回も音楽だけはカッコよくしようと思って、一緒に歌で参加してくれたウポポイの歌い手のためにもいいものを作ろうと頑張りました。実際に制作している人たちはいいものを作ろうと思って頑張っているんだろうけれど、でもやっぱりあの作品自体を、昨日まで全くアイヌのことをやったことのない人たちが作っているというところが不思議です。自分は映画もやっていたし、仲間もいるし、ああいったものもプロデュースできるんですけど、呼ばれなかったですね(笑)。

──「音楽だけ」「歌だけ」を頼まれるのではなく、表現を見てもらうための枠組みから自分でプロデュースするということは重要なことですよね。OKIさんご自身がプロデュースをする時には、どんなことを考えていますか。
 プロデュースするということは、どこを基準するかということ。例えば僕の音楽なら、ドレミで構成されるポップスのマナーに歩み寄るか、それともアイヌ音楽のマナーに寄せるのか。どっちも正解で、どっちも戦略。自分は最初、ポピュラー音楽の土俵にトンコリを参加させることを目指して、5万人の前でも演奏できるようにトンコリを変革してきたけれど、これは相当歩み寄っている姿。一方で、誰にも歩み寄れないものもあります。それはアイヌ音楽の個性を活かせているとき。昔の録音を聞いていると、ピッチもすごいしリズムもすごい。でも全体で聞くと全く違和感がない。これをモノラル音源で一つの塊として聞いた場合の迫りくる感じ。それがアイヌらしいと思います。両方がどう混ざっていくかに答えはないし、どちらも否定できない。歩み寄っていくか、歩み寄ってもらうのか。アイヌ音楽をプロデュースする時はそれを常に心がけなければいけないと思っています。

──OKIさんは、「アイヌ音楽」をプロデュースするということをしているのですね。
 「いまどき」なことをしたとしても、アイヌらしくしていたいという気持ちはあります。本性で作りたい。勉強をしたことは知識だけど、知識でも経験でもなく、自分というものの存在感そのものがすっと音楽になった時、どんなものができるかというのを、もっと考えないといけないと思っています。今までバンドのレコーディングはベースラインだけは決めてからスタジオ入っていたけれど、今作っている新しい曲は、純粋に歌だけがあってすっとスタジオに入りました。あとはお任せというか、楽に作っていくということが今の自分には必要です。「バッタキ」を作ったときは楽しかったし、勘を信じていた初期のころの作り方を思い出したい。後もう一つ一番大事なのは、サウダージ、それとなまめかしさというか官能的であるということ。音楽ですからそれは心がけていますね。胸がぐっとなる感じ、それが自分の音楽には必要です。
 
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