The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
藤間蘭黄
藤間蘭黄(ふじま・らんこう)
撮影:篠山紀信
「舞」と「踊」
「舞」は巡り廻る運動を主として、古代以来の起源を持ち、貴族的性格があるのに対し、「踊」は跳躍の運動を主として主に近世に大きな発展を遂げ、庶民的性格を持つ。
『禍神』
撮影:岡村昌夫(テス大阪)
禍神
『徒用心』
徒用心
『信長─NOBUNAGA─』
藤間蘭黄、ファルフ・ルジマトフ(元マリインスキー・バレエプリンシパル)、岩田守弘(元ボリショイ・バレエファーストソリスト、ロシア連邦ブリヤート共和国国立バレエ芸術監督)の出会いによって誕生した、日本舞踊とバレエのコラボレーション作品。戦国時代の武将、織田信長(1534〜82)の半生を象徴的に描いている。作・演出は藤間蘭黄。NOBUNAGA役はルジマトフ、豊臣秀吉役は岩田、斎藤道三と明智光秀は藤間が二役。振付は、藤間が日本舞踊の場面を、岩田がバレエの場面を担当。作調・作曲は梅屋巴、中川敏裕に委嘱。2015年に国立劇場(東京)で初演し、2017年に東京国際フォーラムで再演。2019年1月には『信長─SAMURAI─』というタイトルで、「ロシアにおける日本年」主催事業としてモスクワ、サンクトペテルブルグ、ウランウデで計6公演が行われた。
撮影:瀬戸秀美
信長
信長
信長
信長
五耀會
西川箕乃助、花柳寿楽、花柳基、藤間蘭黄、山村友五郎により、流派を越えた舞踊家が集い、2009年に設立した日本舞踊グループ。歌舞伎舞踊、創作舞踊、上方舞の古典、新作を上演し、日本舞踊の多彩な魅力を伝える活動を行っている。
https://www.goyokai.com
日印共同制作公演『ラーマーヤナ』
ラーマーヤナ
Artist Interview
2019.3.12
ダンス
The world of Rankoh Fujima Pioneer of the realm of Suodori  
「素踊り」が拓く藤間蘭黄の世界  
藤間蘭黄(1962年生まれ)は、江戸時代から続く日本舞踊の家に生まれ、重要無形文化財保持者である祖母の藤間籐子、母・蘭景に学んだ舞踊家。日本舞踊の継承と普及を行うと同時に、振付家・演出家・脚本家として古今東西の物語に主題を得た新作日本舞踊を創作。また、日本舞踊の世界を越えて、バレエやカタックダンスといった異ジャンルとのコラボレーションに挑戦するなど注目を集めている。中でもロシア・バレエの世界的ダンサーであるファルフ・ルジマトフ、岩田守弘と共演した『信長─NOBUNAGA─』(2015年初演)は再演を重ね、2019年1月にはロシアで6公演を行い、喝采を浴びた。2009年には流派を超えた舞踊家5人とともに五耀會を立ち上げ。海外でも積極的に活動する彼に、日本舞踊の可能性についてインタビューした。
聞き手:岡見さえ(舞踊評論家)
海外での活動

──これまで20カ国以上で日本舞踊を広める活動をされています。2016年度には文化庁文化交流使としてアメリカ、チェコ、ウクライナ、ポーランド、ハンガリー、スロベニア、フランス、ロシア、ドイツ、イタリアの10カ国を訪問されました。いつ頃から海外での活動をはじめられたのですか。

 祖母が随分昔から海外に目を向けていて、ホノルルやロサンゼルス、シアトル、バンクーバー、ブラジルにもお弟子さんがいました。戦後日本人が海外に進出するのに連れて、日本舞踊も各国に広がっていったようで、祖母だけでなく、他の流派の先生方も海外に教えにいらしていたようです。母が1967年にはじめてのリサイタルをニューヨークで開いたときに、父や弟とともに手伝ったのが私のはじめての海外活動といえるかもしれません。

──海外では日本舞踊についてどのようなレクチャーをされているのですか。
 まず「日本舞踊」という名称から話をはじめます。海外で“日本の踊り”と言うと、あらゆる踊りを含んでしまいます。なので、まず、私がこれから説明する日本舞踊は舞台上でお客様に見せることを第一の目的とした舞台芸術のことだという前提を申し上げます。
 それから、日本舞踊の直接のルーツである歌舞伎の歴史について話します。歌舞伎の起源は出雲阿国の「かぶき踊り」と言われています。これは当時外国から伝わった最新の楽器・三味線を使った新しい音楽で大勢が踊るレビューなので、歌舞伎と踊りには誕生から切っても切れない縁があります。
 その後、女性だけの「阿国歌舞伎」も、それを継いだ少年だけの「若衆歌舞伎」も、風紀を乱すと幕府に禁じられ、演者は成人男子のみ、内容も昔の強い武士の武勇伝か庶民のホームドラマ的な話に規定されてしまいます。でもこの規制によって、世界に類を見ない女形の技術が生まれ、パントマイム的な要素を持つ踊りが生まれます。日本舞踊はこうした劇の一部として発展し、やがて踊りの達者な役者が早替わりしながら色んな役を踊る、“七変化”“十二変化”という「変化物」が生まれた。現在、私たちが日本舞踊として習う古典の踊りの多くが、この変化物の一部を取り出した演目です。
 文化年代、19世紀初め頃には歌舞伎で踊りの重要性が増し、専門の振付師が生まれます。最初は役者自身が振りを考えていたのが、その振りを伝えるという必要から振付師という仕事ができ、専門職化したのでしょう。やがて、踊りを習いたいという人たちが現れて、踊りのお師匠さんが誕生する。これが我々の直接のご先祖です。

──歌舞伎の中の踊りから生まれた日本舞踊はとても演劇性が強く、衣裳を着けてひとりの踊り手が特定の役を踊ります。加えて、特徴的なものとして、衣裳やカツラを着けないで踊りだけでひとりの踊り手が複数の役を演じ分ける「素踊り」があります。「素踊り」についてはどのように説明されるのでしょうか。
 たとえばバレエだと、バレリーナが例外的に白鳥から黒鳥に変わることはあっても、王子にはならない。でも日本舞踊では、ひとりで姫も王子も、さらにそこに咲く花、吹く風も表現できます。それが一番生かされる上演方法が「素踊り」です、と説明します。私にとっては当然のこの踊り方が海外では驚かれます。逆に言えば、日本舞踊のこの特性を説明しないと、これは多重人格者の踊りなのかと誤解されかねない。ですから、「素踊り」について説明し、実際の踊りの前にも、「ここで女形になって、次にこれになる」と要点を説明しています。
 「素踊り」は明治時代に確立された上演方法です。外国から入ってきた「ダンス」という言葉の訳語として、坪内逍遥たちが日本語の「舞」と「踊り」をひとつにした「舞踊」という言葉をつくりました。それを契機に、日本舞踊独自の踊りを生み出そうという新舞踊運動が興ります。こうして舞踊は歌舞伎から独立し、歌舞伎とは異なる表現方法の探求が始まりました。
 そもそも「素踊り」は、生徒さんたちが日頃の稽古の成果を発表するおさらい会で、最後にお師匠さんが何の扮装もせず、素で登場して、いくつかの情景を踊り分け、また素にもどって退場するという舞踊家の踊りの技量を見せる上演形式が膨らんだものです。ですから、「素踊り」では、美術も、特別な衣裳も、化粧もなしで、純粋に身体の動き、舞踊だけ見せます。男性はカツラを着けない普通の頭で紋付袴、女性は黒の留袖、白塗りで「前割れ」というカツラを着けます。ちなみにこれは、歌舞伎の女形が自前の髪をカツラに納めるために結った形で、カツラを着けているとはいっても扮装前の踊り手の姿を表しています。

──レクチャーで他に説明されていることはありますか。
 「見立て」について説明します。2000年に外務省からの依頼で母とアイルランドで踊った後、トルコ、シリア、レバノンをほぼ1カ月間かけて回りました。その時に日本舞踊の独自性を強く実感しました。ひとりの踊り手が1曲の中で複数の役や風景になって踊るということと、もうひとつが「見立て」です。
 フラメンコなど、世界の他の地域にも扇子を使う踊りはありますが、扇子はあくまで「扇ぐもの」です。それが日本舞踊では違います。閉じて口に近づけるとキセル、立てれば徳利、山や風を表すこともできるし、花が咲く様子を表現することもできる。これが見立てです。見立てを外国語に訳すのは難しい。仕方がないので、「見立て」というのは、Xを用いてYを表すこと。この場合のXは扇子、Yは山や風、水である、と説明します。これは日本文化に特有の表現方法で、舞踊に限らず、和歌や文学、お茶やお花、絵画や和食の世界にも「見立て」があると前置きして、それから実演します。
 わかりやすい例でいうと、扇子を立てて傾け、注いで、飲んで、酔っ払った動きをすると、酒を飲んでいるところだとわかる。なぜ皆さんがそう思ったかというと、扇子を頭の中で酒の入った杯、酒が入ったボトルに読み替えてくれたから。それが「見立て」です、と言うと、納得される。他にもいろいろ実演します。広げて扇子の要の方を上にして「山」とか。日本の山の象徴は独立峰の富士山で頂上が1つだから、日本人にはこれが山に見える。でもロシアの山は山脈だから、これを山に見立てるのが難しかったりするわけです。

──「見立て」の前提となる文化の違いですね。
 そうです。毎年、留学生に日本舞踊の講義をする機会があるのですが、その時に扇子を配り、「見立て」の話をした後、実際に何かを扇子で見立ててもらいます。するとアメリカ人は平らに広げてピザとか、ドイツ人は立ててビールとか、お国柄が表れて面白いです。


西欧の題材による創作日本舞踊の取り組み

──蘭黄さんは、日本舞踊の古典の普及だけでなく、西欧の題材による創作日本舞踊を精力的に発表されています。2009年に発表された『禍神(まがかみ)』は、ゲーテ作『ファウスト』を日本舞踊化したものです。

 創作日本舞踊をはじめるにあたって、自分でやる場合は音楽は必ず邦楽、衣裳は着物と決めていました。『禍神』は、「素踊り」で、私がファウスト、メフィスト、マルガレーテ、魔女たちや群衆もすべて踊ります。自分で振付、演出、作詞をして、音楽は杵屋勝四郎さん(長唄三味線方・唄方)にお願いしました。制作のきっかけは、歌舞伎俳優の中村梅玉さんからピアノ演奏による『メフィスト・ワルツ』で踊る日本舞踊の振付を依頼されたことです。その時に『ファウスト』を読んだのですが、この戯曲は踊りにできると思いました。それで、自分で歌詞を書いて、勝四郎さんに相談したら、「面白いね」と作曲してくださいました。

──新作では、音楽の杵屋勝四郎さん、美術の河内連太さん、照明の足立恒さんとよくご一緒されています。
 この座組は、2007年に創作した『沖太夫(おきのたゆう)』からです。沖太夫はアホウドリの古名です。偶然、テレビで放送していたアホウドリのドキュメンタリー番組を見て、鳥を呼び寄せるためのオトリのデコイ(模型)に恋をするアホウドリの物語を思いつきました。これも自分一人立ちの「素踊り」で、詞を書いて、音楽を杵屋さんにお願いしました。照明にはこだわりたいと思っていたところ、たまたま出演した日本舞踊協会の創作舞踊劇場公演の照明が素晴らしく、それをプランされた足立さんにお願いしました。その足立さんが紹介してくださったのが河内さんで、オトリの模型は、木枠に着物をかぶせて表現し、カタカタっと崩れ落ちる仕掛けも考えていただきました。

──蘭黄さんは、どういうものを新作舞踊にしてみたいと思われるのですか。
 私の場合は、「こんな踊りが踊りたい」「こんな役がやってみたい」という感覚で新作をつくることはなくて、「この話を踊りにしたら面白いんじゃないか」という物語の魅力に惹かれて新作舞踊をつくっています。ですから台本をつくるときには楽しいのですが、いざ振付の段になると、「何を考えているんだ、この作者は!これをどうやって踊りにするんだ!」という感じで、毎回、自分で自分に怒っています(笑)。

──自分で台本や歌詞まで書く振付家は珍しいのではないですか。
 そうでしょうか。私の舞踊台本は、設定のト書きがあり、歌詞があり、またト書きがあるという感じで、情景描写、心情の語り、会話などを歌詞にしています。

──歌詞は、歌の伝統的な決まりに従って書かれているのですか。
 何回か書き直しながら、いわゆる五七五ではありませんが、一定のリズムが取れる言葉を並べます。でもそれだけでは平板になるので、わざと字余りを入れることもあります。『沖太夫』では、唄をほぼすべて現代語で書いたのですが、賛否両論でした。邦楽に親しんでいる方からは、だいぶご批判を受けました。歌詞が理解できなければ意味がないと考えたのですが、やはり伝統的な邦楽に馴染むような言葉の方がよかったのかなとも思います。『禍神』の時は、私が読んだ『ファウスト』の翻訳には明治や大正の少し古い文体のものもあったので、違和感なく邦楽に乗りました。

──蘭黄さんは、長唄、囃子もなさいますので作曲もできると思いますが、どうして自作されないのですか。
 歌詞を書いた人が作曲すると、歌詞を書くときから曲をイメージして、曲に乗りやすいように歌詞を書いてしまう。ところが古典の邦楽の曲を聞くと、歌詞の言葉が切れているのとは全然違う所で音楽が切れるということがあって、非常にわかりづらくもありますが、でも、それがとても面白い。だから書く人と作曲者は別の方が良いと思っています。

──作曲の杵屋勝四郎さんは江戸時代から続く長唄三味線方、唄方です。一方、三味線ファンクバンド「THE 家元」を立ち上げるなど革新的なこともなさっています。
 三味線の方に作曲をお願いするというのが一般的かもしれませんが、私は物語を大切に思っているので、どうすればもっと歌詞が伝わるだろう、どうすれば唄がおもしろくなるのだろうと考えて、唄方でもある勝四郎さんにお願いしました。本当に面白い曲を作ってくださるのですが、新作なのでイメージが異なることもあり、こちらの要望を伝えて直していただくこともあります。そういうやりとりができる信頼関係があることも重要だと考えています。

──2012年にはオペラ『セビリアの理髪師』を日本舞踊化した『徒用心(あだようじん)』を「第18回蘭黄の会」で発表されました。これもやはり物語のおもしろさに惹かれたのでしょうか。
 そうです。オペラ『セビリアの理髪師』の映像を見る機会があり、これは踊りになると思い、歌詞を書き上げました。言葉は擬古典調にしたかったので、古語辞書と首っ引きで、昔の唄の本も参照しました。題名も、オペラの副題「無益な用心」を日本風にしたものです。

──原作のオペラや小説にはたくさんの登場人物が出てきますが、日本舞踊にするときに整理したり、新しい切り口で構成したりしますか。
 原作がある場合は、基本的に原作に従います。『禍神』も、メフィストを主役にして、ファウストとマルガリーテ、それから魔女3人や民衆を登場させて、すべて一人で踊りました。『徒用心』も、最初は『禍神』と同じで一人立ちにするつもりでした。ところがあのオペラには二重唱や三重唱があり、大勢が入り乱れてさまざまなことが起こるけど全体で調和するという、大人数ならではの面白さがあります。これは一人では無理かなと思い、五耀會のメンバーに依頼しました。
 キャラクターがメンバーの個性にぴったりだと思ったからです。私がアルマヴィーヴァ、花柳基さんにフィガロをお願いしました。換骨奪胎して江戸時代の話に仕立てしたので名前を変え、アルマヴィーヴァは有馬林之進、ロジーナはローズですから、日本古来のバラ科の梅からとってお梅。この役は花柳寿楽さん。彼女の養い親役は西川箕乃助さん。音楽教師のドン・バジールは上方舞の山村友五郎さんで、舞の師匠で名前は幡土十郎(ばん・どじゅうろう)に変えました。完全にダジャレです(笑)。

──日本舞踊の師匠がこんなにユーモア好きとは(笑)。そもそも台本を書くことに目覚めたのはいつからですか。
 遡ると、私が所属している日本舞踊協会東京支部城東ブロックの第30回記念舞踊会(1996年)の企画で台本を書いたのがきっかけだったように思います。小唄の春日とよ栄芝師匠に特別出演していただいたのですが、小唄で城東地区の名所・旧跡を巡る企画が持ち上がり、折角なら替え歌で愉快なことをやろうと、私が台本を書くことになりました。葛飾北斎が、白菜づくりの名手の双子の弟を探して名所・旧跡を巡るという趣向で、お客様にもとても喜んでいただいた。
 日本舞踊でこんなに楽しいことができるのならぜひ続けて欲しいと、台東区に支援していただいて、2005年から浅草公会堂で「踊(おどり)らいぶ」という催しを始めました。若手舞踊家の群舞作品、古典、小唄を使った舞踊劇の三本立て。坂東勝友先生の振付による舞踊劇で、私が脚本・演出を担当し、8回ぐらい続きました。最初が『鼠小僧』、翌年が日本に設定を置き換えた『ピノキオ』、その他『真夏の夜の夢』『オペラ座の怪人』、落語や歌舞伎のパロディもやりました。
 こうしたことができたのは時代もありましたし、下町という地域性もあったと思います。台本と称して小唄の替え歌をいっぱい書き、演出もさせていただき、技量のある皆さんに膨らませていただいて、たくさん勉強させていただきました。

──日本舞踊の跡取りとして修行されてきたわけですが、それとは別にこうした台本を書く上で影響を受けているものはありますか。
 自分で良かったと思うのは、大学時代に続々と登場した小劇場演劇を観に行っていたことです。第三舞台、串田和美さんや吉田日出子さんたちのオンシアター自由劇場も観ています。衝撃的で、本当におもしろくて。でもあるとき、「このままだと小劇場演劇にハマる、ハマったら日本舞踊ができなくなるかもしれない」と思いとどまった。20代半ばまでは、オーケストラの演奏会やバレエやオペラにも行っていたのですが、それもやめました。芝居は歌舞伎、あとは日本舞踊だけ、と一線を引きました。

──若い頃、小劇場演劇の前衛的な表現に出会ったことが今の蘭黄さんの発想のベースにあるというのは、とても興味深いお話です。ひとりで何役もやる素踊りは、時間や空間が自由に飛ぶ小劇場演劇と通じるものがあるように思います。
 小さい頃からずっと、祖母や母から古典が大事、古典がきっちりできないうちは新しいものをつくれるはずがないと言われてきました。ですから、自分の古典の踊りに納得できるようになるまで、20代半ばで古典以外の舞台芸術を見ることをやめた。それは良い選択だったと思っています。
 1998年にはバレリーナだった中村梅玉夫人のご縁で、梅玉さんとバレエシャンブルウエストが共演した『時雨西行(しぐれさいぎょう)』を振り付けましたが、そのときもバレエを観て参考にすることはしないで、日本舞踊として考えました。洋物を見るようになったのは、11年前に妻(舞踊評論家の桜井多佳子さん)と結婚してからです。だから題材が洋物でも何でも、振りを付ける際には、身に付けた日本舞踊の古典をベースにしています。

──作・演出・振付を担当された、世界的バレエダンサーのルジマトフさん、岩田守弘さんとのコラボレーション『信長』でも、バレエと日本舞踊という東西の異質なダンスでありながら、折衷的なコラボレーションに陥ることなく、ひとつの作品にまとまっているのが奇跡的でした。
 2015年の初演の稽古の時から、3人が合い言葉のように「古典が大事」と言っていました。彼らも「古典をベースにしなければ踊れない」と言うのです。もう一つの合言葉は「それぞれの得意技を用いよう」でした。小さい時から培ってきた一番の得意技をぶつけ合う。これしかないのです。
 古典を尊重し、互いの最上のものをぶつけ合う感覚は、『時雨西行』で学びました。歌舞伎俳優の梅玉さんが踊るのですから、全部古典の踊りの手でつくったわけです。バレエと日本舞踊が同時に舞台に乗る場面でも、こちらは日本舞踊の身体の動きのままでと決めていた。そしてバレエ団の稽古場に行って合わせたら、ピタッと合ったんです。そこで腑に落ちた感覚がありました。
 『信長』で共演したルジマトフさんも岩田さんも、それぞれ古典という揺るぎないものを持っているうえに、役の深め方が全然違います。自分は何をやるか、どんな役なのか、すべてを理解して舞台に出してくる。そうなればもう大丈夫なのです。


五耀會と日本舞踊の未来

──2009年には、流派を越えた4人の日本舞踊の舞踊家と五耀會を立ち上げ、現在も精力的に活動されています。

 当時、西川箕乃助さんが、「日本舞踊は踊る人も観る人も減り、そもそも社会的に認知されなくなっている。ここらで僕らが踏ん張らないと、次の世代に繋がらない」と危機感を訴えられて。西形節子先生が現代の日本舞踊界についてのご著書を準備されているときに、私と箕乃助さん、花柳基さんもインタビューを受けて、個人では限界があるからグループをつくると良いのではという話題もでて、会の立ち上げに繋がりました。メンバーは、箕乃助さんをリーダーに、基さん、友五郎さん、寿楽さんの5人で、おかげさまでもう11年続いています。
 私たちの思いは、日本舞踊の未来を何とかしていかないと、ということに尽きます。日本舞踊は観ていただくものなのだから、舞台の演者のためではなく、お客さまが喜んで帰ってくださるような公演をやることが大事だと考えました。習い事のおさらい会や、舞台で踊っている人たちが一番うれしい会だけではダメなのだと思っています。私たちプロフェッショナルが、お客様がもう1回観に行きたいと思える舞台を作らなくては観客が増えないし、観客が増えないとお稽古したい人も増えないという悪循環になってしまいます。

──日本舞踊を習う人も、以前に比べると減っている印象です。
 母が子どもの頃までは、子どもの習い事で日本舞踊は5本の指に入っていました。でも今は10本の指にも入らない。踊りはバレエ、ヒップホップ、ジャズダンス、フラメンコ、フラダンス、それ以外には体操、英語、水泳、ピアノなどで埋まってしまう。日本舞踊は、親が我が子に習わせたいものの中に入っていないわけです。観たことがなければ、当然でしょう。だから親世代、あるいはおじいちゃん、おばあちゃん世代まで含めて、もっと皆さんに観てもらわないと、日本舞踊の裾野は広がらないのです。

──ちなみに流派を超えた会は、それ以前もあったのですか。
 我々の2世代前に、「五人の会」というのがありました。当時の花柳壽楽先生、藤間流では藤間友章先生と秀斉先生、猿若清方先生、上方舞の吉村雄輝先生の5人が集まり、独りのリサイタルではできない大きな出し物を5人で助け合ったり、新作をつくったりされる研鑽の会でした。その後に、今の扇蔵先生と今の壽應先生、亡くなった泉徳右衛門先生の「三樹会」。それらを箕乃助さんは子どものころから身近に見ていたので、今、そういう会をやれば何かの指針になると考えられたのだと思います。

──五耀會を立ち上げて、どのような反響がありましたか。
 大阪の松竹座と東京の国立劇場大劇場で旗揚げ公演を行いました。2年ほどしてから、メンバーが踊りの一部をお見せし、解説もする「日本舞踊への誘いby五耀會」というアトリエ公演を始めました。日本舞踊をもっと身近に感じてもらうのが目的で、毎月5日に5人の稽古場を持ち回りで行い、入場料は500円(当初)。お弟子さんに声を掛けるとそれだけで満員になるので、あえて一般の方をウェブサイトで募集しました。初回の観客は11人でしたが、翌月には15人、3カ月、4カ月ぐらいしたら定員60人が一杯で、キャンセル待ちになりました。約3年続け、一定の目的を達したと考え、今はお休みしています。

──アトリエ公演の他に、どのような活動をされていますか。
 自主公演は1、2年に1回ほどですが、全国各地から声を掛けていただくようになり、五耀會として出演することが増えました。2019年3月には沖縄に行きます。琉球の英雄・護佐丸という人をテーマにした新作を、中城という世界遺産の城跡で、石垣の城壁の前に特設舞台を組んで踊ります。

──五耀會として海外にも行かれていて、最近ではインドで現地の舞踊家や音楽家とコラボレーションをされています。
 2016年に、国際交流基金、日本舞踊振興財団のご縁で、五耀會にニューデリーでインド音楽とコラボレーションするお話をいただきました。その時は『三番叟』をタブラーで、『羽衣』をシタールで踊りました。最後に5分ほどの小品をつくってカタックダンサーたちと一緒に踊りました。それがなかなか好評で、次は本格的な新作をつくろうということになり、2017年にニューデリーで初演したのが『ラーマーヤナ』です。半分冗談で、「インドの話なら、『ラーマーヤナ』だね」と言っていたら本当にやることになった。誰もどんな話か知らないのにです(笑)。
 「じゃあ蘭黄ちゃん台本書いてね」とお鉢が回ってきたので、日本に帰って本を取り寄せたら、膨大な話でどうしようかと思いました。でも日本舞踊はひとりで何役もこなせるので、ラーマ役の私以外は、三役ずつ。紋付袴で踊るので、インドのお客さんに何の役か変化が分かるように、インドの布を着物の上から巻く工夫を考えました。

──インドの国民的物語ですから、ご苦労もあったと思います。
 インドで生地屋さんに行き、「『ラーマーヤナ』を上演するので、それに使う生地を買いに来た」と言うと、お店の人が「この役だったらこの布」と出してくる。ハヌマーンという猿を表す色はオレンジだと聞いていたのでオレンジの布を注文すると、「もう少し濃い方がいい」とか、お客さんまで「ハヌマーンだったらコレ!」とか。日本における桃太郎、金太郎ぐらいに知られた話とわかって、ドキドキしました。でも初演の日、冒頭の宮廷からラーマが追われる場面が終わり、転換で暗くなった途端に拍手喝采だったので、「よしっ!」と。最後は終わった途端に、全員が立ち上がって拍手喝采でした。

──扇子の見立てもあったのでしょうか。
 もちろんです。たとえば森に追放されたラーマを弟が迎えに行き、帰還を拒まれて、せめてもとサンダルを持ち帰って玉座に据えるエピソードで、お扇子をサンダルに見立てて玉座に置くと拍手喝采が起きました。でもそれは、開演前に見立てのレクチャーをした上でのことです。

──どのようなプロセスでコラボレーションが進んだのですか。
 いくつか場面をつくり、その台本を日本からインドに送り、翻訳して音楽をつけてもらいました。音楽はタブラーとシタール、邦楽の太鼓と笛の掛け合いですが、これが不思議とマッチする。台本では、ここはインド音楽、ここは邦楽と決め、インド側がつくった曲に今度は日本の邦楽の人が曲を補っていきました。新作の時は、作曲依頼書のように、ここは3分30秒でこんな踊り、2分半のこういう踊りのための音楽が欲しいなど細かく指定し、それに従って作曲していただいています。踊りは、日本で大方つくっていきました。インドに行ってから合わせたのですが、最初は音楽家の間で不穏な空気も流れたり(笑)、予想外のこともありましたが、最後は上手くまとまりました。

──『信長』もですが、見え方が異なる踊りでも古典的なルーツを尊重すればひとつの作品をつくることができるのがここでも明らかになったわけですね。
 結局、洋の東西を問わず、人間の心の機微は変わらないということだと思います。表現したいものが同じならば、そこに付随する表現の方法が異なっても通じる。テクニックは違っても、メンタルの部分が同じならちゃんと通じるということだと思います。
 ただ、観客が物語を理解していないと、踊りについていくのが難しい部分はあります。ですから、踊りに関わる映像を流したり、字幕も活用しています。ロシアでの『信長』公演、日本での『ラーマーヤナ』凱旋公演では、場面転換の間に字幕であらすじを紹介しました。日本舞踊をお客様に楽しんでいただくために、そうした工夫には可能性を感じています。

──「素踊り」で何役もできるというまるで現代演劇のような特性、扇子を見立てであらゆる小道具にしてしまう変幻自在さ。日本舞踊は非常にコンテンポラリーな可能性に富んだ芸術でありながら、むしろ私たち、現在の日本の観客が、その楽しみ方や見る作法を忘れているように思います。
 お客様には、「想像力を働かせてください。皆様の頭の中で今舞台で行われていることを変換して観てください。そこで初めてこの作品は完成するのです」と申し上げます。日本舞踊の作品は、踊り手だけではなく、お客様の存在によってつくり上げられるのです。
 
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