──ダンスまっしぐらという感じだったのに、どういう心境の変化だったのですか?
ダンスでは将来に不安があって、大学の先生に勧められた教師には向いていないと思ったし。元々映画は好きだったのですが、ある時、情報誌を見ていたら「1年行けばプロフェッショナルになれる」という映像学校の広告が目に入り、それだったら映像でお金を稼いで、ダンスはその次にやればいいやと安易に思い入学しました。
卒業して、紹介してもらったテレビ局の報道部で仕事をするようになったのですが、当時は阪神淡路大震災やオウムの事件など大きな出来事が続いて忙しくてもちろんダンスなんかできない。それはそれで面白かったのですが、ある時、時給換算してみたら120円ぐらいで、こんなことをしていてはいかん!と。報道ではなくてドラマがやりたいとか、ドラマじゃなくて映画がやりたいとか、いろいろな理由をつけて辞める算段をしたのですが、それならとそこに紹介していただき、本当にご迷惑をおかけしました。最後にダンスがやりたいと言って本当に辞めたときには、大丈夫か?と心配されましたね。
それで、神奈川芸術文化財団が97年に発足したASK(Arts Studio of Kanagawa:かながわ舞台芸術工房)に入りました。ASKのメンバーには、ダンスシアタールーデンス主宰の岩淵多喜子さんやダムタイプの平井優子さんなどもいました。当時は、世界の著名なダンスカンパニー、フォーサイスやローザス、ヴッパタール舞踊団などの振付家や日本人ダンサーが講師として招かれていて、ヨーロッパで何が起きているのかを知ることができた。また、作品を創った時に、ローザスの池田扶美代さんに褒めていただいたのがすごく励みになりました。
同時期に、映像学校から実践としてクリエーター科の卒業生で自主映画を製作したら、という話があった。小額の予算で映画を撮るより、私がダンスをやっていたので映像とダンスで構成する舞台がいいんじゃないかというのがきっかけで、ニブロールの活動が始まりました。旗揚げ公演は、1997年に中野あくとれで上演した『パルス』です。オリジナルメンバーは映像学校の同級生でした。今残っているのは、映像の高橋啓祐だけです。みんな舞台経験はなく、3日間の公演なのに初日に作品が間に合わなくてお客さんに帰ってもらったり、途中で舞台を止めてやり直しますと言ったり、本当にメチャクチャでした。
カンパニーの名称は、祖母が“ラ行”を入れるといいよと言うので、みんなでラ行の入った名前を出し合って「ニブロール」に決めました。太宰治や芥川龍之介が愛用していた薬の名前だったのですが、その薬を飲まなくても私たちの舞台を見に来てくれればエキサイトするよ、という感じでいいんじゃないかと。