The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
高山明
高山明
撮影:奥祐司

Artist Interview
*1 『ヘテロトピア・ガーデン』
https://www.onassis.org/enter/heterotopia-garden-akira-takayama
*2 『模型都市東京』
2020年2月8日(土)〜8月23日(日)(新型コロナウイルスの影響で会期延長)
於:建築倉庫ミュージアム(東京)
https://archi-depot.com/exhibition/akira-takayama_portb
*3 『完全避難マニュアル 東京版』
2010年に、フェスティバル/トーキョー(F/T)で発表された作品。
「東京の時間からの避難」をテーマに、大都市東京と個人との新たな関係を仮構するプロジェクト。山手線全29駅の周辺に「避難所」を設置。観客は、まず『完全避難マニュアル』のウェブサイトにアクセスし、そこで指定された駅から、宗教施設、シェアハウス、ホームレスの集落などの「避難所」を訪れ、東京の様々なコミュニティの人々と出逢い、時を過ごす。
東京版:
http://hinan-manual.portb.net/
フランクフルト版:
http://www.evacuation.jp/frankfurt/
*4 『ワーグナー・プロジェクト』
2017年にKAAT神奈川芸術劇場で初演され、2019年にムーゾントゥルム(フランクフルト)で再創作上演された作品。リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に描かれた民衆の歌合戦に着想を得て、ラップ、DJ、サイファー、グラフィティ等のヒップホップ・カルチャーを大胆に導入。劇場の機能や慣習、空間・時間のあり方そのものに対する問いを提示した。
*5
In traditional Japanese gardening, gardens are thought to be an “うつし (Utsushi)” in which the “outside” scenery is compressed. “移 (move)”, “映 (reflect)”, “写 (copy)”, and “感染 (infect)” are all read “うつし(Utsushi)”. How were the various items comprising the garden ”移(moved)” to the house, and from where did they come? What do they ”映(reflect)” and “写(copy)”, and how? The items came to the house from other places, serving as traces of various people, and containing different times. If you pay attention to these aspects, the garden becomes a heterotopia in which various times and spaces are juxtaposed.
Stories will emerge naturally.
*6 『ヘルダーリン・ヘテロトピア』
2020年9月、ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンの生誕250年記念週間に行われるプロジェクト。
https://hoelderlin-heterotopia.portb.net/
『ワーグナー・プロジェクト』横浜版
(2017年10月/KAAT神奈川芸術劇場)
撮影:Naoya Hatakeyama
http://yokohama.wagnerproject.jp/
ワーグナー・プロジェクト横浜

『ワーグナー・プロジェクト』フランクフルト版
(2019年11月〜12月/ムーゾントゥルム)
撮影:Jeannette Petri
http://frankfurt.wagnerproject.jp/
ワーグナー・プロジェクト フランクフルト
*7 『東京ヘテロトピア』
「東京の中の異郷」にフォーカスを当て、宗教施設、モニュメント、難民収容施設跡地、エスニックレストランなど、東京とアジアの歴史や現在に関わる訪問地を、参加者が周遊するプロジェクト。各訪問地では、詩人と小説家が当地に着想を得て書いた物語をラジオで聞くことができる。2013年にフェスティバル/トーキョー13で上演された後、2015年に『東京ヘテロトピア』iPhone版アプリケーション発表。
http://portb.net/App/
*8 『マクドナルド放送大学』
2017年にムーゾントゥルム(フランクフルト)で初演された作品。マクドナルドの店舗を”大学”に見立て、中東やアフリカからヨーロッパに移住した難民を”教授”による15科目の授業を、ラジオを介して聴講する。詳しくは 前回のインタビューを参照。2018、19年に東京でも開催。

東京版:
http://portb.net/mruroppongiartnight/

フランクフルト版:
http://www.mru.global/
マクドナルド放送大学
撮影:蓮沼昌宏

香港版:
http://www.mru.global/hongkong/
Artist Interview
2020.9.14
演劇
An Interview with Akira Takayama Revealing a new “With Corona” Perspective  
With コロナの視点 高山明インタビュー  
街で見聞したことを演劇的な身体感覚として捉え、ツアー・パフォーマンスとして展開し、都市を読み解いてきた高山明。新型コロナウィルス感染症による世界的なパンデミックにより街から人が消え、「人が集まること」がリスクとなったWithコロナを高山はどのように受け止め、どのような思いでSTAY HOMEを踏まえた『ヘテロトピア・ガーデン』を発表したのか? その思索に迫るロングインタビュー。
聞き手:野村政之[演劇制作者、ドラマトゥルク]

──日本では、2月3日にダイヤモンド・プリンセス号が横浜に入港し、大規模な新型コロナウイルス感染症のクラスターとなったことから緊張がいっきに高まりました。3月2日から全国の小中学校が臨時休校となり、3月18日に38カ国から入国する人を対象とした14日間の待機要請を決定。4月7日に「緊急事態宣言」が発出される事態となりました。高山さんは2月は海外に滞在中だったそうですね。
 2月に香港で展覧会をオープンした後、ベルギーのブリュッセル、ドイツのボーフムへと移動しました。その頃、ちょうどイタリアでの感染状況が厳しくなり、ドイツではボーフムのあるノルトライン・ヴェストファーレン州から多くの感染者が出ているということで注意を促されました。フランクフルトに寄って帰ってきたのですが、現地で一度微熱が出て、3月上旬に帰国した後も発熱したため、病院に行きました。
 隔離で看護師さんに質問されたときに、「ドイツに滞在していた」と言うと、「コロナに感染してるかもしれないからすぐにここから出て、保健所に連絡してください」と。それで保健所に電話しましたが、なかなか繋がらない。繋がったら今度は「病院に行ってください」と、たらい回しでした。結局、病院も保健所も診てくれなくて2週間、自宅で待機せざるを得なかった。まあ、大した症状ではなかったのですが‥‥。でも、その間に、ボーフムの演劇祭関係者から感染者が出てしまい、僕は会ってないのに、香港にいた僕から感染したのではという疑いをかけられて、ボーフムで僕と会った人がみんな2週間自主隔離になった。
 ドイツでは香港から来たから、日本ではドイツから来たからと感染を疑われ、みんな疑心暗鬼で、まるで犯罪者扱いでした。その時感じたのが、厄災というのは外から来るものなのだということ。そのイメージは強くて、みんな、自分たちの内には絶対いないと思い込んでいる。すごく疎外感があり、差別されてる感じがして、これは嫌だなと思いました。これまで移民や難民の方たちと仕事をしてきましたが、彼らはこういう立ち位置に置かれているのかと、少し身をもって感じることができたように思いました。

──身をもってコロナ禍を体験されていたんですね。その中で、新たに考えたことなどありますか。
 こうした状況に対して、なんらかのヒントになるのではないかと興味をもったのが、自ら移動して、移動できない民のところを訪れる中世の芸能者、マレビトです。それで、日本の中世の芸能や芸能者について勉強をはじめました。例えば、日本に古くから伝わる「しんとく丸」の伝承を元にした折口信夫の短編小説「身毒丸」では、宿病をもつ田楽師の息子が諸国を遍歴します。そういう「身体に“毒”を持つ」芸能の民の話を、はじめて強いリアリティというか、当事者意識を持って読みました。
 そういう「マレビト」が来た時に、受け入れる側の共同体は、「川の向こうまではよい/家の手前まではよい」など独自のルールを持って受け入れていた。外部とか、異なるものとか、よそ者を、上手く受け入れつつ排除するシステムを共同体ごとに持っていました。
 ロベルト・エスポジトの『近代政治の脱構築』という本に、語源を同じくする「共同体:コミュニティ(commuity)」と「免疫系:イミュニティ(immunity)」の関係が書かれていて、とても面白いと思いました。今回の新型コロナウイルスは免疫系の過剰反応で重篤化するそうですが、それに擬えると、外部とうまくやっていけないと、コミュニティの過剰反応で民族排斥やファシズムのようなことが起こり、自分で自分を殺してしまうことになる。個人の身体も集団的な社会的身体も、全てを統合して一枚岩にしてしまうと免疫系の過剰反応で解体しちゃうわけです。他者・異なるものと触れ合いつつ、折り合いをつけてやっていった方が長持ちする。芸能はそういう折り合いをつけていくための練習の場になっていた。とすると、接触を排除するばかりとか、全てオンラインでとか、過剰反応するのはまずいんじゃないかと思いました。

──高山さんは、5月にオンラインのプロジェクトとして『ヘテロトピア・ガーデン』(*1)を発表されました。そこで「予防接種」という言葉を使われていますが、今の話と関係がありそうですね。
 要するに、すごく弱いウイルスを身体に入れて、1回戦う練習をしておくというのが予防接種です。今、僕らは、家や共同体の内側に閉じこもって接触を減らしていますが、じゃあ、1度絶ってしまった外との関係や、他者、あるいは異物などとどうやって関係を回復していけばいいのか。そういうエクササイズのための作品をつくりたいと思いました。芸能というのは、本当の意味での厄災とは違って悪意のある敵ではない。そういう芸能だからワクチンのような役割を果たせるんじゃないかと思いました。

──『ヘテロトピア・ガーデン』はどのような経緯で生まれたのでしょうか。
 ニューヨークのオナシス・カルチャーセンターから、「家でできる作品を120時間以内に考えて発表してください」という依頼を受け、考えたのが『ヘテロトピア・ガーデン』です。ガーデンと言っていますが本物の庭ではなく、フレームの中に、自分の身の回りにあるオモチャとか、旅の思い出のあるお土産だとかを並べて、庭に見立てるエクササイズです。ポイントは、家にあるものは大概、外から持ち込まれているので、このお土産はギリシャの誰々から貰ったとか、この石はどこそこで拾ったとか、そういう異なるものを並列することです。
 「ヘテロトピア」(日常と連続してる他(異)の場所といったような意味)はフランスの哲学者のミッシェル・フーコーが取り上げた概念で、ヘテロトピアの例がたくさんあげられています。例えば映画館や劇場もあげられていますが、あるフレームの中に異なるものが同時に並べられた世界であることが特徴で、その意味で、実は、庭園の翻訳だということも言っています。庭園とは世界の縮図であり、その庭園をコピーしたのが絨毯で、だから絨毯は「移動する庭園である」と。これはちょっと面白いなと思い、そこからヒントを得て『ヘテロトピア・ガーデン』のエクササイズを考えました。
 部屋でひとり、フレームの中に異なる時間を持ったもの、異なる場所から来たものを並べてもいいし、家の絨毯の写真を撮ってもいい。そういう庭をつくって写真を撮り、その写真に物語を付けて送ってもらう。そうやって物語の中に物の来歴を盛り込んだりすると、それまで自分の身体に同化してしまっていたものが、少し外部化される。「そういえばこれは福島から来たんだな」とか、「ギリシャの友人から貰った」とか。そういう外との回路を思い出し、回復するエクササイズとして、庭をつくること、あるいは物語をつくることを位置づけました。そういうエクササイズをしておくと、少しだけ外の世界を忘れずにすむのではないかと‥‥。
 今のような状況だととにかく家が心地よくなってしまう。家の方が安全だと感じる瞬間は、僕の中にも少しあって、郵便が届くと「ウイルスが付いていたら」と疑心暗鬼になって消毒してしまったり。ドイツから帰国した後に周囲から疎外される経験をしているにも関わらず、自分が家に閉じ籠もると今度は外から来るものを警戒し、疎外するようになる。人間って身体的にそうなるんだと痛感したので、自分の家や部屋をヘテロなものにしていくエクササイズが必要だろうと思いました。
 ドイツ語の「heimlich(ハイムリッヒ)=馴染みのある、身近だ、家庭的」という言葉に、“un-”と否定の接頭語が付くと、「unheimlich(ウンハイムリッヒ)=不気味な、手に負えないような怖いもの」という言葉になります。heimlichになったものをunheimlichなものに転換する作業が必要だと思い、『ヘテロトピア・ガーデン』の他にもいくつかエクササイズをつくっています。

──高山さんはコロナの影響が出る前、今年の2月に『模型都市東京』(*2)という展示を発表されました。この「模型」ということと、箱庭的なヘテロピア・ガーデンには通じるものがあるように思います。
 実は全くの偶然なんです。『模型都市東京』は建築模型の美術館である建築倉庫ミュージアムから、模型を使った展示の企画を依頼されました。それで、都市の中で“模型がオリジナルになっている”ものに注目しました。
 例えば、ネットカフェの“個室”は部屋にしてしまうと風俗営業施設として届出ないといけないし、規制されてしまうので、上部を開けるなどしてギリギリ部屋にならないようつくられている。つまり、「個室の模型」です。そういう模型が街にはあふれていて、コンビニも、トランクルームも、ショッピングモールもそうです。ところが東京では、ユーザーが妙な使い方をして、そういうオリジナリティのない模型を自分にとってのオリジナルなものにしてしまう。こういうふうに模型を上手く使っているユーザーの身振りが、東京という都市のオリジナリティになっているという逆説的なコンセプトを考えました。
 それで『模型都市東京』では、建築倉庫ミュージアムを運営している寺田倉庫株式会社のトランクルームを実寸大の模型として展示室で展開したいと提案しました。実際にトランクルームを使っている利用者にお願いし、展示室のトランクルームに一時的に荷物を移してもらい、来場者に中が見えるように展示しました。展示中も利用者が荷物を取りに来たりする。各トランクルームには利用者のちょっとしたインタビューが聞けるヘッドセットも付けました。フィクションとしてトランクルームに荷物を入れてもらっている人も何人かいます。住居を定めずに移動している人が面白いと思ったので、アドレスホッパーと呼ばれる世界中を飛び回る生き方をしている人、例えば旅ブロガー、自分で小さな小屋をつくりながら移動してモバイルで生活している人、海外によく行くアーティストなどに普段使ってないものを入れてもらいました。

──展示室とトランクルームの中に世界が閉じ込められていて、コロナ禍の社会を映しているような予見的な感じがします。
 そうなんです。何でそうなったのか、何か徴候があったのかといろいろ考えるんですが‥‥。『完全避難マニュアル 東京版』(*3)を発表したのも東日本大震災の3カ月前でした。震災後にこのタイトルを付けることはできなかったと思います。

──「トランクルーム」と「ガーデン」というフレームにも類似性を感じます。色んな来歴のものが集まって並列されていて、それぞれが外部と繋がっている‥‥。
 そうですね。『模型都市東京』では10組が参加していますが、それぞれに“トラベローグ”というブログを書いてもらっていて、そこが外に繋がる窓のひとつになっている。アドレスホッパーのひとりは「今はナイロビにいます」「サンパウロに移動します」と書いたり、トランクルームにコレクターとして集めたスニーカーを50足ぐらい入れているマラソンランナーは世界中のマラソン大会に出たときのことを書いています。小屋をつくってる人は作業の様子をYouTubeで生中継している。展示会場のトランクルームには様々なものが集まっているのだけど、そこからもう1度外に飛び出すという構造は、確かに『ヘテロトピア・ガーデン』とリンクしていますよね。

──今回は、ウイルスそのものの蔓延もさることながら、インターネットで不確定な情報やフェイクニュースが流れ、社会がパニックに陥るインフォデミックによって過剰な反応が起きています。一方、様々な表現分野も、大学の授業も、この数カ月はオンラインで行わざるを得ない状況です。インフォデミックが解決できなのに、現状をオンラインでしか補えないということに苛立ちを感じます。この辺りを高山さんはどう見ているのでしょうか。
 20世紀に入り写真や映画などの「複製芸術」が登場し、演劇のような「アウラ的な芸術」(複製できない、宗教儀礼を起源とするような芸術)に対する「非・アウラ的な芸術」として、複製可能な展示に価値を置く考え方が出てきました。ドイツの思想家であるヴァルター・ベンヤミンが1936年に評論『複製技術時代の芸術』でこの考えを著し、僕もこのことを意識して活動してきました。でも今回の新型コロナウイルスで立ち止まったことで、アウラ的な芸術について改めて考えるようになりました。
 ベンヤミンがいう「アウラ」は、「一緒に呼吸をする」ことと結びついていて、ウイルスによって禁じられてしまったのはまさにこのことです。これからの演劇の課題は、少なくとも僕にとっての課題は、「アウラ」と「呼吸」を結びつけて、この価値を再考することにあるのではないかと思っています。その延長線上で、ひょっとするとインフォデミックのようなものを阻止できるかもしれない‥‥。
 つまり、情報というのは複製され拡がっていくものですが、そこに、「一緒に呼吸をする」とか「一緒に生きる」ということが挟まると、「情報は知っていたけど実際は全然違うな」と思えるようになる。僕はボゴタ(コロンビア)やベイルート(レバノン)の、危険だといわれるエリアにも行きましたが、実際に行ってみると、兵隊は15、6歳の子どもで、アイスキャンディを食べながら警備していたりする。そこで一緒に呼吸して掴めるアウラみたいなものが、自分の頭の中で理解している複製された情報の嘘を暴いてくれるわけです。演劇を、そういう機能をもつものとして模索できないだろうか、と考えています。
 だから、コンテンツに関しても、「本物」が素材になっていたここ15年ぐらいのドキュメンタリー演劇の流れは変わった方がいいかもしれない。あえてフィクションや物語のようなものをぶつけて、「毒をもって毒を制す」じゃないですけど、そういう方が良いんじゃないかと思い始めています。

──ベンヤミンを含め、「アウラ」に対する批判が起きたのは、ナチスに代表されるような動員が第二次世界大戦を引き起こしたことに対する反省からです。この間、演劇も含めて、「非・アウラ」的な方向に物事が行き過ぎてしまった結果、「アウラ」に対する耐性が弱まった人が情報の複製や伝播に過剰に振り回されてしまっているようにも見えます。
 そうですね。何でこうなっちゃったんだろう、みたいな感じはあります。ナチスの党大会は「一緒に生きる」というアウラ的空間をこれ以上ない強度でつくってしまった。会場の広場が暗くなるとサーチライトによる「光の大聖堂」が出現し、ワーグナーのオペラの序曲が流れ、ヒットラーが登場する。それでみんな陶酔してしまう。そういう時代に、ベンヤミンやブレヒトはアウラ的でないものに希望を託した。彼らがそうせざるをえないような時代の要請があった。それが行き過ぎてしまった結果、今では陳腐な情報に簡単に騙されるようになってしまった。中世の芸能とか、アウラとか、物語とか、そういうものにもう一度向き合うことで、「感染によって感染を防ぐ」ような「毒」の扱い方に精通できればと思います。

──高山さんはこれまでの活動の中でいわゆる在留外国人、日本国内にいる外国から来た人と関係を結んできました。コロナの影響で彼らは非常に困難な状況に置かれているのではありませんか。
 クルドの人と連絡はしていて、やはり大変な状況になっています。人は通常、複数の顔・ペルソナを使い分けて生きていますが、あまりにも虐げられ続けるとアイデンティティがひとつで固まる。今、移民・難民の人たちは「難民」というアイデンティティで固まり、そこから抜けられない状況になっていると思います。もう少し平和な状況だと、入管の若い職員と難民の人がちょっと仲良くなるなど、一瞬、お互いの立場を離れた交流が生まれることもあるようなのですが、今はどんどん追い詰められてキツイ状況になっています。
 そういう意味で、ヒップホップの重要さを改めて思いました。『ワーグナー・プロジェクト』(*4)でヒップホップを取り上げ、昨年はフランクフルトでも展開しました。日本ではストリート系やいわゆる不良の若者が引っ張っているイメージですが、ドイツだと移民が主役なんです。移民の子たちが一生懸命ドイツ語を勉強して、ヒップホップシーンを引っ張っている。彼らの母語でもやりますが、両方とも本当に凄いものがある。
 握手の仕方など彼らの身振りは黒人のヒップホップと同じスタイルなんです。それを見て、僕はブレヒトを思い出しました。ご存知のようにヒップホップは、アメリカという輝く帝国の歪みが現れたニューヨークのサウスブロンクスから生まれた芸術です。貧乏で学校に行けない妹のために洋服を買ってあげたいと開いたチャリティのコンサートから始まりました。それを親が公民権運動に加わっていた世代の子どもたちが引き継いだ。そういうヒップホップが他の都市や国でもメッセージを伝えるのに引用可能なスタイルとして広まったのではないか。最も差別されてきた黒人の身振りを引用することで移民や難民が関係を結び、都市や国の中でヒップホップというレイヤーをつくることができるーーこれはものすごい発明だなと思いました。
 ヒップホップは総合芸術なので、ダンスもあるし、DJもあるし、グラフィティもある。言葉ができなくても表現できるんです。それは全てオリジナルである必要はなく、言ってみれば複製です。ラジカセ1つでやれて、有り物を組み合わせることで新しい音楽をつくっていくとか、引用可能性がすごく高い。実はそこがヒップホップの重要な可能性だったんだと、フランクフルトで気付きました。

──『ヘテロトピア・ガーデン』のコンセプト文に日本文化の「うつし」(*5)についての考察が記されています。「うつし」もある種の引用と考えられます。
 まさにそうです。富士山の代わりにその形に似せた「富士塚」を築いたり、旅行に行くのが大変な時代には「道中双六」といって東海道五十三次の絵を描いた1枚のボードゲームをつくっています。また、「犬のお伊勢参り」では、犬に代役を頼んでお伊勢参りに行ってもらう。江戸時代までの人たちのああいう発想をもっと学びたいと思います。そう思うと、芸能とか演劇は移動できない人たちのための「うつす」手段のひとつなのではないかと。そこは重要だと思います。
 一方、コロナで「うつす」ということが恐怖にもなってしまった。“憑依”とか“感染”は「うつす」の大きな要素だと思いますが、その「うつす」と、別の「うつす」行為…「引用」や「代用」をどう重ねていけばいいのか。そこも僕らが今後背負っていかなければならない課題なのではないかと思っています。

──フランクフルトではこの9月に『ヘルダーリン・ヘテロトピア』(*6)も行われる予定になっています。1人でバート・ホンブルクからフランクフルトまで、音声を聞きながら22キロの長い道のりを歩くプロジェクトです。予定通り実現できそうですか。
 すごい田舎で接触もしないし、できます。22キロはキツいのですが、2日に分けてやれば何とかなると思います。

──このプランを練ったのはいつ頃ですか。これもちょっと予兆的なプロジェクトですよね。
 ちょうど1年ぐらい前です。僕はこれまで「私たち」という集団とは何かといったことを問題にしてきたので、例えば人を動員してそこで何かを強制的に見せるようなことは10数年やっていません。マイノリティの人たちの声を拾うとか、聞かれてなかった声に耳を澄ませる環境をつくるとか、それはコロナとあまり関係なくできるので、それほど影響を受けてない。以前からやってきたそういうプロジェクトが、人が集まるということが行き詰まる中で予兆的に見えるということはあるかもしれません。逆に言えば、例えば難民申請をしても通らない「難民」の人たちは最初から集まりから排除されている。「私たち」のなかに入ることを許されなかったのだから、集まることの行き詰まりは、彼らにとっては今に始まったことではないんです。

──ちなみに新型コロナウイルスの影響で中止になったプロジェクトはありますか。
 ありますね。アートバーゼル香港がキャンセルされ、招聘されていたクンステン・フェスティバル・デザールとルール・トリエンナーレも中止になりました。香港の大館美術館のグループ展も一度開きましたがまた閉じた状態に戻っています。大分で予定していた『ワーグナー・プロジェクト』や『東京ビエンナーレ』も延期になりました。

──移動や集まることにリスクがあるため、国際芸術祭は軒並み中止・延期になっています。近年は相互理解を深める意味で各国のアーティストが参加する滞在型国際共同制作が盛んになりましたが、その実施も困難になっていいます。こうした国際芸術祭に対する見解をお聞かせください。
 国際芸術祭よりもむしろ劇場の方が厳しいと感じてます。座席数を減らして間隔を開けて観劇するスタイルで徐々に再開されていますが、それでいいのかなと。答えはありませんが、せっかくだから何か別のことを考えるチャンスと捉えた方がいいと思います。
 僕が興味をもってやってきたのは、街中に「客席」をどういうふうにインストールし、都市の中で「観客」をどう振り付けるかとうこと。その僕がやってきたことを劇場で試みたのが、KAAT神奈川芸術劇場で行った『ワーグナー・プロジェクト』です。劇場ではハードやコンテンツと同時に、運営ルールによって観客の振る舞い(料金、飲食の可否、出入りの自由、Wi-Fi環境など)が大きな影響を受けます。そういう劇場のルールに影響を受けない、ルールの外側にいる観客をインストールしたかった。
 昨年、フランクフルトのムーゾントゥルムでも『ワーグナー・プロジェクト』を展開しましたが、芸術監督のマティアス・ペースがよく理解してくれて、回遊式の庭園のような空間、料金、ソフト面でのアーキテクチャーまで、ほぼ望んだようにできました。でもそうすると、劇場のお客さんも演劇のお客さんも、ここまで来ないのかというぐらい来なかった(笑)。その代わり、フランクフルトのヒップホップの人たちがたくさん来てくれました。「劇場」じゃなくて、「ヒップホップの人たちの集う場」になっちゃった。それをきっかけに、コロナ前まで、ムーゾントゥルムでヒップホップのダンスバトルやラッパーのコンサートも行われるようになったみたいです。

──古代ギリシアの劇場も「市民」かどうかによって選別され、そこに入れる人と入れない人がいたように、劇場は動員の装置であると同時に排除の装置でもあると高山さんは指摘されています。
 動員と排除というのは表裏一体なので、「今回はこういうコミュニティをつくる」と割り切れば料金体系も宣伝の仕方なども全て変わってくる。『ワーグナー・プロジェクト』のような形は一時的で極端な仮設コミュニティに過ぎませんが、動員と排除のシステムで成り立つ劇場にはこうしたコミュニティをつくる力がある。それは即ち排除する人たちを決めてしまうということです。例えば、バイロイトの祝祭劇場にラッパーは行けない。それをみんな無意識にやっていますが、そういう無意識にやる、自覚しないでやるのは良くないと思っています。極端な話、意識的に、難民の人だけが来る仕組みにしてもいいわけです。そのために料金体系から何から全て変えてしまう。そういう形で空間的なことだけじゃなくてシステム的なアーキテクチャーも変えると、来る人は全く変わる。僕は逆にそこが劇場の可能性なのではないかと考えてます。

──ソーシャルディスタンスもそうですが、「ニューノーマル」による身体感覚の変容は今後の創作の在り方にも影響するように思います。高山さんはどう捉えていますか。
 人間の身体は脳より賢いところがありますので、新しい秩序のようなものを何か見つけていくのではないでしょうか。そうした時に、むしろ秩序を攪乱するような動きを演劇はやってきたところがありますし、そちらのほうが得意なんだと思います。近代演劇には、ナチスの党大会のように、強度のある秩序を身体にインストールする性格もありますが、その反省から、よほど無自覚でない限り、つくり手はそこを注意してつくってきたと思います。ただ、再び規律を注入するような場として劇場が機能してしまう可能性も否定できません。ひょっとしたら、ファシズム的なものをより受け入れやすい身体に今の僕らはなっているのかもしれないと思うと、怖いですね。

──舞台芸術をやっている人は身体や空間に対する感受性が敏感です。新しい秩序に順応もしやすいし、反発もするけど、今はまだすごく中途半端な感じです。
 新しい身体感覚の獲得には時間がかかるだろうと思います。その点で興味があるのは、建築、あるいは都市計画のようにゆっくりと人の身体感覚を変えていくものです。今度、東京メトロとコラボレーションするのですが、そこでは都市のインフラをアーキテクチャーに見立てて、生活の中の機能になるような演劇をつくっていきたいと思っています。

──どんな内容ですか。
 『東京ヘテロトピア』(*7)を東京メトロと一緒にやります。ちょっとした空き時間にメトロに乗り、僕らが“ヘテロトピア”と名付けた駅近くのスポットにもし行ったら、そこであり得たかも知れない物語をスマホで聞くことができる。そうすると劇的ではなくなり、演劇性は当然下がります。メトロと同じような都市の機能のようになりますが、でもそれが良いかなと。僕の演劇は、求心的なものよりも、少し建築的な方向で時間をかけて生活者の身体感覚を変えていくようなものに近づいていくと思います。

──今回のコロナによって都市の景色は変わりますか。
 みんな戻したくてしょうがないのですから表面上は元に戻ると思います。でも、コロナは凄くて、都市の景色とか経済とか政治とかの流れをここまで中断しちゃった。アルトーは「ペストが演劇だ」と言いましたが、これがそういうことなんだと、今回は思い知りました。

──今後考えているプロジェクトは他にありますか。
 『マクドナルド放送大学』(*8)を、実店舗でやる方向に少しずつシフトしていきます。ここでも、都市の機能としての演劇という方向を目指すということです。
 僕の取り組みはとかく“劇場から街へ”とか“劇場対都市”と捉えられがちですが、そうではなくて、「客席(観客)が都市に浸食する」「客席(観客)が拡張する」と捉えてえいただければと思います。客席はコミュニティの生成される場であり、それを都市に広げた時に、モバイルなものとしてどういう小さなコミュニティをつくれるのか、と考えいます。そういう意味で、今、興味があるのはコンビニです。5年ぐらい前から、コンビニで働く移民が増え、そうした人たちとやりとりする練習場のようになっています。演劇で新たなオリジナリティを追求するより、既にあるけど気付かなかったことを再発見する場、コンビニのような練習する場として演劇を捉えていきたいと思っています。
 コロナの中断によって否応なく人や物との関係が変わりました。それを「元に戻す、元の方が良いんだ」みたいな考えを一度解いて、異物と思われていたものとの関係を、再構築する、模索する良いチャンスなんじゃないかと。ウイルスの蔓延に学ぶために、例えば自然哲学のような領域から考え直してみるとか。経済優先の判断ではなく、もう少し遅いもの、ルーズなもの、躊躇、戸惑いなど、これまでの社会生活においては良くないものとされていたものにもう一度目を向け、耳を澄ますような姿勢を回復できたらいいなと思います。

──今日はZoomでのインタビューになりましたが、長時間にわたり大変内容の濃い話を聞かせていただいき、ありがとうございました。
 
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