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Performing Arts Network Japan
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康本雅子
康本雅子(やすもと・まさこ)
http://yasumotomasako.net/
康本雅子ダンス公演『全自動煩脳ずいずい図』
(2020年11月5日〜8日/シアタートラム)
全自動煩脳ずいずい図
全自動煩脳ずいずい図
Photo: bozzo
全自動煩脳ずいずい図
*1979年生まれ。ドアーズ、レジデンツ、パズルパンクス(山塚EYE、大竹伸朗)などの影響を受けた、多重録音のカセット・アルバム『?』で99年に活動開始。ダンスホールレゲエの影響を受け、コンピューターベースの打ち込みに非言語による歌を載せるスタイルに。ソロのほか、ウリチパン郡などのプロジェクト、アーティストへのリミックス提供、康本雅子とのコラボレーションなど幅広く活動。
Artist Interview
2021.2.16
ダンス
Masako Yasumoto’s World of Dance  Realms that can only be reached through dance  
踊りでしか辿り着けない境地 康本雅子のダンスワールド  
東南アジアやアフリカなどを放浪して身につけた独特な身体性と動きで、自分の作品はもちろん、エンタテインメント方面でも活躍している康本雅子。2009年の出産後、12年に九州へ移住。12年に上演した『絶交わる子、ポン』以降は子育てを優先し、一線から遠ざかっていた。17年、その経験をモチーフにしたデュオ作品『子ら子ら』により復帰。20年にはコロナ禍にあって8人のダンサーがガムラン音楽に乗せて踊りまくる『全自動煩脳ずいずい図』を発表。踊りでしか辿り着けないという境地についてインタビューした。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

ガムランと腰の動きに煩悩を乗せる

──『全自動煩脳ずいずい図』は、久しぶりの本公演でした。2020年2月に京都ロームシアターで初演、その後コロナ禍が本格化した中で作り直し、11月に世田谷パブリック・シアターで再演しました。舞台は畳敷きで、8人のダンサーは個々に強く、しかも時に密集してひとつの肉塊のように蠢く身体性が観る者に迫ってきました。赤子と母親がドタバタを繰り広げる冒頭のシーンにはじまり、ダンサーの小倉笑さんがガムランに乗せてオペラ歌手のように唐突に歌う。特にインドネシアのガムランに合わせてダンサー全員がひたすら腰を振りまくるシーンは強烈でした。性的なイメージを含む動きを正面からたたきつけ、長い時間、しかも何度も繰り返される。あの作品をつくったきっかけはどのようなものだったのでしょう。

 私は創作の最初に情景が絵で頭に浮かぶことが多いんです。今回、ある程度人数がいる群舞を作りたいと思ったとき「ガムランで腰を振っている画」がバッと浮かんできた。身体全体の「痙攣」じゃなくて純粋な「腰振り」だけを、しつこくリピートしたかった。最後の方はダンサー達も「もうムリ」という状態になり、「ウワーッ」っと声が出るほど殺気がこもってくる。でも、ここでみんなが踏ん張って行かないとこの作品は成り立たないと、最初の段階で徹底的に伝えました。初演は1時間50分ありましたが、再演では最初の30分を全部カットして作り変えました。

──タイトルに「煩脳」とあるのは、様々な煩悩をあの腰振りで象徴している、あの腰振りに乗せているということですか。
 欲望には性欲だけじゃなくて、色々なものがあります。普通にお金が欲しいとか、美味しいものを食べたいとか。そういう俗っぽい普遍的な自分の欲望についてもっと突っ込んでいきたかった。私には、性欲でさえ「人間の機能として、身体によって“持たされているもの”」ではないかという感覚がずっとあります。その上、その性欲をかき立てるようなコンテンツが世の中には溢れていて、見たくもないのに視界に入ってくる。そうやって常に刺激され続けることで、自分の欲望のように思い込まされているだけなんじゃないかと。
 結婚したい、お金がほしいというのも、それが必要だと思い込まされている。思い込むように、社会全体が大きな流れをつくっている。そういう欲望の全部が悪いわけではないですが、決して自分のピュアな欲望ではないと思います。ワークショップで子どもたちに将来の夢を聞くと、「お金持ちになりたい」「社長になりたい」という返事が返ってきてギョッとすることがあります。理由を聞くと「ゲームを買いたいから」と言う。それは本当にあなた自身の欲望なの? と思ってしまいます。『全自動煩脳ずいずい図』ではそういう欲望について感じていることを俯瞰したかった。だから、あの腰振りも決して性的なことだけを意味しているわけではありません。初演のときにダンサーから「各個人の煩悩は見せないんですか?」と質問されましたが、そういうことには全く興味がありません。

──結婚しなきゃとか、子どもをつくらなきゃという、本来自分が選び取るべきことなのに、社会から「普通」だと押しつけられる。そこに疑問をもつことは大切なことですが、性欲もその類のことなのでしょうか。原始時代でも、どんな文化、文明のところで育っても性衝動はあると思いますし、それすら「持たされたもの」とするなら、そもそもピュアな煩悩や欲望というのはあり得るのでしょうか。たとえば大好きなフィギュアが欲しいという人は資本主義の物欲に囚われているのかもしれませんが、「この好きな気持ちはピュアだ」と言ったら否定できませんよね。
 それはその通りです。でも、私はヒネクレているから(笑)、いったんは斜に構えて見てしまう。たしかにどこまでが自分のピュアな欲望なのか?を見極めるのは難しい。今の時代は性欲が起きない人も恋愛感情を持たない人もいて、それが多様性としてある程度は認知されるようになっていて、それは本当に良いことだと思います。でも私が若い頃は、マイノリティな人々に対しては差別的な言葉しかなかったわけです。私自身も自分は女だと信じて疑わなかったけど、今の時代に生まれていたらどうなったかわかりません。
じゃあ、私にとってピュアな欲望は何かと自問すると、綺麗にまとめるつもりはないけど、やはり踊りだと思います。お金のためにやっているわけじゃないし、踊っているときに「これが欲しくてずっとやっているんだ!」という一瞬がありますから。

──とすると、タイトルの「全自動煩脳」というのは、「自動的に自分のものだと思い込まされている煩悩」ということですか。
 そういう意味を込めています。良い悪いじゃなくて、そういうのってあるよね、という意味で付けました。

──では、「ずいずい図」とは?
 何でしょう(笑)。タイトルを付けるときに、つい読みたくなるオノマトペを入れてしまう癖があるんですよね。最後に「図」を付けたのは、絵巻物の感じを出したかったから。奥行きがなく、色々な人が色々なことをしているのを、視線を行ったり来たりさせながら観る。それでチラシもちょっと春画っぽい絵にして、「むかしむかし家の前でよくぼうを拾った‥‥」という文章も自分で考えました。舞台が絵巻物っぽい畳敷きになりましたが、やってみてわかったのは素晴らしく踊りやすいということ。私は膝が弱いので、ニーパッド無しで膝をつける畳は天国でした。もうリノリウム(ダンス用のマット)では踊れないかも(笑)。 


スタッフワーク

──制作はどのように進んだのですか。

 2月の京都公演に向けて、7月に豊橋でのレジデンスが決まっていたので、ダンサーを8名募集しました。私が自分の作品で振り付けできる上限がそのぐらいだと思っているので。応募の半分は東京など京都以外の人で、オーディションのためだけに交通費も自腹で負担してきてくれた。その後、京都でのクリエイション期間が2カ月弱ありましたが、宿泊費は出ますが生活費までは出せない。東京から参加した女性ダンサー2人は、すぐにバイト先を見つけてきて、たくましかったです。

──音楽は即興的でエレクトロニックとワールドミュージックを兼ね備えたオオルタイチ(*)、衣裳は作・演出・衣裳を一体のものとして捉える舞台創作集団「お寿司」を主催する南野詩恵、美術はパフォーマーでもある松本成弘と、京都勢ですね。
 ダンサーも合田有紀、辻本佳、小倉笑と、京都を拠点にしているダンサーたちです。京都には「UrBANGUILD」という有名なライブハウスがあり、ダンサーはそこが開催している「FOuR DANCERS」というイベントによく出演しています。

──オオルタイチとは『絶交わる子、ポンッ』(2012年初演)をはじめ、協働が多いですね。
 タイチ君はセンスの良さとバランス感覚の絶妙さが素晴らしいのに加え、私がほしいと思っているものを瞬時に理解してくれるので、とてもやりやすい。今回はガムランがメインだったので、彼には「音楽編曲」という肩書きで参加してもらいました。オリジナルは1曲だけで、編曲を2〜3曲お願いしました。「ガムランがもつ民族音楽の重さをちょっと壊して安っぽくしてほしい」とお願いしました。ガムランに誰かのセリフを被せたり、少し前のシーンをフィードバックさせたり、すごく細かいことをいろいろやってもらっています。

──小倉さんは、前作『子ら子ら』(2017年初演)に続いての出演です。今回はガムランに乗せて言葉になっていない歌を歌い、強烈な存在感でした。
 今回ガムランで歌ってもらったのは本当に良かったと思っています。京都のあるイベントでたまたま彼女を見かけて、「肝が据わってる、舞台に立つべき人だ」と思いました。合唱団にいたことがあるのでとにかく声量があって、表現力もすごい。『子ら子ら』は私とのデュオ作品ですが、彼女なら私を食ってくれるだろうと思って出演を依頼しました。


『子ら子ら』

──『子ら子ら』は康本さんの子育ての濃厚なエピソードが、かなり赤裸々に描かれた作品です。小倉さんは背も小さく、康本さんと絡んでいると親子のようにも見える。だけどやっぱり大人なので不気味な存在感を発揮して立場が逆転する瞬間もあり……とスリリングでした。

 そうですね。彼女は、母親として私の中にある怪物性の象徴ともいえます。

──取っ組み合いのシーンもあり、康本さんの表情には子どもに対する愛情と同時に、フッと殺意がよぎるような瞬間もあって、母親のリアルさが伝わりました。
 よぎりますね(笑)。子育て中はぜんぶ放り出したくなる瞬間がありますし、その直後にガーッと罪悪感に苛まれるとか、感情の振れ幅がすごい。かなり赤裸々に表現しましたが、当の子どもは観て笑っていました。

──お子さんが生まれたのはいつですか。
 ひとり目が2009年、ふたり目が2013年です。上の子を産んだときが35歳で、たまたまだったけどいいタイミングでした。ふたり目もちょうど東京を離れようとしていた時期でした。とはいえ、当時は自分の家族をテーマに作品をつくるなんて考えも及びませんでした。でも上の子が成長して手を離れるようになると、あの密だった子育ての一番大変な時を忘れてしまうのではないか、今じゃないとつくれないと思いました。子育てを知らない人がどう受け止めたか、どれだけ楽しめたかわからないですけど。

──子どもが寝ている間に淡々と自慰をし、いよいよという時に子どもが泣き出して「はいはい」と子ども部屋に行くシーンとかもあり、表現者として実に腹が据わっていたと思います。
 結構クールにやったつもりで、お母さん方は受け止めていましたが、男性客はドン引きでした(笑)。でもタブーになっている母親の性的欲望やネガティブな感情、そして「綺麗ごとじゃないんだよ」っていう部分を開いていくのも舞台で作品をつくる役割のひとつだと思うので。「よく言ってくれた」っていう人もいましたし。

──「舞台において性的なことを描くべきではない、ましてや女性がするべきではない」という、女性を男性の庇護下に置こうとする悪しき常識はまだまだ根強いですからね。ショックを受けた男性客は、いい勉強になったことでしょう。子育ての経験は、作品づくりに役立っていますか。
 役立つかという観点では決して測れないけど、赤ん坊という、あの小さくて柔らかい生き物と動物的にじゃれ合う経験が動きづくりの発端になることはありました。当たり前のことですが、子育てに限らず人生で経験するあらゆることが、よくも悪くも作品に確実に影響を与えています。


『絶交わる子』から子育てで5年間の休止へ

──『絶交わる子』から『子ら子ら』まで5年間のブランクがあります。この間に二人目の子どもを出産し、東京→福岡→京都へと拠点を移しています。『絶交わる子』は東日本大震災の翌年に発表したもので、「放射能が怖いんだ!」という母親として魂の叫びがありました。

 『絶交わる子』のときは、結婚してひとり目が生まれて、とにかく放射能から、東京から逃げたくてしょうがなかった時期です。福岡に移った後も、下の子が生後6カ月ぐらいで難病があるとわかり、2歳ぐらいまで癲癇(てんかん)の発作がたびたび起きていた。目を離せなくて、寝ることもできず、人にも預けられない。夫は仕事で出張が多く、ほとんどワンオペで、精神的にも肉体的にもしんどかった。そんな時、周りのお母さんたちに本当に助けられました。福岡には「子どもは街中に居て当然、多少うるさくてもいちいち目くじら立てない」というような包容力があったので子育てしやすかった。
 お母さん達も「子育てしなきゃ…」という切羽詰まった感じではなく、生活の一部として自然に子育てを楽しんでいる人が凄く多かった。そういうことを知ることができて本当に良かったと思います。東京で暮らすというのは、保育園に子どもを預けてバリバリ仕事をするイメージでしたから。東京にいたらきっと仕事から離れられなかったと思いますが、福岡では付き合いで知り合いの舞台を観に行く必要もない。ママ友は完全に「私の仕事に関係ない人」で、そういう人たちと純粋に時間を共有するなんて初めての経験でとても新鮮でした。たまに北九州芸術劇場からダンスの仕事を依頼されることはありましたが、当時は作品を作るなんて全く考えられない状況でした。
 
──福岡にはどれくらい住んでいたのですか。
 2年半です。その後、仕事の利便性や、もともと夫が京都に住むことを希望していたので、上の子どもが小学校に上がるタイミングで移住しました。住居を決める前に子どもを二人連れて京都に行ったのですが、ちょうど「京都の暑い夏(正式名称「京都国際ダンスワークショップフェスティバル」)」の真っ最中で、顔見知りのダンサーとも顔を合わせました。あの時の、みじめな気持ちといったらなかったですが‥‥。
 
──みじめ、というのは?
 私は子育てでくたびれていて、大きな荷物とベビーカーで子ども連れ。周りはみんな生き生きとして、ダンサーとして輝いている。自分が全く場違いな所に来た感じがしました。子どもを持ったことは紛れもない幸せだけれど、こんなにボロボロに疲れた自分はもうダンサーに戻れないのではないかと、打ちひしがれた気分でもありました。

──子育て中はダンスのトレーニングはしてなかったのですか。
 時間もないし、そもそも気持ちがそこに向かなかったですね。でも「みじめ」に感じたというのは、羨ましいと思ったということです。私はまだダンスに未練があるんだなと気付かされました。京都でダンス公演を目にする機会も増え、また踊りたいなと思いはじめた頃に、運良く薬が効いて、下の子の症状が劇的に良くなったんです。でもまだ本格的に作品をつくることは尻込みしていました。そんな折、2017年に松尾スズキさんから『業音』の再演で振付と出演を打診されました。

──康本さんは松尾さんが主宰する劇団・大人計画の振付に携わっていたことがあり、特に『業音』は、康本さんもずっと出ずっぱりで出演する作品です。
 はい。それで最初は振付だけならと返事をしたら、ダブルキャストでもいいから出演してほしいと。『業音』には私も思い入れがあったので、やりたかった。一方で、引き受けるには今の自分では不十分なのではないかという気持ちもありました。なぜなら作品を作るということに関しては長い間ブランクがあったので。何もつくっていない自分が、ちょっと行って振り付けだけするというのは違うんじゃないかと思いました。おこがましいですが、「つくる」ということに関しては、松尾さんと同じ土俵にいたかった。自分も何かつくらなきゃダメだと思いました。

──それで『子ら子ら』をつくったわけですね。デュオ作品とはいえ、久しぶりのクリエイションはいかがでしたか。
 大変でした。自分の作品をつくるときは24時間ずっとそのことを考えっぱなしですから。家事が手につかない。少なくとも私に両立は無理でした。上の子は何となく理解してくれていたようですが、「ママは僕の話をぜんぜん聞いてないね」と何度言われたかしれません。なので、本番には必ず子どもに来てもらっています。このために私は時間をかけていたんだと、知ってもらいたいので。「つまんないかもしれないけど、とにかく観なさい」って。子どもにしたらいい迷惑でしょうけど(笑)。


性教育ワークショップ「マジな性教育マジか」

──2019年から、親と子どもを対象にした性教育ワークショップ「マジな性教育マジか」をやってらっしゃいます。ダンサーは身体のプロですから、なるほどと思いました。今までそういう発想をするダンサーはいませんでした。

 今は大人気のワークショップになっていますが、最初は「とんでもないことを教えられるんじゃないか」と警戒されました(笑)。でも実際にやっている内容は、自分の身体について知ること、人に触れるとはどういうことかを考えることなど、性教育の前段階として知っておくべきものです。誰かに身体を触られて、嫌なら嫌だと言っていいとか。これは私自身が、普段からコンタクト・インプロビゼーション(身体の一部を接触させたまま動くダンスのトレーニング法)が苦手なことにも関連しています。私は、例えば初めて会った人に触れるときに、触れる前に本当に触りたいか触りたくないかを判断するのは自然のことだと思っているからです。ダンサーって他人の身体に対する抵抗感がない人が多いので、私のように気にする人はあまりいませんが。

──具体的にはどのように進めるのですか。
 まず、自分の身体を再発見するワークをします。例えば、嫌いだなと思っているところも見方によってはそうでもない可能性もあるし、ひとつの身体的事象に対していろいろな見方があるよねと。それから子どもたち同士でディスカッションする時間も大事にしています。「家族って何だろう? 血が繋がっている人? 一緒に住んでいる人? じゃあ養子は? すごく遠い祖先を家族と思える? どこまでだったら自分の家族と思える?」とか。あるいは「男の子らしさ・女の子らしさって何だろう?」ということもサラッとですが話してもらいます。ジェンダー問題は子どものうちにこそ意識すべきことだと思うので。それから、「触れる・触れられる」のワークでは実際に触れられてどんな気持ちがするかを相手に伝えたり、触れ方にも実はいろいろあって、必ずしも自分の態度と相手の受け取り方が一致しないこともあるというのを感覚的に体験してもらいます。

──海外では劇場では「エンゲージメント」つまり関係性をつくることが重視されていて、プロのダンサーが一般の人々を対象に様々なワークショップを行なっています。コロナ禍では、たとえば親が働いてほとんど家にひとりでいる子どもたちは、他の人と喋る機会が減り、人の肌に触れることも少ないという状況があります。
 本当にこれから子どもたちの皮膚感覚がどうなってしまうのか心配です。日本語で「肌が合う・合わない」というのは本当によく言ったもので、そこを身体でわかっていないと人生のいろんな場面で選択を誤るのではないかと、私は本当に思っています。もちろんコロナ禍なので安全な方法を講じますが、基本的に身体を動かすワークショップでは、皮膚で感じ取ることの大切さを教えています。そういう回路を子どものうちにつくってあげることが本当に必要です。

──このワークショップには普段は武道の訓練をしている美術家も講師として参加されていますね。感心したのが、「子どもが危険な目に遭ったときの訓練」です。
 親は子どもに「何かあったら大きな声を出しなさい」と言いますが、人間は危険に直面すると反射的に息を吸ってしまうので、とっさに声は出ません。普段から叫ぶことをやっていないのに、いきなり声を出せと言われても無理。そこで実際に大声を上げるということも、回路をつくっておくためにやります。そうして身体で知ることの重要性を徐々に理解してもらっています。ただ、最終的には「あとはご家庭でやってください」ということ。子どもが興味を持った時が教え時だし、男の子と女の子では教え方も違ってくるので、その子どものことを一番知っている親なり保護者が、それぞれの言葉で伝えたいことを伝えればいいのではないかと思っています。


世界を放浪して自分のダンスと出会う

──そもそも康本さんはどのようにしてダンスと出会ったのですか。背景を聞かせてください。

 跡見学園の中高でダンス部だったのがはじまりです。同級生には大岩淑子(バレエ・プレルジョカージュなど世界で活躍するダンサー)や、岡本真理子など、すごいメンバーがいました。彼女たちは学生時代からどんどん作品を発表していましたが、私自身はとてもプロになれるとは思えず、お遊び感覚でした。1990年代はダンスの来日公演が多く、アメリカのデヴィッド・パーソンズやMOMIX、フランスのアンジェラン・プレルジョカージュやフィリップ・ジャンティ、ベルギーのローザスといったカンパニーをいろいろと観ていました。その後、東京造形大学のデザイン学科に進みましたが、あまり興味が持てませんでした。それで漠然とダンスをやろうかとパパ・タラフマラの研修生になりました。

──小池博史が主宰するパパ・タラフマラ(1982年〜2012年)は、当時ダンスにも力を入れていました。
 ずっとパパ・タラフマラでやっていくイメージが持てなくて結局、辞めました。途中、20歳ぐらいの時には、美意識などはともかく身体の動かし方が面白くてバレエにハマったこともありました。辞めてから、バックパッカーでフィリピンやインドネシアといった南の島を巡り、1日中素潜りばかりしてた(笑)。その後、オーストラリアのブリスベンという町で出会ったジャマイカ人ダンサーのグループに入れてもらいました。彼らは西アフリカのジャンベ・ダンス(太鼓のジャンベで踊るダンス)のワークショップを行うためにオーストラリア中を回っていたのですが、そこで知ったジャンベ・ダンスに魅了されたんです。「アフリカン・ダンスの本場を見たい」という思いが募り、一度帰国してお金を貯めて、23歳のときにアフリカのセネガルに行きました。
 実はジャンベ・ダンスの起源はマリで、セネガルはサバールという太鼓で踊るダンスの方が本場だった。そのぐらい何も知らないまま行ったのですが、サバールも面白いダンスでハマりました。ただ、早くて複雑で難しいダンスなので習得できたとはいえませんが、気がつくと4ヶ月ぐらいアフリカにいましたね。

──その後はどうしたのですか?
 先述の大岩さんがNYにいたので会いに行き、一緒にストリートで踊ったりしていました。当時はいろいろ寛大で、いきなりアートスクールに行って、「絵画モデルのバイトをやりたい」と頼むと「じゃあ水曜日にこられる?」という感じで。お金を稼ぎながら滞在し、このままNYで暮らせそうな気がしたので一度日本に戻って学生ビザを取得してもう一度渡米しようと。それで帰国したら、その頃からビザの審査がいろいろ厳しくなって。あ〜幕が下りたんだな、旅は終わりなんだな、東京でやれということなんだなと。とはいえ生活しなければならないので、昼夜違うレストランでウエイトレスの掛け持ちをするなど無茶苦茶に働きました。

──アフリカまで行くほど引きつけられたダンスを東京で教えようとは思わなかったのですか。
 思いませんでした。あれはあくまでダンスが生活に根差しているアフリカでやっていたからこそ意味があったというか。それを、正式な教育を受けているわけでもない私がただ形だけ東京で再現することには、身体的なギャップを感じました。

──しかし過去数年間、最も打ち込んだものを捨てるのは結構辛いのではないですか。
 そうですね‥‥。24歳でバイト暮らし。仕事にできるほどのスキルは何もない。全く自信はなかったけど、他のことはもっと無理だという消去法にも似た感じで。かろうじてできることがあるとするならダンスしかないのではないかという‥‥。それでも幸運だったのは振付家のパパイヤ鈴木さんの事務所に入れたことでした。サザンオールスターズのコンサートのツアーダンサーをやっていたのですが、これはダンサーとして貴重な経験になりました。大人計画に参加したのはそれから少し後で、最初はオーディションを受けてアンサンブルで入り、その後、振り付けをするようになりました。

──僕が初めて康本さんを見たのはちょうどその頃、2004年でした。セッションハウスが若手発掘のために行っているノンセレクションの誰でも踊れるダンス企画でした。大抵のダンサーは習ってきたダンスの系譜が見えるのですが、康本さんは誰にも似ていない独特な動きで驚かされました。話を聞いてもアフリカとかサザンとか大人計画とか、コンテンポラリーダンスのダンサーの経歴とも思えず、謎は深まるばかりでした(笑)。
 格好良く綺麗に見せる商業ベースの仕事も好きだけど、もっと自由につくりたい」という欲が出てきた頃でしたね。最初につくった『ルーシーの食卓』はソロのシンプルな作品でしたが、自分が踊りたい気持ちばかりが先走って、作品としては弱かったと思います。その頃は、伊藤昇さんが考案された身体トレーニングにも熱中していました。筋肉で動かすのではなく、胴体を捻るとか伸ばすとかの胴体力で動かすというのが新鮮で、このトレーニングは今でも役に立っています。
 並行して即興にも熱中しました。場所を借りて、「とにかくこのCDで1時間踊る」と決めて、ぶっ続けで即興で踊り続けました。使っていた音楽は、映画のサントラもあれば、J-POP、ピアノ曲、美空ひばりまでバラバラ。べつにダンスの訓練としてやっていたわけではなく、とにかく踊りたかったんです。いくらでも踊っていられましたね。

──セッションハウスで僕が見たのは『脱心講座〜昆虫編』でしたが、そういえばこの作品の中では昆虫の交尾の写真が何枚も投影されていました。煩悩はこの頃からあった(笑)。
 そればっかりやってるかも(笑)。我ながらネタがよく尽きないなと思います。『脱心講座』の上演が決まった後に、私がどうしても本番に出られない用事ができてしまいました。それで、「ビデオ講座の中の登場人物」という設定に変更し、相手役の遠田誠さんが舞台上でビデオをかぶりつきで見て、最終的に半裸で踊り出すという構造にしました。後に横浜で上演したときは、私が実際に出てきて三浦宏之さん(横浜ダンスコレクション旧バニョレ国際振付賞にてナショナル協議員賞を受賞)と踊りました。ビデオ講座もそうですが、私は日常からダンスに入っていきたいんです。私自身に凄い技術があるわけではないので、ダンスを踊るための動機付けがほしい。その導入を考えるのも楽しいです。


命がけで音に反応するダンス

──康本さんは曲や音に反応して踊るのが得意、とのことですが。

 はい。コンテンポラリー・ダンスの世界では「音にハメて踊っているだけ」と馬鹿にされることもある(笑)。パパタラに所属していた時には「無音で踊れないのか」と言われました。私はできないことだらけなんです。ダンスのワークショップに「水の中をゆっくりと歩く」みたいな、イメージを使って身体を動かすワークがありますが、あれも本当に苦手。「水、無いじゃん」と思ってしまって、単純に身体が乗っていかない。
 でも音楽に対応していくことはできる。自分はとことん、音に反応するダンサーだと思います。自分の内部感覚を探求したり、身体を抽象的に捉えることが非常に苦手です。よくこんなのでダンサーって言えるなと思います。

──曲によって動きや身体が縛られることはないのですか。
 というか、そもそもの縛りがあってこその自由が好きなのかもしれません。もちろん曲にハメるだけではなく、「ここで外す」「ここはちょっと遅らせる」というカウントにはめちゃめちゃうるさい。ダンサーは曲の流れを予想して、ちょっと早取りしがちですが、それだとグルーヴは生まれない。かといってテクニックでちょっと遅らせるのも違う。「本当に音楽を感じていたら、当然こうなる」という必然的なタイミングがあります。なので私の動きは、力を抜いて踊っているように見えるかもしれませんが、タイミングも目線もすべて、あるべきときにあるべきところにあるものです。

──するとどんな音楽、どんな音を使うかが非常に大切になります。
 もうそこに全てがかかっていると言っても過言ではないですね。私の強みはそこにありますし、選曲を褒められるとすごく嬉しい。一番好きなのはやっぱり「声」で、踊っている時はまるでその声と交わっているかのような感覚になる。でも、例えばオペラの発声は私の身の丈と合わないので踊れない。声も楽器だと思っていますし、一番揺らぎがあるから反応しやすい。ピアノのソロも好きです。ピアノも声も音としては一種類だから対応しやすい。逆に様々な楽器が出てくる交響曲とかだと対応しきれない。私の身体も一種類なので。

──そういう意味で、改めて今回の『ずいずい図』のガムランは最高でしたね。最後に、その公演チラシに興味深いことを書いています。「ダンスの持つ抗えない魅力を、ダンサー自身が取り戻す事」を目指していると。
 それが自分にとっての課題でもあります。やはり時期によって踊りたいことは変わってくるので、いま踊りたいことをちゃんとやりたかった。
 「こういうテーマでつくった作品を見せたい」というより、根底には自分が踊って到達したいところがまずあり、作品はそのためにつくっている部分が大きい。そして同時に、そこに到達するためにはお客さんが絶対に必要なんです。
 『ずいずい図』を初演したときに、「康本さんがあんなに出ていたら作品全体を見られないし、演出ができないからダメだ」と言われましたが、私は私が出ないと意味がないと思っている。なぜなら、私が踊って感じているその時の身体的な感情そのものを舞台に上げることが作品にとって重要だからです。人に本気でぶつかったり、引っ張ったりするような、日常だったら理由がなければ発生しない動きを本気ですることで、おびき寄せられる身体感覚がある。そういう未だ感じたことのない感覚を味わいたくて踊っているんだと思います。

──その魅力を、ダンサーが取り戻す事が大事なんですね。
 そうです。実は「煩悩」とかも後付けで、シンプルに「踊るっていうのはこういうことだ」というのを伝えたかった。踊りでしか辿り着けないところがあるということを感じてもらいたい。形でもないし、構成の面白さでもない。8人のダンサーたちがどう輝くかを見てほしい。ダンサーが輝いている舞台は、何物にも代えがたいと思っています。それだけで「ダンスを見た」という感じになる。
 その上で作品性やテーマが面白かったら、もちろんそのほうがいいですが、「ダンサーは光ってないけど、作品は良かった」というのは、私の中では有り得ないことです。誤解を恐れずに言うと、人のためじゃなく、自分がこの感覚を味わいたいからやっている。たぶん私の中では、それこそが「一番ピュアな欲望」なんだと思います。
 
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