The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
林立騎
Photo: Shintaro Wada
Profile
林立騎(はやし・たつき)
1982年新潟県栃尾市生まれ。2019年よりドイツ・フランクフルトの公立劇場キュンストラーハウス・ムーゾントゥルム企画学芸員(ドラマトゥルク)。翻訳者、演劇研究者。訳書にエルフリーデ・イェリネク『光のない。』(白水社、第5回小田島雄志翻訳戯曲賞)、ハンス=ティース・レーマンとマティアス・ペースとの共編著に『Die Evakuierung des Theaters』(Berlin Alexander Verlag)、翻訳にレーマン「ポストドラマ演劇はいかに政治的か?」、ベルト・ノイマン「ノイズ」等。2005年より高山明の演劇ユニットPort Bに、2014年より相馬千秋のNPO法人芸術公社に参加。2012-14年アーツカウンシル東京調査員(伝統芸能分野)、2014-19年東京都港区文化芸術サポート事業評価員、2014-17年東京藝術大学「geidaiRAM」ディレクター、2017-19年ロームシアター京都リサーチャー、2017-19年沖縄県文化振興会プログラムオフィサー。
*1 プロダクションハウス(Produktionshaus)
ドイツ語圏の伝統的な公立劇場と異なり、俳優たちのアンサンブルを抱えていない劇場。その活動は「フリーシーン」と呼ばれる。2016-17年からは、デュッセルドルフのFFTとtanzhaus nrw、ベルリンのHAU、ドレスデンのHELLERAU、ハンブルクのKampnagel、エッセンのPACT Zollvereinとフランクフルトのムーゾントゥルムの7劇場が共同で「インターナショナル・プロダクションハウス・アライアンス(Bündnis internationaler Produktionshäuser)」を組織した。7館は共同での広報活動、アライアンス内部で申請と審査を行う助成事業、年に1回のフェスティバル、アカデミー(人材育成)事業を行っている。また内部で劇場長会議と5つのワーキンググループを運営し、課題を議論している。この組織はドイツ政府の支援で運営されている。
ドイツ文化評議会
(Deutscher Kulturrat)

https://www.kulturrat.de/
劇場の中に劇場を立てるというプロジェクト
https://www.mousonturm.de/en/projects/mousonturm-im-bau/
リグナ(LIGNA)
http://www.ligna.org/
Port B『雲。家。』
作:エルフリーデ・イェリネク
構成・演出:高山明
翻訳・ドラマトゥルク:林立騎
https://anj.or.jp/tif2007/program/portb.html


2014/2015シーズンのオープニング
http://www.evacuation.jp/frankfurt/


『マクドナルド放送大学』
http://mru.global/


『ワーグナープロジェクト』
http://frankfurt.wagnerproject.jp/


『ヘルダーリン・ヘテロトピア』
https://hoelderlin-heterotopia.portb.net/
アーツカウンシル沖縄
https://www.okicul-pr.jp/oac/
ロームシアター京都 リサーチプログラム
テーマA:古典芸能と現代演劇

https://rohmtheatrekyoto.jp/news/53945/


木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』
https://kinoshita-kabuki.org/gappo


平田栄一朗「ドラマトゥルク─舞台芸術を進化/深化させる者」(三元社)
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/278.htm
*2 『ムーンライト』
村川と70歳代の中島昭夫さんという実在の人との対話で進行。ベートーベンの「月光」に惹かれて大人になってからピアノを習い始め、徐々に見えなくなる目の病と付き合いながら過ごしてきた中島さんの人生を描いたもの。さまざまな世代のピアノ演奏者たちが登場し、二人の対話の間に、彼の記憶を彩る曲を演奏する。
https://www.festival-tokyo.jp/20/program/moonlight.html
Presenter Interview
2021.4.22
Dramaturg Tatsuki Hayashi Interview, The “With Corona” Prospective 
With コロナの視点 林立騎(ドラマトゥルク)インタビュー 
2019年からドイツ・フランクフルトの公立劇場キュンストラーハウス・ムーゾントゥルム企画学芸員(ドラマトゥルク)を務める林立騎(1982年生まれ)。コロナ禍のドイツの舞台芸術事情をインタビューするとともに、高山明とのプロジェクトや、ロームシアター京都のプロジェクトで関わった村川拓也、木ノ下裕一へのアプローチなど、“ドラマトゥルクはプロセスをつくる人”という彼の視点に迫る。
聞き手:小倉由佳子、坪池栄子

コロナ禍のドイツの舞台芸術事情

──まずは林さんが現在勤務されている劇場について教えてください。

 私は今、フランクフルトにあるキュンストラーハウス・ムーゾントゥルムという劇場に所属しています。キュンストラーハウスというのは芸術家の家という意味です。ムーゾントゥルムというのは、フランクフルトにあったムーゾンという石鹸の会社に由来する名前です。その工場のひとつがフランクフルトで最初の高層建築と言われていて、市の文化財になっています。キュンストラーハウス・ムーゾントゥルムはその歴史的建造物を改築して劇場およびオフィスとして使用しています。
 この劇場は、日本にはない「市立企業」という法人形態で運営されています。もともとの出資金はすべてフランクフルト市が出していて、毎年の予算も全体の70%を市が負担しています。一方で企業の形態なので、プログラミングや予算の使い方に関してはかなり融通が利きます。
 ドイツの市立劇場では基本的に劇場に俳優や演出家のアンサンブルが所属していますが、近年はアンサンブルを持たないプロダクションハウス(*1)と呼ばれる形態の劇場が存在感を増しています。ムーゾントゥルムはそのひとつです。

──コロナ禍のドイツの舞台芸術の状況はいかがでしょうか。
 2020年の3月12日に、政府からイベントを中止するようにという通達があり、劇場を閉鎖しました。ロックダウンのため職場に出勤することも許されない状態になりました。私の暮らすヘッセン州では、5月の初めに一応劇場は再開してもいいけど、8月末までは大規模イベントは禁止という措置になりました。結局、ムーゾントゥルムが再開したのは9月1日でした。
 ドイツでは、一旦、新シーズンがオープンしましたが、感染者が増加し、11月1日から再度のロックダウンになりました。今もその状況が続いています。3月8日から順次制限が緩和され、3月下旬には観客へのコロナ簡易検査を導入し、劇場を再開できる見込みでした。その後再び感染者数が増加し、4月下旬現在、今後の見通しは立っていません。この1年で劇場が開いた期間は2ヶ月のみで、2020年の舞台芸術業界の損失は約6,000億円とのことです。ワクチンの接種状況もイギリスやアメリカほど進んでいないので、厳しい状況が続きそうです。
 こうした中で、オンラインでの取り組みにも着手しました。最初のロックダウンで仕事はすぐにリモートワークに移行しましたし、ZoomやYouTube、Vimeoといったプラットフォームを利用したプロジェクトやトーク、ディスカッションなどを本当にたくさん実施しました。

──リアルな舞台の創作は再開されているのでしょうか。
 ドイツでは、舞台の広さに応じた出演者数の制限がありますし、出演者と出演者、観客と観客の間を1.5m空けるという「1.5mルール」があります。これがダンスの場合はダンサーとダンサーの間を6m空けなければならない。そういう制限があるので、実際に作品をつくることは困難な状況です。
 劇場は雇用者であるアンサンブルの生命や安全を脅かすことができないので、ルールを遵守せざるを得ません。ただ、フリーランスのグループが自分たちの判断で1.5mより近づくのは自主判断・自己責任とされており、それに対して劇場を貸すことは許されています。そういう意味ではフリーシーンのアーティストの方が動きやすいとも言えます。
 もちろん、国際的なプロジェクトは難しくなってしまいました。海外から招聘する予定だったものに関しては軒並みキャンセルか延期、あるいはオンラインバージョンに形を変えてお願いするといった状況が続いています。

──アーティストへの支援はどのような形で行なわれていたのでしょうか。
 ドイツで実施されたコロナ対策の支援で一番大事だったのは、この状況下で何をするかを劇場やアーティストに委ねたところだと思います。アーティストへの奨学金、デジタルレジデンシーと呼ばれるリサーチや新しい作品づくりが自由に行なえるような枠組みがたくさんできました。これらの支援は全て、成果発表を伴いません。むしろその枠組みの中では成果発表をしてはいけないことになっています。こうした奨学金はアーティストの生活支援の役割も担っており、まずはこの状況を生き延びることを優先し、新しいことを考える期間にして欲しいということだと思います。
 文化施策としてお金の支援の枠組みだけを作り、アーティストは何ができるかを考える。もちろん、アーティストは成果発表を視野に入れながらリサーチをしたりコンセプトを練ったりしているので、いずれはなんらかの形にすると思いますが、今はそういうところから生まれてきたアイデアを劇場と一緒に温めたりしているところです。
 もちろん生活保障という意味での支援も多くの州で実施されました。国からの予算を受けて州が予算を加え、要件を定めてアーティストを支援するというフローでした。

──成果発表を伴わないというのは日本とは逆ですよね。日本の場合は納品主義というか、ほとんどの場合、何らかの形で納品をしないと支援してもらえない。しかも多くの場合、たとえば映像を配信するとか、納品の形式まで指定されていました。
 ドイツではどういう形式で何を発表するかはアーティストの表現の問題という認識があります。映像でと指定することが、芸術表現の自由と多様性を制約するという感覚になります。ですから、日本の支援の枠組みを見ていて、少し苦しく思いました。

──日本の場合は誰がアーティストか不明なので納品主義にならざるをえないのですが、ドイツでは支援の対象になるアーティストというのはどのように決定されていたのでしょうか。
 劇場に雇用されている人たちは時短労働になっても何らかの形で補償があるので、問題はフリーランスのアーティストの定義になります。ドイツには芸術家社会保険組合(KSK)というフリーランスのアーティストやジャーナリスト、物書きが加入できる組合があります。まずは、ここに加入し、保険料を納めている人がフリーランスのアーティストであるという定義があります(保険料の2分の1を自己負担、残りの2分の1を国が補助)。ただ、いろいろな理由から加入していないけど、アーティスト活動をしている人もいます。国としてはKSKの被保険者を対象にするけど、州や自治体といった地域レベルでは昨年の収入に対する芸術活動の収入割合で支援対象を決めることもありました。加えて、ドイツには舞台芸術関係、音楽関係などの業界団体がしっかりあります。奨学金やデジタルレジデンシーは、そういう団体が窓口となり、国の予算を受けてアーティストを支援しました。
 もう一点、今回のコロナ対策で重要だったのが、ドイツ文化評議会(Deutscher Kulturrat)の存在です。これはアーツカウンシルのような国の出先機関ではなく、簡単に言うとロビイング団体のようなもので、いろいろな業界団体の意思を束ねて政府の財務大臣等と会見を行い、要望を伝えるわけです。例えばそれで獲得した資金があったとして、執行するのはそれぞれの業界団体です。KSKと業界団体とロビイングやアドボカシーを担当する評議会──この3つの団体があったことで、アーティストの状況を具体的に政府に伝え、的確な支援を引き出すということにつながったのではないかと思います。


ムーゾントゥルムでの取り組み

──ムーゾントゥルムではコロナ禍でどのような取り組みを行いましたか。

 ムーゾントゥルムでは映像や言葉、音楽などを組み合わせるようなパフォーマンスやダンスの作品をコロナ以前から扱っていたので、ロックダウン後は映像作品が非常に多く作られました。それをオンラインで配信することを含めて、新しいルーティンとして確立していった感じです。そもそもプロダクションハウスは非常に多様な取り組みをしていました。外国から来るいろいろな作品を上演したり、あるいはフリーランスのアーティストと一緒に実験的なことをしたり。ですから、急な状況の変化にも対応できるベースがありました。

──劇場を使った取り組みはありましたか。
 劇場の中に劇場を立てるというプロジェクトがありました。コロナ対策のルールに従うと、客席は前後左右1.5mずつ離さなければいけない。そうするとムーゾントゥルムの劇場は300席ぐらいなので、40席に減ってしまう。でも、ただそのルールに従って客席を減らすだけでいいんだろうかと。ルールはルールとして尊重しつつ、その枠組みでどうクリエイティブなことができるかを議論しました。
 その過程で、ムーゾントゥルムの芸術監督のマティアス・ペースがベルト・ノイマンという舞台美術家が行ったプロジェクトについて話題にしました。ベルリンのプラーターという劇場の中に2階建ての劇場を作る『ニューグローブ』(新しいグローブ座)というプロジェクトです。その客席は個室になっていて、そこから舞台を見ることができるというもので、今回はそれを参照しました。
 1.5mルールは壁を隔てていたら適用されない。つまり壁があったらすぐ隣に人がいてもいいわけです。ただでさえコロナで劇場の外は殺伐としているのに、劇場に来てまでスカスカの寂しい客席に座ってもらうのはどうだろうと。それで建築家たちと相談し、劇場の中に円形の劇場を作りました。劇場が小さいので、そうすると個室が19(各室2席)しか作れなかったのですが、飲食も可能になっていて、ちょっとゆったりしてもらえる。コロナに作品だけでなく、劇場のあり方として応答するという意味でいいプロジェクトだったと思います。

──林さんはどのようなプロジェクトに関わっていましたか。
 海外からアーティストを招聘することはできないし、観客も自由に劇場に集まってもらうことができない。それで、パブリックスペースで参加者にワイヤレスのヘッドフォンを渡し、そこから流れて来る指示や音楽に合わせて1.5m以上の距離をとりながら踊るという参加型のプロジェクトを担当しました。ドイツに来ることができない海外のアーティストが考えた短いコレオグラフィーをコラージュしたものを踊ってもらいました。日本からはcontact Gonzoの塚原悠也さんが参加し、他にも南アフリカ、イスラエル、ブラジル、韓国、フィリピンといろいろな国のコレオグラファーたちがそれぞれの状況下で考えた短いコレオグラフィーを構成しました。
 ブラジルのコレオグラファーの声を聞きながら参加者が踊ると、ニュースでブラジルのコロナの状況を知るのとは違う形で、身体を通じて少しだけ想像できるようなところがあります。これはフランクフルトにいるリグナ(LIGNA)というグループのプロジェクトで、各国のコレオグラファーの指示の合間にリグナがテキストを入れて、全体で60分ぐらいの作品を作りました。

──ムーゾントゥルムや林さんはそのプロジェクトでどのような役割を担っていたのでしょうか。
 ひとつは、世界中のコレオグラファーとリグナというグループを繋ぐこと。もうひとつは、これはどんなアーティストと仕事をするときもそうですが、都度都度で稽古に参加し、作品を見せてもらってフィードバックをすることが大きな役割になっています。後はもちろん広報して参加者を集めたり、プロダクションマネージャーをつけて会場となった公園の使用許可を取ったりという制作面の役割もあります。


ドラマトゥルクになるまで

──そもそも舞台芸術との出会いはどのようなものだったのでしょう。

 私は新潟県の、今は長岡市の一部になっている栃尾市というところで生まれました。山に囲まれた田舎で、劇場どころか映画館も美術館もないところでした。大学で東京に出てきて、あまり深く考えずに、本が読みたかったので慶應義塾大学文学部ドイツ文学科でドイツ語やドイツ文学を学びました。海外に行ったこともなければ、飛行機に乗ったこともなかったのですが、交換留学という制度があったので20歳のときに初めてドイツのデュッセルドルフに1年留学しました。2003年から2004年のことです。
 その頃はまだインターネットも使い放題じゃないですし、Skypeもない。日本には国際電話するしかない最後の時代でした。当時はまだ演劇には興味がなく、滞在中一度も演劇は見に行きませんでした。でも、留学から帰って、自分の指導教官ではありませんが、大学入学時のドイツ語の先生だったドイツ演劇研究者の平田栄一朗先生の紹介で高山明さんと会いました。そうしたら、ドイツ語を日本語に翻訳する人という役で舞台に出て欲しいのでと出演を頼まれました。一度稽古を見て欲しいと言われて行ったら、簡単に言うと衝撃を受けたんです。とても面白かった。高山さんが演出したハイナー・ミュラーの『ホラティ人』(2005年3月)という作品でした。声を使って言葉と歌、日本語と外国語、生命の内側と外側の間のようなものを実験する取り組みで、それをきっかけに高山さんと一緒にやってみたいと思いました。

──林さんはエルフリーデ・イェリネクの翻訳もされていますが、それも高山さんとの縁からはじまったと聞きました。
 2005年の夏に「日本におけるドイツ年」でゲーテ・インスティテュートがスイスの演出家のヨッシ・ヴィーラーを招いてシアターχで『四谷怪談』を上演しました。高山さんはそこにドラマトゥルク補佐で関わっていて、私もドイツ語ができるからアシスタントみたいな形で参加することになりました。そのときにヨッシが、今のドイツ語にはイェリネクという面白くて重要な作家がいる。自分は『雲。家。』という作品を上演したが、非常に難しい作品だから翻訳は不可能だと思うと言った。それを聞いて、高山さんと「じゃあやってみようじゃないか」という話になり、私が翻訳して、高山さんが演出することになりました。
 それで、2007年に東京国際芸術祭で『雲。家。』を上演しました。東京国際芸術祭はその後フェスティバル/トーキョーに代わり、相馬千秋さんがディレクターになり、そうした流れで高山さんがウィーン芸術週間に招かれることになりました。そのウィーン芸術週間でドラマトゥルクをしていたのが後にムーゾントゥルムの芸術監督になったマティアス・ペースです。彼がフランクフルトで芸術監督になってはじめての2014/2015シーズンのオープニングとして、高山さんの『完全避難マニュアル』を広い地域で大々的に展開したいと言われた。高山さんがツアーパフォーマンスをはじめたときから一緒にやっていた経緯があり、私も1カ月ほどフランクフルトに滞在しました。それが初めてのフランクフルトです。2017年には『マクドナルド放送大学』という、フランクフルトの難民の人たちと一緒にマクドナルドを「講義室」にしてしまうというプロジェクトも一緒に作りました。今回ドイツに来てからは、2019年に劇場をヒップホップの学校にしてしまう『ワーグナープロジェクト』を、コロナ禍の2020年は22キロの道をアプリを使って歩きながらさまざまな作家の文章に耳を傾ける『ヘルダーリン・ヘテロトピア』を一緒に作ることができました。
 日本にいた頃は、そんなふうに高山さんのプロジェクトにリサーチやドラマトゥルクという形で参加しながら、個人的な翻訳もやり、一方で文化政策的な仕事も同時に少しずつするようになっていきました。

──林さんは、アーツカウンシル東京の調査員を2011年の発足時から2年半、その後、港区文化芸術サポート事業の評価員を5年間務め、2017年から沖縄県文化振興会内に設けられたアーツカウンシル沖縄でも仕事をされています。
 アーツカウンシル沖縄にはプログラムオフィサーとして入り、その後、チーフプログラムオフィサーになりました。東京では、自分ひとりでできること、関われることは本当に限られているような気がして、東京を離れようと思いました。
 少し話が逸れますが、ドイツでもコロナ前ぐらいからBlackLivesMatter運動とか、植民地政策をやっていた時代への反省とか、ドイツのインスティテューションは白人ばかりだから非白人も入れなければとか、均衡を図るような動きがいろいろとありました。確かにいろいろな歴史に向き合って反省することは重要ですが、それだったら、たとえばドイツが植民地にしていたアフリカの諸国や中国の青島に行って働くとか、そうした土地でプロジェクトをやろうとかにどうしてならないんだろうと不思議でした。それでバランスがとれていることになるのだろうかと、感じていました。
 沖縄は日本の最初の植民地です。台湾と朝鮮半島は日本から解放されましたが、沖縄はアメリカの統治を経て再び日本になりました。私は台湾に友人ができたときに、一方で自分が沖縄のことを全然知らない、沖縄に知っている人が誰もいないことに気づいてショックを受けました。そういうこともあって沖縄に行きたいと思いました。当時は1年半しかいませんでしたが、本当に多くのことを勉強させてもらいました。
 翻訳者、アーティストとものを作るというドラマトゥルク的なこと、そして文化政策に関わることをやってきましたが、劇場でアーティストと一緒にものを作りたい気持ちがあり、マティアスのところで勉強したくて、最初は文化庁の在外研修制度を利用して2019年にムーゾントゥルムに来ました。でもすぐに、研修もなくドラマトゥルクとしてプロジェクトを担当するはめになった(笑)。
 私が所属しているのはドラマトゥルギー部門で、そこでは劇場のプログラムづくり、アーティストとの作品づくり、どのようなフェスティバルを作るかなど、個々のプログラムをどういう文脈で展開するかを常に考えています。助成金の申請書も書きます。それに対してプロダクション部門というのがあり、そこではその作品がどのぐらいの予算でできるのか、どういうスケジュールで行うのか、宿泊や移動の手配、助成金申請の予算書づくりなどを担当している。そういう分業制になっているので、ドラマトゥルクは並行して何本ものプロジェクトを抱えることができます。日本でドラマトゥルクについて考える場合、劇場の分業制の中で行われているものであることを踏まえる必要があります。ちなみに、私の同僚は2人いて、ひとりは音楽と音楽劇が専門、もうひとりはダンスが専門です。さらにアシスタントドラマトゥルクがひとりと、アウトリーチ担当がひとりいます。それで言うと、私の専門は翻訳、つまり個々の作品やプロジェクトの可能性を見つけ出して一緒にかたちにすることだと認識していますが、みんなそれぞれの専門があって、アーティストやプログラムに関わっています。


ロームシアター京都でのプロジェクト

──林さんは沖縄と並行して、ロームシアター京都で「古典芸能と現代演劇」のリサーチャーとしても活動されます。その一環として、木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』の関連プログラムなどを企画されます。そこで作成されたブックレットはとても内容の充実したもので、林さんのドラマトゥルクとしての実践のあり方を示していると思いました。林さんご自身はドラマトゥルクという仕事をどのように捉えているのでしょうか。

 その前に、日本でドラマトゥルクという存在がどのように受け入れられていったかを簡単に整理しておきたいと思います。私を高山さんに紹介してくれた平田先生が「ドラマトゥルクー舞台芸術を進化/深化させる者」という本を書かれたのが2010年です。それ以前から長島確さんのような存在が認識されるようになっていて、また、東京国際芸術祭のディレクターだった市村作知雄さんがドラマトゥルクの必要性についていろいろなところで発言されていました。
 ドラマトゥルクをどのような役割と捉えるかについてはいろいろな考え方があると思いますが、演出家の相談役であるという考え方に違和感がありました。アーティストにもいろいろな人がいますが、少なくとも私にとってアーティストは次元の異なる存在で、そこに相談役というのは必要ないと基本的に思っているところがあります。
 一方で、ドイツの演劇環境に触れて、ドラマトゥルクというのはもう少しプロセスを作る人なのではないかと感じるようになりました。最初の留学から帰国してから高山さんと出会ったこともあり、ドイツに行くようになり、演劇も見るようになりました。そこで興味をもったのがパンフレットやトークでした。特に作品でとても深い問題と関わっていたり、いろいろな文脈の合流点として生まれる作品などは、作品だけを見せるのではあまりにもったいない。もう少し、公演がはじまる前からみんなで資料を読んだり、議論して、作品を見終わった後も話し合って、それがまた別の何かに繋がっていく──演劇の経験をそういう流れのようなものにしていきたいし、ドラマトゥルクというのはそういうところに関わる存在なのではないかという感触を持ちました。

──ちなみに、最初にドラマトゥルクとして関わった高山さんの作品では、どのような仕事をされたのでしょうか。
 たとえば2008年に池袋で行った『サンシャイン62』というツアーパフォーマンスでは、高層ビルのサンシャイン60が窓から見えるラブホテルが会場として絶対に必要だということになりました。それで、一人でビルが見えそうなホテルに片っ端から交渉に行きました。「20分毎に5人1組のグループが来て、窓からサンシャイン60を見せたいのですが協力してもらえませんか」と。もちろん「何を言ってるの、馬鹿じゃないの」みたいな感じで門前払いを食らうんですが(笑)。1人だけ、「何でそんなことがしたいの」と聞いてくれた人がいて、ごまかしても仕方がないので「自分たちはこれを演劇だと思ってやっている。演劇というのは古代ギリシャの時代から本当は野外で行なわれていて都市を見つめ直すための機会だった云々」と話したら、よくわからないけど面白いからオーナーにつないでやると言われて、少し怖い人と会ったり。結局、そのホテルを使えることになりました。
 そうやって人と話すのはすごく面白かったです。池袋という街をどういうふうに見てきたかとか、どんな部屋で仕事しているかとか、そういうことがすべて面白かった。芸術というのは時間をかけていろいろな人と出会って、「自分たちの方が学べるコミュニケーションのメディア」なんだということを痛感しました。

──ロームシアター京都での木ノ下歌舞伎との取り組みについても教えていただけますか。
 あれは非常にいい形で私が考えているドラマトゥルギーが実現させてもらえたと思っています。ドラマトゥルギーという言葉は作劇術などと訳されていて、ドラマをどう作るかといったことを意味しますが、ドラマトゥルギーには作品内のドラマトゥルギーと作品の周りの時間のドラマトゥルギーがあると思っています。木ノ下歌舞伎では作品内のドラマトゥルギーは木ノ下裕一さんとそのチームが一生懸命にやっているので、私が担当すべきは作品の周りのドラマトゥルギーだと思いました。
 高山さんとの仕事でもドキュメント作りやトークを大事にしていましたが、高山さんの場合だと、それでも一緒に作る側面もあるので、いろいろなことが複層している感じでした。でも木ノ下歌舞伎については私が作品を作るチームに入ることは必要ないし、最初から想定していませんでした。木ノ下さん自身が研究者ですし、演出家と木ノ下さんのコンビ、アンサンブルの信頼関係も確立していましたから。
 ただ、あまりにもインテンシブに作品を作るので、作品が発表される前後に何かをやっている余裕がないのも見ていてわかりました。しかも『摂州合邦辻』という非常に多くの文脈が合流した、読み解こうと思えば無数の線が伸びていく複雑な作品を扱っているわけです。それで公演の前にレクチャーシリーズを行い、演劇以外の人をたくさん呼びましょう、それでそのレクチャーシリーズを本にしましょうと提案しました。その本には木ノ下さんのリサーチの成果も入れました。公演がはじまる前にレクチャーを聞いて、公演を見て、その本を買って帰ったらさらに体験を深めることができる。そういう流れを、ロームシアター京都の全面協力で作ることができました。

──ロームシアター では2018年に複数のアーティストが参加し、地域をリサーチして小作品をつくるという「サーキュレーションキョウト」というプロジェクトを展開します。そのプロジェクトでは、参加アーティストのそれぞれにドラマトゥルクをつける試みも行われました。林さんは、村川拓也さんのドラマトゥルクとして参加され、『ムーンライト』(*2)という作品に結実します。
 最初に村川さんと会ってお話した時点で、私がいろいろリサーチして村川さんに提供することが求められているわけではないと感じました。村川さんは、多分毎回そうだと思いますが、出演していただく方を自分で見つけて、その方たちとの関係を自分で大事に作っていくアーティストだと思いました。それで自分に何ができるかと考え、もう少し村川さんのことについて作品以外の言葉があった方がいいのではないかと思い、村川さんへのインタビューと論考が載ったパンフレットを作成しました。
 もう一つ行ったのが記録映像の収録です。映像作家と協力し、カメラの配置、カメラの動きも入念に打ち合わせし、編集も映像作家と一緒に行いました。観客がどう見たかを映像で再現するのではなく、映像それ自体として成立するものにしました。

──2020年にF/Tで『ムーンライト』が再演されましたが、その時には、村川さんのこれまでの表現活動を丁寧にまとめた素晴らしい冊子を作成し、配布されています。美術ではポートフォリオをつくるのが当たり前ですが、消えて無くなってしまう舞台芸術の方こそそうしたこれまでの活動を辿れるドキュメントが必要なのにほとんど作成されることがありません。この冊子にはとても可能性を感じました。
 最初は、F/Tでの再演にも何らかの形で関わる予定でしたが、コロナのために私が日本に帰国することが困難になりました。そこで何ができるかを考えたのですが、そもそも村川さんの作品は「不在」とか「人の死」とか、そうしたことをテーマにしているものが多い。そうした過去の作品がコロナの状況によってまた違った意味をもつのではないかと思いました。しかし、過去の作品は見られないものが多いですし、京都を拠点にしているアーティストなので、東京の観客はほとんど見たことがない。それで、過去の作品をできるだけ紹介し、村川さんの作品を複数の人が論じた記事が読める冊子をつくりました。


公立劇場の可能性にチャレンジする

──今後の活動の展望を教えてください。

 これから日本でやっていかなければと考えているのは、どうすれば制度を整えていくことができるかということです。いい芸術作品ができて、観客がいい経験をできるということが、個別の幸運なケースで止まるのではなく、できるだけ制度的な基盤にバックアップされるにはどうすればいいかを考えています。なので、個人としての活動ではなく、制度に関わるところで仕事ができればと思っています。それはつまり、自分じゃなくちゃできないことというより、村川さんのパンフレットや木ノ下歌舞伎のレクチャーシリーズもそうですが、誰でも真似できることをもっと増やしていきたい、どうすれば定番化できるかというところで仕事をしていきたいと思っています。

──それは公立劇場という場で何かを実現していきたいということなのでしょうか。
 今は公立劇場でも、チケット代が1万円もする商業的な公演やオペラを行ったりしていますが、そちらにばかり傾斜していっていいのだろうかと。公立劇場でそういう公演をするということは、税金を使ってもともと豊かな人たちが割と安価に、高価な芸術を楽しめるようするということになってしまいます。それは税の再配分の考え方とは真逆だと思います。私はそこのバランスをきちんととる必要があるのではないかと思っています。
 公立劇場には、設置した自治体が策定している文化振興条例や劇場の設置条例という守るべき基本があります。そこには市民の参加とか、開かれた劇場とか、そういう目的が記されている。筋論としても民間と公立の違いが何なのかを押さえておく必要があると思います。私が不勉強なだけかもしれませんが、まだまだ民間と公立の違いは何なのかということが議論されていいはずだと個人的には思っています。
 劇場というのは多額の建設費がかかり、年間の運営費も多額です。そんな予算を動かせるというのは一種の権力です。それをどうすれば良きことのために使っていけるかはとても大事な問題であり、そこに関心をもって欲しいと思いますし、劇場で働きたい人がもっと増えて欲しいとも思っています。アーティストと一緒にものを作り、専門性をもちつつ、パブリックな組織で働くことはとても楽しいことで、そこに意義を見出してくれる人を増やす必要があります。そのためには、時間がかかりますが、子どもたちや学生に劇場と関わってもらう仕組みも必要かもしれません。
 私は「文化」という言葉に警戒感があります。たとえばコロナでいろいろなことがあり、「今こそ文化が必要だ。文化は生きるために不可欠だ」という声があがりました。確かにその通りですが、一方、県外ナンバーの車が来たらコロナを持ってきたのではないかと排斥したり、特定の属性のグループを叩いたりするのも日本の悪しき文化です。戦争やさまざまな差別、ジェンダーによる不平等、沖縄の置かれている状況もすべて文化の問題だと私は思っています。
 文化というのは実は非常に危険なものでもあるのです。でもだからこそ、文化芸術という分野でチャレンジすることに意味があると思っています。文化に苦しんでいる人と一緒にものを見たり作ったりすることで、芸術文化を通じて文化を考え直していきたい。そういうことを今後の仕事にしていきたいなと思っています。
 
TOP