The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ダヴィド・カベシーニャ(David Cabecinha)
ダヴィド・カベシーニャ
David Cabecinha
アルカンタラ・フェスティバル
Alkantara Festival
https://www.alkantarafestival.pt/
アルカンタラ・フェスティバル
Presenter Interview
2018.12.17
Alkantara Festival, and its aim to build a new type of artist community 
新たなアーティスト・コミュニティを目指すアルカンタラ・フェスティバル 
今や欧州屈指の観光地となったリスボンで隔年開催されているのが、国際的なコンテンポラリー・パフォーミングアーツ・フェスティバル「アルカンタラ・フェスティバル」だ。カルースト・グルベキアン財団がその発展に貢献したポルトガル・ニューダンスからフェスティバルの現状まで、共同芸術監督のダヴィド・カベシーニャ(David Cabecinha)にインタビュー。
聞き手:岩城京子[ジャーナリスト]

──ポルトガルはいま欧州屈指の観光国家として人気です。2010年には680万人がリスボンやポルトなどの都市を訪れていましたが、16年には1,820万人にまで激増しました。これは単純計算で168パーセントの増加で、ポルトガル以上の増加率を見せているのは、世界で日本だけと言われています。ただ日本と異なるのは、ポルトガルの経済回復です。2003年からリーマン・ショック以後まで続いた深刻な不況を考えるなら、いまリスボンは劇的な経済的変革期を迎えているのではないでしょうか。
 確かに過去10年ほど、ポルトガルは稀に見る観光ブームのただ中にいます。今ではマドンナもライナー・ヴェルナ−・ファズビンダーも、リスボンに屋敷を所有しているほどです。国際的に多種多様な人材に、街が解放されていくのはとても良いことです。ただ同時に、より経済的に恵まれた人間が大量に都市になだれ込むことにより、市内の家賃が急騰していることも事実です。私たちアルカンタラ・フェスティバルは、おそらくマドンナと知り合いになることはないでしょう。まあ、絶対とは言いませんが(笑)。そうではなく私たちは、あまり恵まれない人たちに手を差し伸べていきたい。なぜなら教育、住宅、そして文化などの暮らしの基本要素においては、リスボン市民は誰もが同権利を与えてられてしかるべきだからです。

──言うまでもなくポルトガルは、1933年からサラザール独裁体制「エスタド・ノヴォ」が続き、74年4月25日のカーネーション革命によって、ようやく民主主義を獲得しました。アルカンタラ・フェスティバルは、93年にDanças na Cidade(ダンス・イン・ザ・シティ)という名前でスタートしましたが、このときはまだ民主化革命から20年しか経っていません。戦後のポルトガルが、相当な速度感で変化してきたことを端的に表しているように思います。
 70年代まで民主主義が存在しなかったポルトガルは、他の西洋諸国にかなり遅れをとるかたちで戦後を歩みはじめたと言えます。ただ芸術分野に関しては、すでに独裁政権時代に様々な実験を行う人たちがいた。もちろん当時はいろいろな規制がありましたよ。でも、それら規制をかいくぐって実験芸術は行われていました。
 独裁政権の最中から、最も芸術の発展に貢献した組織のひとつが、ポルトガルで歿したアルメニア人実業家、カルースト・グルベキアンの遺産で設立されたカルースト・グルベキアン財団です。彼は石油で稼いだ私財をもとに、グルベキアン管弦楽団、グルベキアン美術館、グルベキアン科学財団、グルベキアン合唱団、そしてグルベキアン・バレエ団などを次々に創設した。ちなみに、かなり近年になってから導入されたポルトガルにおける芸術政策に、グルベキアン財団の活動指針は大きな影響を与えました。例えばグルベキアン・バレエ団は、1977年のポルトガル国立バレエ団(Comapnhia Nacional de Bailado)の設立に先駆ける1961年に早くも創設されました。
 グルベキアン・バレエ団には、特に才能溢れるダンサーたちが大勢いました。そして彼らは自ずと国外の一流ダンス・カンパニーで活躍するようになっていった。グルベキアン財団はその流れを後押しすべく、西側諸国に才能を送りだす助成金を80年代から給付しはじめました。結果、特にフランスとニューヨークに向かうダンサーたちが増えました。そこで彼らは、主にポスト・モダンダンスの振付家たちと交流したわけです。残念ながら財団は1992年に、西側諸国へアーティストを送る助成金を廃止してしまいました。そして選択の余地がないかたちで、多くの振付家やダンサーたちがポルトガルに帰国した。そして実験的な振付家たちは、自分たちの好むコンテンポラリーな作品を見せる場所をポルトガルに見つけることに苦労したため、振付家・ダンサーのモニカ・ラパが発起人となり、93年に「ダンス・イン・ザ・シティ」というプラットフォームを創設したわけです。

──つまりアルカンタラ・フェスティバルは、当初、ダンス・プラットフォームとしてスタートしたわけですね。
 そうです。例年市内で行われる夏の祭事に含まれるかたちで、7日間にわたり開催されました。当時の若く才能溢れる振付家たちにはヴェラ・マンテーロ、ホアオ・フィアディエロ、アルダラ・ビザーロなどが含まれましたが、彼らが後年「ポルトガル・ニューダンス」と呼ばれるムーブメントを生み出しました。もちろん彼らは今でも現役のアーティストとして活躍しています。そしてその作品群からは、フランスやニューヨークのポスト・モダンダンスの影響が大きく見てとれます。よって最初の数年間こそ「ダンス・イン・ザ・シティ」はドメスティックなプラットフォームでしたが、すぐに国際的振付家を招聘するフェスティバルへと変貌を遂げていきました。メグ・スチュアート、ジェローム・ベル、ボリス・シャルマッツ、スティーブ・パクストンなどを招聘するようになったのです。なお1996年には、ベルギー出身のマーク・デピュターがフェスティバル運営に加わり、モニカと共同でプログラミングを組むようになりました。そして97年まで、このフェスティバルは毎年開催されていった。
 設立当初から「ダンス・イン・ザ・シティ」の運営に携わっていた人々は、振付家を支援し作品をつくるだけではなく、ダンスに関する思考を促進することにも同等の重きを置いていました。そこで「ダンス・イン・ザ・シティ」は、アーティストや哲学者とのインタビューや対談、また論文などを含む本を編算していきました。例えば『movements』という95年に編集出版された書籍は、マリア・デ・アシスとポルトガル・ニュー・ダンスに貢献した16人の振付家との対談集でした。また現在はニューヨーク大学教授であるアンドレ・ルペキも「ダンス・イン・ザ・シティ」の歴史を語るうえで欠かせない人物です。彼は編集者・文筆家としてフェスティバル期間中にセミナーを開催するだけでなく、ドラマトゥルクとしてフランシス・カマチョなど数々のポルトガル人振付家たちとの共同作業に貢献しました。

──なぜ98年からダンス・イン・ザ・シティは隔年度開催に変更されたのでしょうか。
 5年ほどフェスティバルを運営して、単にアーティストを招聘したり、作品を発表したり、本を出版するだけでは、アーティスト・コミュニティの育成には不十分だとモニカとマークは考えたのでしょう。それで彼らは、フェスティバルが開催されない年には、長期的レジデンス・プログラムを運営することを決めました。しかもポルトガル国内ではなく、アフリカのモザンビーク、アンゴラ、カーポヴェルデ、そして南米のブラジルなどに国内作家を送り、そこで現地のアーティストたちとの交流を図るレジデンス・プログラムを行った。これらはすべてポルトガル語を公用語とする国々です。
 断っておきますが、これはポルトガルの作家たちが、他の国の作家たちに何かを「教える」ためのプログラムではありません。それはもっと「共生的」な、いわば互いが互いのアートや文化について学び、共同制作を進めるためのプログラムです。たとえばアンゴラで連続的なワークショップを行い、そこで育まれた作品をリスボンで発表するということが盛んに行われました。だから「ダンス・イン・ザ・シティ」はフランスやニューヨークといった西側諸国との交流だけが盛んだったわけではなく、同時にアフリカやブラジルからの文化的影響も受けていたわけです。この双方向性の交流は、強い意志でもって続けられました。

──かなり初期段階から、ポルトガルの、あえて口にしてしまうなら「旧植民地国家」に、目が向けられていたわけですね。
 ええ、そこには非常に複雑な問題が含まれています。

──前述の民主主義革命以後、モザンビークやアンゴラなどのアフリカ諸国が、次々にポルトガルから独立していきますよね。当時からおそらくポルトガルの左翼知識人のなかには、旧植民地国家の人々とも「対等な関係を築くべき」という倫理観のようなものがあったのかと思われます。そして、それがフェスティバルの創設者たちにも意識としてあった。
 彼らには「ポルトガルのコミュニティはどうあるべきか」という、自覚や良心にかかわる問いがありました。そして、より良いコミュニティを目指すために、芸術実践がどのような役割を果たすべきかという議論がなされた。ですから質問にお答えするなら、確かにフェスティバルの創設者たちのなかには、旧植民地国家との問題に向き合う意志がありました。なるべく身近な距離感で接することで、アフリカやブラジルの人々と信頼に足る新しい関係性を築きたいと願ったわけです。もちろん「ポスト植民地」「脱植民地」という問題に対して、そのような試みが果たして有効か、という議論が今では掲げられていることは分かっています。しかし、当時の人々はそれを良かれと思ってやっていたわけです。現在でもポルトガルには旧植民地国家の移民が多く暮らしています。そして彼らは日々、不平等や差別に遭遇している。これらの問題には、私の世代も引き続き目を向けていく必要があると思っています。これは共同ディレクターであるカルラ(ノーブレ・スーサ)も同様に考えていることです。

──これはかなりナイーヴな質問だとわかっているのですが、40年以上独裁政権に虐げられていながら、左翼的な人々は、自分たちを「悪政の被害者」ではなく、「植民地体制の加害者」という歴史認識を持ったわけですね。もちろん、一概には言えないと思うのですが。
 その質問に私が答えることは、かなり難しいです。「歴史」には様々な解釈があります。何が本当に起きたのか、誤解や誤認が数多く存在します。1974年の民主化以後、ポルトガルでは盛んに植民地史や戦後史に関する議論が行われてきました。そしてそれら議論をもとにして、いまポルトガルに住む多様な人々に、どのような責任感をもって接すべきかが語られます。それでもなお歴史問題は複雑で、様々なニュアンスの解釈があり、おそらく完全な「解決」が来ることはないでしょう。
 例えばポルトガルは15世紀の大航海時代から、多くの大陸や国家に到達し、それをポルトガル領土であると主張してきました。ただそれら場所をポルトガルが「発見」したと言ってよいのでしょうか? 大航海時代の歴史を展示する「発見美術館(Museum of Discoveries)」と呼ばれる施設が、近々リスボンに建設されると言われているため、いまこうした議論が再熱しています。現代においては「発見」という単語が、もはやどれだけ誤った思考を吹聴する用語であるかは明解なはずです。そしてこの単語を博物館に冠することは、間違えた歴史を再生産することになってしまうのです。ちなみに過去20年はポルトガルでアクティビストが増えてきた時代でした。そのため今まで俎上に上げられてこなかった問題が、可視化されるようになってきた。これはとても良いことです。アルカンタラでもなるべく多くの人々の声に耳を傾け、オープンな議論のための空間を積極的に設けていきたいと思っています。

──アラビア語源の「アルカンタラ」とは、ポルトガル語で「橋」という意味だそうですね。つまりアルカンタラには、異なるコミュニティのあいだに橋を架けるというミッションがあることが、その名前からも明示されています。
 そうです。まただからこそ私は、セゾン文化財団のヴィジティングフェローに応募して、日本に5週間滞在してみようと思ったわけです(2018年10月と11月に滞在)。来日して、日本とポルトガルの演劇的現状がどれだけ異なるかは多いに理解しました。同時に、似た部分があることもわかった。例えば、日本には様々なアジアのアーティストたちがコラボレーションのために招かれます。言い換えるなら、日本は様々なアジア諸国とのあいだの「架け橋」を担っているわけであり、それはポルトガルが他のコミュニティとの間で行おうとしていることに似ています。アルカンタラは、ダンス・イン・ザ・シティと名乗っていた時代から、異なる背景のアーティストたちのための「出会いの場」として機能してきました。そしてそれは今後も、日々変化する社会的文脈のなかで行っていきたいと考えているわけです。

──隔年開催されていたダンス・イン・ザ・シティは、体制はそのままに、2004年に「アルカンタラ・フェスティバル」と改称されますよね。
 様々な理由により、2004年は節目の年となり、以後「ダンス・イン・ザ・シティ」は「アルカンタラ」と呼ばれるようになりました。当時、フェスティバルを一人で牽引していたマークは(モニカ・ラパは01年に死去)、04年のイベントはフルスケールのフェスティバルと呼べるものではなかったと言います。そこで彼は、次のシーズンから視野を拡張し、ダンスだけでなくあらゆる舞台芸術を包括するフェスティバルを開催することに決めたのです。ちなみにいまでも私たちのフェスティバルでは、「ダンス」「演劇」といったラベルによって演目分類することはしません。08年までマークがフェスティバルの単独指揮を執り、09年から18年まで、同じくベルギー出身のトマス・ワルグレーヴがディレクターを務めました。その間、プロダクション・ディレクターのカタリーナ・サライヴァ(1999年〜2009年)や、リッカルド・カルモーナ(2010年〜12年)、また共同ディレクターのソフィア・カンポス(2011年〜14年)など大勢の人材がフェスティバルには携わっていました。そして2020年からは、エグゼキュティブ・ディレクターのアナ・リタ・オソーリオに支えられ、私とカルラが共同芸術監督としてフェスティバルを運営していくことになります。

──カルラさんもあなたも、すでにフェスティバル運営に携わってきたメンバーですよね?
 カルラはそうです。でも私の場合は、少し状況が異なります。2016年度から、カルラはプロダクション・コーディネーターとして働きはじめ、18年度には次期ディレクターになるべく、トーマスの傍らであらゆる業務に関わってきました。私は17年頃にカルラに声をかけられ、初めてフェスティバル・チームに加わりました。「一緒に芸術監督をやらないか」と誘われたのです。ただ私はカルラのようには2018年度のプログラミングには深く関与していません。ただフェスティバルがどのように運営されていて、どのようにプログラミングされているのか、内部から少し覗き見るための「インターン期間」(笑)だったと捉えています。

──あなた自身の経歴について少しお聞かせ下さい。アルカンタラのチームに加わる前は、どのような仕事やプロジェクトにたずさわっていたのでしょうか。
 私は演劇畑の人間です。大学時代は演劇学部で俳優の勉強をしました。同時に、コミュニケーション科学についても学んだ。ただちょうど私が大学から卒業する次期は、ポルトガルが不景気のどん底を迎えていた頃だったので、一般企業に就職するチャンスがほとんどなかったんですね。そこで私はフリーランスとして働きはじめたわけですが、幸運にも卒業後、学部時代から興味を持っていたmala voadoraカンパニーに関わることができるようになりました。それはコンセプトを深める思考実験においても、芸術実践においても、とても実験的な演劇プロジェクトでした。私はこのカンパニーに、俳優としてだけでなく、ドラマトゥルクとしても携わりました。そうした仕事にいくつか関わっていく中で、自然とポルトガル演劇界に人脈ができていきました。ポルトガルでは、ひとつのカンパニーが特定劇場とのみ仕事をすることはありません。ですから卒業後の2年間で、私は国内のほとんどの重要な劇場やフェスティバルと繋がることができたわけです。
 これら活動と併行して、私は映画業界でも仕事をするようになります。ここでもまた俳優として働くと同時に、助監督としても仕事をしました。シナリオの執筆段階に携わったり、プロジェクトのコンセプトに関わったり……。つまりは俳優としての職務を越えて、自分の興味のある任務にもかかわることができたわけです。そうこうするうちに、私はリスボンの「トン・ディマージュ・フェスティバル」から声をかけられました。これはパリのラ・フェルメ・ドゥ・ビュイソン劇場と文化放送局Arte(1992年に開局した仏独共同出資によるテレビ局)が共同出資して立ち上げた「動くイメージ」と「舞台実践」のためのフェスティバルですが、そこで私は2016年に芸術監督として1年だけプログラミングを担いました。他の年度の多くのプロジェクトも私がプログラミングに関わっています。その後、私はカルラに声をかけられてアルカンタラに来ることになったわけです。もちろん、重要な責務を担わされていることを自覚しています。

──すごい速度での出世物語ですね。でも、そんな輝かしいキャリアのなかでも、アルカンタラには別格の責任を感じるかもしれません。ポルトガルで最も長い歴史を誇る現代舞台芸術祭ですから。
 ええ、演劇に限っていえばアルマーダ国際演劇祭がありますが、舞台芸術全般となると、仰るように、アルカンタラが最も長く続いているフェスティバルのひとつです。

──今年で25周年ですが、この四半世紀のあいだに、ポルトガルの舞台芸術シーンは随分と変わったのではないでしょうか。1977年生まれの国際的演出家ティアゴ・ロドリゲズが、2014年にマリア2世国立劇場の芸術監督になるなど、進取の気性に富む才能たちが、どんどん重要なポストに着任しています。
 ええ、この20年ばかりでポルトガルの舞台芸術シーンは大きな変化を遂げました。先に述べたように、そもそもダンス・イン・ザ・シティは、特定作家たちの作品を発表するためのプラットフォームとして始まったわけです。けれど途中からフェスティバルとして体制を変えたのは、市立劇場などでも同じアーティストたちの作品を上演するようになっていったからです。また1994年には、やはりコンテンポラリーな舞台芸術作品に注力する、ベレン文化センター(CCB)がオープンしました。マーク・デピュターはアルカンタラ在籍時にここのダンス部門プログラマーも兼任していました(1996〜2004年)。その後、彼はテアトロ・カモエシュ(Teatro Camõs)のプログラマーも担いました(2006〜08年)。また前述したグルベキアン財団は、のちに「Next Future」と呼ばれることになる、実験作品のプログラミングをはじめました。ピント・リベイロがプログラミンを担ったこの企画は、2009年から15年まで続き、アフリカ諸国に加え、南米とカリブ諸国の作家たちが紹介されました。
 そうして世界中の招聘作品を上演することが、ポルトガル演劇界の通常プログラムとして日常化していくとともに、市立劇場の芸術監督職に若い演出家やプログラマーたちが着任していくようになりました。例えばマークはアルカンタラを辞めたのち、マリア・マトシュ市立劇場(岡田利規の作品を上演し続けている劇場)の芸術監督に就任しました。またマークは2017年に、銀行が運営する私立文化財団カルチャージェストの舞台芸術部門プログラマーに転職しました。ティアゴ・ロドリゲスは、アルカンタラを契機に国際的に活躍するようになった演出家ですが、彼も今言われたように国立劇場の芸術監督になりました。またポルト市立劇場は、商業的ミュージカルばかりを上演する劇場だったのですが、4年程前、アルカンタラでよく作品を発表した振付家ティアゴ・ゲデシュが芸術監督になり、より現代的なプログラミングに変革されました。さらに今年はポルトガル国立バレエ団(Comapnhia Nacional de Bailado)の芸術監督に、いっときアルカンタラの経堂芸術監督としてホアオ・フィアデイロと仕事をしていたソフィア・カンポスが就任しました。ソフィアの前に、同バレエ団を率いていたパウロ・リビエーロも、ダンス・イン・ザ・シティの初年度に参加した振付家です。つまりポルトガルの現代舞台芸術シーンでは、アルカンタラのOBが大勢活躍しているわけです!
 今ではリスボンに住んでいると、本当に贅沢な文化的生活を送ることができます。特にフェスティバルなどを開催していない普通の月でも、小さな実験作品からジゼル・ヴィエンヌなどの大型のコンテンポラリー作品まで、平均で18本は観劇できます。商業作品ではなく、すべて実験的舞台芸術作品です。これは素晴らしいことです。皮肉なのは、こうした若手作家たちが不景気の時代に育ったということ。お金のない時代に、若い作家たちの小規模な作品が次々に上演され、それで才能が育ったのです。

──話を伺っていると、国立あるいは市立財団から出資される助成金の少なくない金額が、コンテンポラリーな舞台芸術作品にまわっていることが理解できます。
 そうですね。ポルトガル文化省の予算に関して言うなら、金額は2010年の経済危機以前のバジェットが戻ってきています。また今お伝えしたように、そもそも国立劇場や市立劇場の多くが、よりコンテンポラリーな作品に興味を持つ若い芸術監督を採用するようになっているので、ポルトガルの現代舞台芸術シーンは控えめに言っても今非常に活発です。前述したポルトガル文化省の、インディペンデント・プロジェクトに関する2018年から21年度の予算は8,300万ユーロ(約100億6,000万円)となることが最近決定されました。これは4,500万ユーロ(約58億円)の助成金が付与された2013年から16年の助成金から、かなりの増額だと言えます(出典:https://www.portugal.gov.pt/pt/gc21/)。これはちなみに2年から4年単位で実施されるやや大型のプロジェクトに対する予算額であり、12ヶ月以内に終了する小規模プロジェクトに関しては、別枠で予算が用意されています。そして言うまでもなく、この予算のすべてが、伝統的・民俗的要素のないコンテンポラリーな作品に充てられます。とはいえ、いまでも私たしはとても脆弱な経済的状況にあると言えます。特にインディペンデントに作品を発表しているアーティストたちは苦労しています。

──さて、あなたとカルラさんが初めてプログラミングを手がけるアルカンタラ・フェスティバルは2020年に開催されます。今期待できることを少し伺わせてください。
 ポルトガルは大きく変わりました、リスボンも変わりました、そして舞台芸術シーンも劇的に変わりました。そんななかアルカンタラで紹介するアーティストたちはつねに、自明と思われ固定化された演劇やダンスの枠組を改変・拡張しつづけてきました。また彼らは同時に、社会や政治の枠組にも問いを投げかけ、フェスティバルがどのように批評的に、特定集団とつながれるかを考えてきました。この延長戦上で、私たちはどのような変化を、フェスティバルにもたらすべきか。今まさに思考している段階です。
 私の考えでは、まず異なるコミュニティのアーティストが対話をはじめ、そこからプロジェクトが生まれることで、そのプロジェクトを介して観客との対話も生まれてくることが理想です。そうなると、今までの5月から6月というフェスティバルの開催時期が「果たしてベストか?」という問題が浮上してきます。というのもこの時期は、主要な客層である学生たちが年度終わりで極めて多忙なために(欧州の大学は夏前に終わり、新学年が9月に始まる)、なかなか満足にフェスティバルに足を運ぶことができないのです。ですからいま私たちは、フェスティバルの開催時期を変更することを考えています。また、2019年には国内・海外作家双方のレジデンス・プログラムを予定しています。そこで対話に参加してもらえる作家を探すために、来日したわけです。フェスティバル全体を、なにか特定のキュレーション・トピックでくくることはせず、もう少し緩やかなテーマ設定で、多様な背景、多様な実践を行う異なアーティストたちを招聘し、そうした面白い人たちが集ったときに「何が生まれるかを見たい」という展望があります。

──2018年度にも、実に多種多様な作家たちがアルカンタラに集っていましたよね。日本からは岡田利規さんが参加していました。
 ええ、リクリエーション版『三月の5日間』を彼は上演してくれました。後はスペインで最も勢いのある劇団であるエル・コンデ・デ・トレフィエル、ほぼ毎年アルカンタラで何かを発表してくれているフランスの演出家アントワン・デフォール、ブラジルの振付家ブルーノ・ベルトラオや演出家クリスティアン・ジャタヒィ、さらにパレスチナのBirzeit大学の学生たちが主体となる演劇作品などを紹介しました。また今回はフェスティバル25周年ということもあり、第1回ダンス・イン・ザ・シティに参加した振付家3人(ヴェラ・マンテーロ、ホアオ・フィアディエロ、アルダラ・ビザーロ)を招聘し、「ノスタルジアに陥らないかたちで」(笑)というリクエストとともに、彼らに新作をつくってもらいました。世代も、国籍も、分野も異なる彼らが一堂に会することによって生まれる化学反応はとてもスリリングでした。

──繰り返しになりますが、アルカンタラは異なる出自の人々、異なる背景のコミュニティをつなげる「橋」になるミッションを、今後も掲げていくということですね。
 そうですね。私は日本滞在中に、あるアーティストと非常に興味深い会話を交わしました。彼はアーティストとして生きていける自分の環境が「恵まれた状況である」ことを認めた上で、それでも社会でなんだか迷子になっている気分だと告げてきました。これはとても素直な言葉です。アーティストたちは今混迷の時代を生きています。何をしようが、何を語ろうが、社会に対して変化を与えられているとは思えないのでしょう。そんなとき不安や迷いを感じるのは当然です。そんな時代に私たちアルカンタラは、この迷子の気分をまず受け入れ、そこから何を生み出していけるかを考えていきたい。様々な誤解によって、今や表現の自由は、私たちを助ける手段になっていません。むしろ私たちを、間違えた場所に誘導する。そんな迷子状態を正すべく、アルカンタラでは迷いを感じる作家たちが集い、素直な対話ができる「場」をつくりたいと考えています。
 
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