The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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レオナルド・バルトロメウス
レオナルド・バルトロメウス
Leonhard Bartolomeus
*1
1980年代から1990年代のインドネシアは、強大な権力とリーダーシップで国を率いたスハルト政権の後半にあたる。社会インフラの整備や工業化が進められ、一定の経済発展を果たしたが、1997年のアジア通貨危機を発端にインドネシア経済は混乱に陥り、政治改革・民主化を求める運動が各地で激化。30年の長期政権を誇ったスハルト大統領は1998年に辞任に追い込まれた。この1998年の改革・民主化以降、急速に社会の開放性が高まり様々な変化が起きる中で、美術の世界においてもジョグジャカルタ、ジャカルタ、バンドンといった主要都市を中心に、アートスペースやアーティストのコミュニティが多数出現したとルアンルパ代表のアデ・ダルマワンが書いており、その背景の一つとして、スハルト政権崩壊前後に各地で起こった学生運動とのつながりを指摘している。〔アデ・ダルマワン「手作りの構造と小中規模の思索」『アートスタディーズ Vol.2 「国際シンポジウム2015:はじまりは90s:東南アジア現代美術をつくる』(国際交流基金アジアセンター、2015年、118ページ)〕。一時的なお祭り騒ぎのような活動で終わった例もあれば、長期的な展望から独自の戦略を立てて様々な構想を実現したものもあり、2000年にダルマワンらが設立したルアンルパも成功例の一つと言える。

一方、国際的には1990年代以降、光州ビエンナーレ(1995年)、上海ビエンナーレ(1996年)、横浜トリエンナーレ(2001年)などアジアでも大規模な国際展が開催されるようになり、さらにオーストラリアのアジア・パシフィック現代美術トリエンナーレ(1991年)、福岡アジア美術ビエンナーレ(1999年)などアジア地域に特化した国際展も誕生した。こうして、世界的にアジアの現代美術への関心が高まりを見せ、アーティストの活動範囲が国を越えて広がり始めたのが1990年代から2000年代だと言える。インドネシアでも、大規模な美術展として既に開催されていたジャカルタ・ビエンナーレ(1975年)や「ジョグジャ・ビエンナーレ」として知られるジョグジャカルタ・ビエンナーレ(1988年)に続き、2000年代に入るとジョグジャ・アートフェア(現・アートジョグ、2003年)が始まり、特にジョグジャ・ビエンナーレとアートジョグは、現在ではインドネシアだけでなく東南アジア地域など国外招待作家の作品も紹介する東南アジア有数の国際美術展となっている。
*2 ルアンルパ(ruangrupa)
2000年に作家・キュレーターのアデ・ダルマワンを中心とした6名のアーティストにより設立されたアート・コレクティブ。都市空間や環境などの社会的・文化的文脈における課題に対して現代美術によるアプローチで応答する多様な活動を展開している。ジャカルタの拠点スペースで展覧会やフェスティバルを開催するほか、光州ビエンナーレ(2002、2018)、サンパウロ・ビエンナーレ2014、あいちトリエンナーレ2016などの国際展にも参加している。アジアのアーティストとして、またアート・コレクティブとして初めてドクメンタ15(2022年開催予定)の芸術監督に選ばれた。
https://ruru.ruangrupa.org
*3 RUN & LEARN
国際交流基金がASEAN諸国の文化芸術分野に関わる人材について、文化芸術を取り巻く周辺技術(音響、照明、舞台美術、機材・備品管理、劇場/美術館管理、演出/キュレーティングなど)を担う人々からアーティストまで、すべてを対象とし、包括的・総合的な育成を行うために実施した「ASEAN諸国向け文化協力事業」の一環として始まった、若手キュレーター育成・支援を目的とした一連の事業。第一段階として、インドネシア・フィリピン・タイ・マレーシアで、日本と各国から参加した若手のキュレーターや美術関係者と集中的なワークショップを実施。その後、参加者の中から企画コンペを経て選抜された14名のキュレーターが日本で短期研修に臨み、その成果として2014年12月から2015年にかけて、4カ国9都市で14のアート・プロジェクトや展覧会が開催された。
https://www.jpf.go.jp/j/publish/asia_exhibition_history/43_14_run-learn.html

キュレーター・ワークショップ in 東南アジア
https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/exchange/2014/06-01.html
*4 国際交流基金アセアン文化センター
1990年に設立、1995年には対象地域や事業内容が拡充されてアジアセンターとなるが、2004年にいったん解消。2014年に現在のアジアセンターが新設され、日本語教育、芸術・文化、スポーツ、市民交流、知的交流等さまざまな分野でASEAN諸国を中心としたアジアとの双方向の交流事業を実施・支援している。アセアン文化センター設立以降の国際交流基金によるアジア地域の美術に関する事業については、国際交流基金ウェブサイトでアーカイブが公開され、時系列に沿って実施された事業の内容や展覧会図録やシンポジウム記録など一部資料を見ることができる。

国際交流基金アジア美術アーカイブ
https://www.jpf.go.jp/j/publish/asia_exhibition_history/index.html
*5 マーク・テ
マレーシアの演出家・研究者。アーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」のメンバーとして、歴史や記憶をテーマにした作品を発表している。2018年にYCAMとの共同企画で、レクチャーパフォーマンスや映像ドキュメントで構成される展覧会「呼吸する地図たち」を発表。

「呼吸する地図たち」
https://jfac.jp/culture/events/e-asia2019-the-breathing-of-maps/

Presenter Interview
*6 YCAMオープンラボ2019
「ナマモノのあつかいかた」

2017年から毎年開催されている、トークイベントを軸に、展示やライブコンサート、ワークショップなどを通じて、YCAMの研究開発活動を体験できる複合型のイベント。2019年はスロベニア、ガーナ、インドネシア、日本からバイオテクノロジーの専門家やバイオラボのメンバーを招き、バイオテクノロジーを通じて、その役割や、テクノロジーと創造性の関係の現在などについて考えるイベントを行った。2020年は、新型コロナウィルス感染拡大によって国内外の美術館や文化施設が一時閉館し、国際的な往来が困難になる中で、毎回1名のゲストスピーカーに話を聞くオンライントークシリーズを毎週1回配信した。スピーカーには2019年のオープンラボに参加したバイオラボのメンバーや専門家を中心に、他地域や他分野で活動する多彩なゲストを迎えた。全9回のトークのアーカイブ映像は上記URLから視聴できる。
https://www.ycam.jp/events/2019/openlab/
*7 g0v(ガブ・ゼロ)
2012年に台湾で誕生した開かれた政府を求めるオープンソースのシビックテック・コミュニティ。政府の政策や社会課題に対して、徹底した情報公開の精神のもと、テクノロジーを活用して市民による開かれた議論を行っている。
https://g0v.asia
Presenter Interview
2020.12.14
YCAM’s new Curator, and the Concept of Arts Professional Collectives 
コレクティブの発想で挑むYCAMの新キュレーター 
インドネシアの首都ジャカルタを拠点に、コミュニティに密着しながら、展覧会やフェスティバル、ラジオ放送、オンライン出版、調査・研究など幅広い活動を行うアーティスト・コレクティブ「ルアンルパ」(2022年に開催される「ドクメンタ15」のアーティスティック・ディレクター)。そのメンバーでもあるレオナルド・バルトロメウスが、2019年にメディア・テクノロジーを用いた表現を探究していることで知られるYCAM(山口情報芸術センター)のキュレーターチームに参画。インディペンデント・キュレーターとして、またルアンルパのメンバーとして様々なプロジェクトに携わってきた彼の横顔と、YCAMでのチャレンジについてのインタビュー。
聞き手:北川陽子

ルアンルパとの出会いが拓いたキュレーターへの道

──まずはバルトさんの経歴からお聞きかせください。アートに興味を持ったきっかけ、アートとの出会いはどのようなものでしたか。

 私は1987年生まれで、ジャカルタ近郊の小さな町の出身です。1990年代末のインドネシアでは、美術館やギャラリー、劇場などで「純粋な」アートに出会うのは簡単ではありませんでした(*1)。当時、一般に「アート」と言えば、大衆的なものか、またはインドネシアの伝統的な芸術のどちらかで、紙や壁に描かれた絵を指していて、必須なものとは認識されていませんでした。例えば日本では、子どもの頃から美術館に行って、絵画やインスタレーション、ビデオアートなどに触れる機会がありますが、インドネシアの私の世代の人々にとっては全く状況が異なっていました。
 強いて言えば、いわゆるビジュアルアートとの最初の出会いは、マンガやアニメを通してだったように思います。私が育ったところは伝統的なものや芸術に触れるライフスタイルが一般的な土地でもなかったので、私の同世代の多くはそうした大衆文化からビジュアルアートというものの大まかな印象を得ていたと思います。同時に、ビジュアルアート、音楽、演劇、映画など様々な芸術の間に明確な境界などなく、音楽のアルバムを買ったらそのアートワークとしてのビジュアルアートにも触れるし、映画を見れば音楽にも興味を持つ、そういう混沌とした状況でした。
 ですが、2005年あたりからインドネシアでもインターネットが普及し、以前より遥かに多くの情報を得ることができるようになっているので、今はおそらく違う状況だと思います。

──ジャカルタ芸術大学(IKJ)では陶芸を専攻されたのですね。なぜ陶芸を選んだのですか。
 実は、グラフィックデザイナーを志してジャカルタ芸術大学(IKJ)に進みました。当時、2005年頃ですが、グラフィックデザイナーというのは最先端の「イケてる」職業だったんです(笑)。でもどうしたらなれるかわからず、近道だと思って大学に進学しました。インドネシアでは他にバンドン工科大学(ITB)とインドネシア芸術大学ジョグジャカルタ校(ISI Yogyakarta)で芸術を学ぶことができましたが、前者は理系の試験科目があり、後者は芸術高校出身の志望者が多く、既に技能を身につけていることが求められるという印象がありました。それでその中間の存在だったIKJに進み、グラフィックデザインを学び、在学中からフリーランスで仕事を始めました。
 その後、陶芸専攻に移ったのですが、それは全くの成り行きです。仕事をしていたこともあって単位が足らず、教授に陶芸専攻に変わってはどうかと勧められました。フリーランスで仕事をする中で、キュレーターという仕事やアーティストの仕事を支える職人の仕事があることを知り、アートの歴史や理論、アートに関する言説などに関心を持つようになっていました。陶芸専攻は私しか学生がいないし、自由になる時間が多いだろうと考えて移りました。
 商業的な仕事をするプロフェッショナルの講師が多かったグラフィックデザインとは異なり、その頃の陶芸専攻の教授は作家ばかりで、アートを理解する際の視点が全く異なっていました。グラフィックデザインの考え方は非常に合理的で、クライアントがいて、ニーズがあり、デザイナーはクライアントの要望に沿って仕事をするということ。陶芸にもどんな形のカップが適しているかというような人間工学に基づいたデザインも必要ですが、教授たちはとてもリベラルで、自分の好きなようにやっていいと言ってくれました。グラフィックデザインから陶芸に移ったことで、こうした産業的な背景についての視点を持ちつつ、アートシーンに関与することができたのだと思います。
 陶芸科では学生は私一人、それに対して5人の先生がいて、彼らは私が課題を終えたかどうかいつでも見に来ることができたので、予想していようなパラダイスではありませんでした(笑)。それでも多少は時間に余裕ができたので、芸術史やキュレトリアル・ワーク、アートについての文章を書くこと、アートの批評の方法などを学ぶことができました。

──そうしたことをどのようにして学んだのですか。
 すべて自然につながっていったのです。大学にはとても良いライブラリーがあり、その蔵書からは多くを学びましたが、基本的に大学ではアーティストになること、芸術作品をつくる優れた能力が重視されていました。アートについてリサーチし、文章を書くのは意味があることとされていませんでした。もし学生がアートについて文章を書くことに力を注いでいたら、その学生は創作の能力が劣っているとみなされた。芸術史の授業は1学期しかなく、ヨーロッパや日本と比べて芸術の文脈に関する知識に触れる機会は本当に少なかったのです。
 そんなときに、アーティスト・コレクティブの「ルアンルパ」(*2)と出会いました。彼らがやっていたことは、「これがアートなのか?」と思わせるものでした。Tシャツの展覧会をしたり、フリーマーケット形式で作品を売ったり、インスタレーションやビデオアートの作品をつくったり‥‥。保守的でオールドスタイルの大学教育では得ることのできないアートの実践がそこにはありました。ルアンルパと出会って、アートの世界には自分がまだ知らない側面があるとわかった。おそらくその頃から、作品をつくることとは別の形でアートの世界でやっていく道があると考え始めたのだと思います。
 ルアンルパの影響は、同世代の同じ大学の学生たちにとっても非常に大きなものでした。彼らは時にとてもキッチュなものや、醜悪なものを提示し、時に非常に政治的・社会的な問題に関する展示をしていて、私たちにとって全く新しいものでした。彼らと出会ったのをきっかけに、私は文章を書き、友達の企画書を手伝い、展覧会を手伝うようになりました。最初にキュレーターとして関わったのは、国際交流基金のジャカルタ日本文化センターで開いた陶芸の展覧会でした。ジャカルタ、バンドン、ジョグジャカルタ、ソロの4都市の学生の作品を紹介するものです。企画書を作成し、国際交流基金と相談し、会場を設営し、スポンサーと交渉するといった展覧会をつくるプロセスに関わったのはその時が初めてでした。

──キュレーターという仕事についてどう感じましたか。
 とても重要な仕事だというのが最初の印象でした。その時、インドネシアには何人か著名なキュレーターがいることは知っていました。日本でも知られているジム・スパンカットなどです。それでもキュレーターの役割について明確なイメージを持つのは非常に難しかった。ヨーロッパや日本では、芸術史を専攻して、キュレーションについての講義を受けるといった道筋が見えますが、インドネシアではとても不明瞭でした。当時のキュレーターのほとんどはアーティストになるための教育を受けた人たちで、驚いたことにほとんどが陶芸出身!おそらく私と同じように、自由な時間が持てたからだと思います(笑)。
 自分にキュレーターとしての能力があるとも思っていなかったので、卒業後は衣料品販売の会社でヴィジュアル・マーチャンダイザーとして働き始めました。マネキンの準備をして、服を着せて、商品を置く棚やウィンドウをアレンジするという仕事はキュレーターに近いところがありましたが、同じ内容の繰り返し。これは続けられないと思い始めた頃、ルアンルパがキュレーションのワークショップをやるというので応募しました。応募者が少なく、開講されませんでしたが、その替わりに芸術批評のワークショップに参加しないかと誘われ、2週間参加しました。その後、ルアンルパのメンバーから連絡があり、彼らの展覧会のトークイベントでモデレーターをやらないかと。そこから彼らの活動に深く関わるようになりました。
 それ以降、ルアンルパと仕事をしています。いつメンバーになったのかと聞かれてもわかりません。どの時点でコレクティブに参加したのか、誰もわからないのです。2014年か2015年には、ルアンルパの年次総会のような大きなミーティングに参加してくれと言われました。そこでコレクティブの年間計画を話し合います。そして、2014年にルアンルパのギャラリー「ルル・ギャラリー」のマネージャー兼キュレーター兼経理マネージャーになりました。その後、ジャカルタ・アーツ・カウンシルや他のギャラリーなどでもゲストキュレーターとして仕事をするようになりました。確かその年、ルアンルパのアデ・ダルマワンから頼まれて、国際交流基金アジアセンターがジャカルタで実施した若手キュレーターのためのワークショップ(RUN & LEARN)(*3)のアシスタントを務めました。そのワークショップには私の友人も何人か参加していました。その時の講師はルアンルパのアデ・ダルマワンと、神谷幸江さん(当時・広島市現代美術館、現・ニューヨークのジャパン・ソサエティ)でした。

──その後、バルトさんは広島市現代美術館のインターンシップに参加されますが、そのつながりからですか?
 そうです。その年の夏に行われる日本の美術館でのインターンシップに推薦したいと、国際交流基金から連絡をもらいました。全く予想していなかったので驚きました。ワークショップの参加者は日本でインターンシップに参加することになっていましたが、自分が日本に行くことは考えていませんでした。それで、広島市現代美術館のインターン生になったら取り組みたいことについてのレポートを求められました。広島の美術館は全て、戦争の悲劇とその記憶に向き合おうとしていて、広島市現代美術館もコンテンポラリーな方法でそれに取り組んでいると知っていました。それで、なぜ彼らがそうしたことに取り組もうとしたのか、このセンシティブなテーマについて市民とどのようにコミュニケーションを取っているのか知りたいと考えました。そうして広島市現代美術館で1カ月半、インターンをすることになりました。

──国際交流基金とはそれ以前にもつながりがありましたか。
 高校生の頃、国際交流基金がアニメの上映会をやっていることは知っていましたが、そのぐらいです。1990年に国際交流基金はアセアン文化センター(*4)を設立し、東南アジアとの関係を築こうとしていました。その流れで、東南アジアの現代美術シーンにスポットライトが当てられ、とりわけルアンルパは親しい関係にありました。例えばアデ・ダルマワンは国際交流基金の展覧会のキュレーターを務めましたし、日本人アーティストがルアンルパと一緒にプロジェクトを実施したこともあります。特にここ2〜3年は、他の国の文化交流機関と比べてもその存在は非常に大きいものでした。美術の分野だけでなく、舞台芸術でも多くの事業を行っていて、映画や日本語の事業も同様です。こうした積み重ねで人間関係のネットワークやインフラが構築されていくのだと思います。広島でのインターンシップの後は、私も何かしら日本に関連したプロジェクトに関わるようになり、ほぼ毎年のように日本に来ています。


YCAMでのチャレンジ

──2019年からYCAMのキュレーターチームに参画されています。YCAMはメディア・テクノロジーを用いた新しい表現を探究しているアートセンターとして知られています。YCAMインターラボと呼ばれていますが、映像やネットワーク系のエンジニア、デザイナー、舞台技術者など、多彩なバックグラウンドをもつ専門スタッフが在籍しています。海外からアーティストを招聘し、滞在制作することも多いです。そのメンバーになられたわけですが、YCAMとの出会いを教えてください。

 広島市現代美術館でインターンをしていた時に初めてYCAMを訪ねました。他の美術館の学芸員やディレクターにインタビューし、彼らがどのように市民との関係を構築しているのかをリサーチする一環でした。YCAMは最も取材したいところのひとつでした。先ほど話したジャカルタでのキュレーター・ワークショップにYCAMの学芸員だった井高久美子さんが参加していて、その時の彼女のプレゼンテーションがとても印象的だったからです。
 当然ながらYCAMは他の美術館とは全く違っていました。もちろん、YCAMが美術館ではなくアートセンターだということもありますが、初めからとても打ち解けた雰囲気でした。キュレーターの吉崎和彦さんからYCAMに誘われた時、最初はルアンルパと何かプロジェクトをやりたいのだろうと思いました。YCAMではマレーシアの演出家でキュレーターでもあるマーク・テとのコラボレーション・プロジェクト(*5)を終えたばかりだったからです。ルアンルパではなく私の履歴書を送るように言われて初めて、インハウス・キュレーターをオファーされたのだとわかり、とても驚きました。私はメディアアートの専門ではなく、インドネシアではひとつの分野に特化できるような状況もなく、自分が「キュレーター」なのかどうかも判然としていませんでした。でも、YCAMにいる自分の知っている人たちへの敬意の念から応募しました。

──YCAMのインハウス・キュレーターになることになり、どう思いましたか。
 最初は、ルアンルパの友人たちも私も、YCAMのシステムにフィットできるか心配しました。キュレーターとしてはどこにでも行って何でもやるというラディカルな姿勢で仕事をしているので、YCAMがどのように動いているか把握していませんでしたが、とにかく試してみようと思いました。
 YCAMに来てまず驚いたのは、ヒエラルキーが無いと感じたことです。全員が同じフロアにいて同じデスクを使い、上下関係が無い。また、インターラボのスタッフの多くが、かつて、時には今もインディペンデントのアーティストとして活動していることを知り、やりやすいと思いました。アーティストがどのような種類の人々か、良くわかっているからです。ここで働くことは、組織化されてはいますが、アーティスト・コレクティブであるルアンルパでの仕事と似ていました。それぞれ担当する業務はありますが、同時に他のプロジェクトについて意見を言うこともできる。こうした環境なら仕事をすることができると思いました。ただ、私には公的な機関で働いた経験がないことが心配でした。ここは市民の税金によって事業をしています。ですから、この地域の公的機関であるという意識を常に持って、どうやったら適切に機能するかを考えています。地理的にも、政治的にも、歴史的にも、山口県と山口市はとても特別な伝統と歴史のある場所で、それにインスパイアーされています。
 アーティスト・コレクティブでの経験から、私はキュレーターを他よりも上のポジションとして見たことはありません。他のキュレーターがどう思っているかはわかりませんが、私はキュレーターとはファシリテーターのようなものだと思っています。キュレーターは2つの異なる集団を橋渡しする仲介者で、それを視覚的あるいはその他の方法で見せることを求められる。それがルアンルパで学んだことです。全ての決定権があるのがキュレーターだと考えたことはありません。
 私がYCAMで最初に興味を持ったのは、独立したエデュケーション専門のチームがあることでした。現在、世界的にも大きな変化が起きていて、著名な美術館がエデュケーションチームを前面に出していこうとしています。もちろんそれにはいろいろな理由がありますが、とても良いことだと思っています。アートは人々との間に垣根をつくり上げるのではなく、彼らを惹きつけるものであるべきだからです。

──YCAMでは海外からアーティストを招いた国際共同制作や、2017年から開催している「オープンラボ」(トークイベントを軸にYCAMの研究活動を体感できる複合型イベント)(*6)のような海外ゲストを招いた取り組みも多いです。こうした国際的な活動についてどのようにお考えですか。
 難しい質問ですね。国際的なものに触れることはもちろん有益なことですが、ローカルな文脈を置き去りにしてしまいがちです。ビエンナーレ、トリエンナーレ、芸術祭などでしばしば起こっていることです。私は“国際的”という考え方そのものが少し廃れてきているのではないかと思っています。今はインターネットがあるので、自分でアーティストを探すことができて、彼らと実際に会い、作品の展示を見に行くこともできます。簡単に話せる問題ではありませんが、私に言えるのは、YCAMではアートシーンにおいて国際的な対話をするのと並行して、地元の市民も巻き込んでいくというフィフティ・フィフティの道を探っているということです。それは今、多くの美術館やアートセンターが苦労しながら取り組んでいることでもあります。

──2020年のオープンラボ「続・ナマモノのあつかいかた」は新型コロナウイルス感染症が世界的に拡大する中、オンラインで開催されました。8つのセッションがあり、毎回、海外のバイオラボのメンバーやアーティストなど1人ずつゲストを招き、YCAMバイオリサーチのメンバーとのトークセッションが行われました。バルトさんもキュレーターとして参加されていて、とても面白く拝見しました。
 2019年のオープンラボはアーティストユニットのcontact Gonzoによる展覧会の関連事業として企画されました。吉崎さんとYCAMのバイオリサーチのチームが関わり、「バイオテクノロジー」をテーマに、なぜバイオアートがアートシーンで重要なものとなっているか、バイオアートが将来どのようなものになり得るかに焦点を当てました。私はそのリサーチには参加していませんが、吉崎さんがガーナやスロベニアでバイオラボの専門家と対話して得た最新情報をたくさん教えてもらいました。バイオアートが生物学の世界とアートの架け橋になれば、市民にとって生物学がもっと理解しやすくなるだろうと思います。
 新型コロナウィルスを踏まえて、改めてバイオアートについて話してみるべきだろうと考えました。バクテリア、ウィルスなど生物学に関わる全てについて我々がどう理解するかは、パンデミックとも関係しているからです。さらに、様々な人に話をしてもらい、多様な視点を取り入れることで、このパンデミックがいかにアーティストやアートセンターとしての私たちの仕事のやり方に影響を与えているか、そして今後同じような危機にどう対応するかについて考えることができるだろうと考えたのです。それで今年は、バイオアートに関係するスピーカーに加え、台湾のシビックテック・コミュニティ「g0v(ガブ・ゼロ)」(*7)のベス・リーと、スロベニアのリュブリャナ近代美術館のキュレーターで芸術における政治的問題に関心をもつボヤナ・ピシュクルをゲストで招きました。それによって市民活動や、それがどのようにアーティスティックな実践に関わるかなど、トークセッションの話題が広がったと思います。

──YCAMで今後取り組みたいプロジェクトはありますか。
 「オルタナティブ・エデュケーション」というテーマで、3年計画のプロジェクトを提案しています。社会におけるアートと芸術機関の機能について調べるというのが主旨です。もちろん、アートは人々の行動様式に影響するという点で、社会において一定の機能を果たしています。私が調べたいのはそこではなく、他の美術館や芸術機関が「どのように市民に対して開こうとしているか」ということです。そこから「オルタナティブ・エデュケーション」という大きなテーマが見えてきました。
 世界で行われている典型的な教育システムを取り上げると同時に、アートが学びの源泉となり得るかについて議論したいと思っています。それは、アーティストや芸術機関が批評性をもってどういったことができるのかについて理解することでもあります。インドネシアでは、そしておそらく日本でも、例えば歴史的な問題などについて人々が学ぶべき内容をコントロールする巨大な存在があります。インドネシアでは、歴史教育に関する検閲があり、例えば社会主義や共産主義については歴史教育から排除されています。ですが、アートやアーティスト、芸術機関は、そうしたセンシティブなテーマについて、異なる視点をもって語ることが可能です。物議を醸す内容であってもアートだからこそできることがあり、そうしたことについて話す安全な場所のひとつになりえます。日本でもアート・コレクティブやアーティストが運営するアートスペース、NPOなどそうしたアプローチをしているところがいくつかあります。芸術機関をもっと社会に開き、一般の人々を対話に巻き込んでいくことはとても興味をそそるテーマです。これが、私がこれから3年かけて取り組みたいと思っていることです。
 「オルタナティブ・エデュケーション」はプロジェクトのタイトルではなく、むしろ「オルタナティブ」と「エデュケーション」という言葉の組み合わせから生まれる批評的な意味合いを持つコンセプトで、とても興味深いと思います。「オルタナティブ」は、選択肢がある、何か別のことができるということを意味しています。政治についてダンスによって語ることもできるし、演劇によって歴史を、音楽によってマイノリティを語ることもできます。たくさんの可能性があります。大切なのは、どうすれば「啓蒙」のプロセスにならないよう取り組めるかということ。「我々は美術館、アートセンター、アーティストだから芸術を理解しています。あなた方が学ぶべきものはこれです」という態度ではなく、対話をするのが望ましい。アーティストであっても、パフォーマーやキュレーターであっても、結局は社会の一員です。道で会っただけの見知らぬ人と同じ考えについて話し合うことは不可能ではありません。どうすればもっと対話をオープンにできるか、私が考えているのはそこです。簡単ではないし、ジャカルタで経験したものとは異なる課題に直面することもあるでしょう。ですが、YCAMにとって良い経験になると思います。お互いがハッキングしあっているような感じで、YCAMのリソースをもっと公共のために開くことに取り組みたいと思っています。


ルアンルパについて

──ルアンルパはドイツのカッセルで開催される世界で最も注目される現代美術展「ドクメンタ15」のアーティスティック・ディレクターに起用され、話題となっています。ルアンルパについてもう少し詳しく知りたいのですが、設立の経緯から教えてください。

 ルアンルパはアーティスト・コレクティブですが、時間をかけて変わってきました。当初のメンバーはほとんどがアーティストでしたが、徐々に人類学者、政治学や社会科学の学生など多様な人々を引き込み、開かれたものになっていきました。ですが、ルアンルパは自分たちにレッテルを貼って分類することを決してやらないので、外から見てわかりづらいだろうと思います。私にとって、「ルアンルパを辞めたのですか?」といった質問もなかなか答えるのが難しいです。ルアンルパには入会や脱退というメンバーシップのメカニズムがないからです。数年海外に勉強しに行った後、また戻ることもできます。私がYCAMに来る前は、ルアンルパはジャカルタの他の2つのコレクティブ、SerrumとGrafis Huru Haraと共にアートのエコシステムの研究と実践にフォーカスしたプラットフォームを作ろうとしていました。
 ルアンルパは大きく分けて2種類の助成金を得て活動しています。他のコレクティブも同様だと思いますが、1つが団体に対する助成金(事務所の家賃や光熱費など、団体の必要経費に対する支援)、もう1つがプロジェクトベースの助成金です。例えば若い学生にフォーカスしたプロジェクトであれば文化教育省にアプローチしますし、労働問題や信仰に関するプロジェクトであれば別の資金援助団体にコンタクトします。ほとんどの場合、インドネシアのアート・コレクティブはそうやって活動を続けています。助成金はカットされることもあるので、アート作品やTシャツを販売したり、展示の設営などの仕事をしたりして、自己財源を確保しているところもあります。
 インドネシア政府には、アーティストの活動を支援する基金を設立し、私が思うにシンガポールのアーツ・カウンシルのような組織を立ち上げる計画があるようですが、いつ実現するかはわかりません。ルアンルパだけでなく、インドネシアではコレクティブという形がポピュラーなのですが、それはなぜかと言うと生き抜くために協力する必要があるからです。非常に成功したアーティストでない限り、仲間と協力するしかないのです。その基金がいつ設立されるかわかりませんが、もしうまくいけば、将来のインドネシアのアートシーンは我々が経験しているものとは全く違うものになっているかもしれません。

──ルアンルパがドクメンタのアーティスティック・ディレクターになったことについて、どのように受け止めていますか。
 そうですね。実は私はルアンルパでドクメンタに行きたいという話を聞いたことはありません。キュレーターやアーティストになるには、ある一定の道筋というものがあります。グループ展から始まって、ギャラリーに所属するようになり、ビエンナーレやトリエンナーレに招待されて‥‥。ドクメンタはそうしたものの頂点です。ルアンルパに声をかけたということは、ドクメンタはおそらく一人のキュレーターがたくさんのアーティストをキュレーションするという既存のモデルに対するオルタナティブを探そうとしているのではないでしょうか。
 ルアンルパの10名のメンバーがドクメンタのディレクションに関わることになっていますが、私はそのメンバーではありません。今のところ、世界中の他のコレクティブに関わってもらおうとしているようです。ジャカルタでやっていることと同じことをやろうとしているのです。コレクティブを招いたのに、そのコレクティブがひとりのキュレーターのようなやり方をするのは矛盾していますから。10人のメンバーをドクメンタに参加させる意味はそこにあり、個人ではなく複数の人間にこそ可能なことをやろうとしていて、私の理解では、彼らはもっと大きな、グローバルなコレクティブをつくろうとしているのだと思います。
 コレクティブのあり方で理解すべきことは、コレクティブが個人の知見を活用する時、そこに成長の可能性が生まれるということです。それこそコレクティブの正しい機能の仕方であり、だからこそ、ルアンルパはメンバーの入会や脱退のようなシステムを持たずに続けているのです。自分が彼らにどのような貢献ができるか、それはずっと私の頭にあります。今、私はYCAMのスタッフですが、同時にルアンルパにも属していて、どちらかを選ぶということではなく、YCAMとルアンルパ双方に対して自分は何ができるかを考えています。私の持つリソースによって、ルアンルパを通して何ができるか、または私自身が持つネットワークを通してYCAMに何をもたらすことができるか、YCAMの持つリソースによって自分が何をできるか。私はキュレーターとしてのキャリアを目指そうとはしてなくて、この先、もしかしたら農業をやりたくなるかもしれないし、大学で教えるかもしれません。決して決めつけず、今やるべきことに注力したいと思います。

──とても面白いお考えをお聞かせいただきました。最後に、アーティストにとってのテクノロジーの可能性について、ご意見をお聞かせください。
 芸術のコミュニティや芸術機関にとって極めて重要なことは、テクノロジーに対して批評的なアプローチをすることです。もちろん、テクノロジーを使って美学的なアプローチをするアーティストもいます。それももちろん良いのですが、テクノロジーとアート双方にどのような批評的な視点を提示できるかも大切です。なぜなら、アートは新しいテクノロジーに対して、実験することも、問いかけをすることも、批評することも、そして受け入れることもできるからです。問題はアーティストがテクノロジーのユーザーの立場に立つか、プロデューサーの役割を演じるかです。アート作品をつくるためにテクノロジーを利用する場合もあれば、もっと踏み込んで、ハッキングのようなことをしたり、将来の予測をしたり、テクノロジーの中にどのような危険が潜んでいるかという問題を扱う場合もあります。つまり我々は、社会に対してテクノロジーについてのさまざまな見方を提示することができるのです。
 芸術機関はテクノロジー企業と競争することはできません。いつもテクノロジーの進化の方が早く、ある時にあるテクノロジーを使っても、次の年には新しいものが登場してしまう。それは、常に現在の状況より一歩、二歩先を目指すテクノロジーの性質によるものです。私の個人的な意見ですが、我々は逆にそのプロセスをもっとゆっくりしたものにすることができます。だからこそ、我々がどのようにテクノロジーを利用するか、またテクノロジーがどのように自らの外部にある事柄──例えば、障害や歴史や政治──について語るか、批評的にアプローチすることが重要になるのです。
 テクノロジーを芸術的な創作のための媒体として使う方法には無限の選択肢があります。例えばバイオアートでは、動物の血を人間の体に注入するといったような非常にラディカルなアプローチをしているプロジェクトがあります。もちろん、テクノロジーを使って自己表現をしたいのであれば、何も制限はありません。しかし、そこで重要なのは、生物学と社会、双方に何を還元できるかということです。アートがどれだけ知的なものになろうとも、科学にとって代わることはできません。科学はこれからも自らの道を行くのです。しかし、そういう科学に対するアートの役割は何千年も前から常に存在していました。アートは常にコミュニケーションのひとつの手段であり、人々が自分たちの外にあるものを理解するためのツールでした。おそらく、ある種の原始的な生活をしている民族が、神に祈り、収穫の季節を祝うための祭礼の一部として踊りを用いる時も同様だと思います。今は異なる様々な要素がありますが、それでもアートの役割は同じで、我々はアートによって異なる様々な事柄について話し合うための仲介者となれるのです。
 
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