The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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小野晋司
小野晋司


横浜ダンスコレクション2021
[会期]2021年2月4日〜21日
[会場]横浜赤レンガ倉庫1号館、横浜にぎわい座 のげシャーレほか
[主催]横浜赤レンガ倉庫1号館[(公財)横浜市芸術文化振興財団]
[共催]在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
http://yokohama-dance-collection.jp/
コンペティションⅠ
審査員賞、城崎国際アートセンター(KIAC)賞
高橋萌登『幻モキュメント』

撮影:菅原康太
幻モキュメント

コンペティションⅡ 新人振付家部門
最優秀新人賞
女屋理音『I’m not a liar.』

Photo: Oono Ryusuke
I’m not a liar.

横浜ダンスコレクション2021 表彰式
撮影:菅原康太
横浜ダンスコレクション2021 表彰式

「振付家のための構成力養成講座」
対話の様子
振付家のための構成力養成講座


*1 横浜ダンスコレクション コンペティションⅠ 海外での活動を副賞とする賞
若手振付家のための在日フランス大使館賞
ポロサス寄付基金Camping賞
MASDANZA賞
シビウ国際演劇祭賞
第3回HOTPOT 東アジア・ダンスプラットフォーム
(2020年2月11日〜16日)

https://youtu.be/rvdCuMWSvcA

AND+
(アジア・ネットワーク・フォー・ダンス)

2018年5月 香港・West Kowloon Cultural Districtで設立
AND+(アジア・ネットワーク・フォー・ダンス)
*2 Dance Dance Dance @YOKOHAMA
 開催年  来場者数  プログラム数
 2012  125万人  181
 2015  371万人  216
 2018  529万人  260
(『創造都市横浜』より)
Presenter Interview
2021.3.29
Yokohama Dance Collection  Its vital role supporting Japan’s contemporary dance 
日本のコンテンポラリーダンスを支える 横浜ダンスコレクション 
今年26回目を迎えた日本を代表するコンテンポラリーダンスのフェスティバル「横浜ダンスコレクション 」。コンペティションを柱として、これまでに400組がファイナリストとして作品を上演し、110組を超える受賞者が国内外で活躍。2016年からその共同プロデューサーを務めているのが主催者である横浜赤レンガ倉庫1号館の館長・小野晋司だ。「HOTPOT東アジア・ダンスプラットフォーム」や「AND+(アジア・ネットワーク・フォー・ダンス)」など海外のダンスフェスティバルとのネットワークの構築を推進するなど、コンテンポラリーダンスの発展とダンスアーティストの活動環境の向上に尽力する小野のバックグラウンドに迫るロングインタビュー。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

横浜ダンスコレクションのあゆみ

──今年度26回目を迎えた横浜ダンスコレクション(以下、ダンコレ)は「首都圏で毎年開催される国際ダンスフェスティバル」としては、ほとんど唯一の存在です。長年にわたり新人の登竜門としての役割を果たすなど、日本のコンテンポラリーダンス界に貢献してきました。第1回から拝見していますが、時代にビビッドに対応してその内容を変えてきました。今年度はコンペティションⅠ・Ⅱ、昨年度の受賞者公演、国際プログラム(コロナ禍のため映像作品に変更)やシンポジウム、構成力養成講座などが行われました。

 コロナ禍での開催となりましたが、コンペティションは例年通り活動歴のある振付家向けのⅠと若手(25歳以下)向けのⅡが行われました。Ⅰには12カ国・地域を拠点に活動する83組の応募があり、4カ国10組がファイナリストとして上演審査に臨みました。渡航・移動制限があったため、舞台全面に投影する映像上演も審査対象として行いました。苦肉の策ですが、新しい可能性を示すのではという意見も寄せられました。
 
──今年度は新しい試みとして「振付家のための構成力養成講座」が始まりました。海外のダンス関係者から「日本は良いダンサーは多いが、作品を構築する力が弱い」と指摘されていたので、まさに必要なプログラムだと思いました。
 過去受賞者を対象として、北村明子をファシリテーターに、ベルギー拠点のアラン・プラテルと韓国拠点のキム・ジェドクをメンターに迎えて、6名の振付家が対話を重ねながら過去作の再創作に取組みました。コロナ禍のためにプラテルとジェドクは来日できませんでしたが、レクチャーやワークショップをオンラインで実施していただくなど、彼らの創作姿勢や個人史に直接触れる機会を設けることができました。

──まずはダンコレの歴史を振り返ってみたいのですが、1996年に開催された第1回の会場は横浜赤レンガ倉庫1号館ではなく、横浜ランドマークホールでした。
 そうです。ダンコレがスタートしたときは、フランスのバニョレ国際振付コンクール(以下、バニョレ)の日本推薦会(ジャパンプラットフォーム。2000年からヨコハマプラットフォーム)を兼ねていたことで注目を集めました。2002年に“港の賑わいと文化を創造する空間”として横浜赤レンガ倉庫がオープンして以降、ここが主会場になっています。

──当時、バニョレは世界のコンテンポラリーダンスの登竜門で、勅使川原三郎も1986年の受賞をきっかけに世界に羽ばたきました。日本にとって世界のダンスに直結した数少ないプラットフォームが誕生し、「後に続け!」という機運が盛り上がりました。ただ第1回のバニョレの日本推薦会が行われたのは、東京・渋谷の「こどもの城」にあった青山円形劇場でした。
 そもそもはバニョレの芸術評議委員を務めていた青山劇場・青山円形劇場のプロデューサーの高谷静治さんが日本推薦会を誘致したのがはじまりです。同じく芸術評議委員だった横浜市芸術文化振興財団の石川洵さん(2003年に横浜赤レンガ倉庫1号館館長に就任)と協力したことで、横浜のダンコレが立ち上がったと聞いています。

──当時の日本では、コンテンポラリーダンスという言葉も定着していない時期でした。バニョレとダンコレは、日本のダンスにとって大きな指針になりました。
 伊藤キム、白井剛、梅田宏明など、世界的に活躍する人が出てきました。しかし、1996年からバニョレがコンペティションからフェスティバルへと移行し、ダンコレもそのあり方を問い直さざるをえなくなりました。そこで2000年から「ソロ×デュオ・コンペティション」をスタートさせたり、フランスにレジデンスできる「若手振付家のための在日フランス大使館賞」を創設したり、ワークショップなど公演以外のプログラムにも力を入れるようになりました。

──内容の改訂とともに名称が変わり、05年から最後に「R」、11年には「EX」がつきました。2016年から再び元に戻りましたね。
 「R」ではアジアのダンスマーケットの開拓を目指し、「EX」では新人振付家部門として「コンペティションⅡ」が創設されました。海外のフェスティバルからのゲストも増え、海外での活動を副賞とする賞(*1)も増えていきました。また、2011年から同時期に横浜で開催されるようになった「TPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)」と連携することで相乗効果が生まれ、海外の数多くの舞台芸術関係者が日本のダンスアーティストと出会う機会となっています。

──海外のフェスティバルとの連携は賞だけでなく、2017年には「HOTPOT東アジア・ダンスプラットフォーム」という新たなプラットフォームも立ち上がりました。
 HOTPOTは、横浜(ダンコレ)・香港(City Contemporary Dance Festival)・ソウル(SIDance)の各フェスティバルが連携し、毎年持ち回りで開催しているものです。第3回となった昨年は、横浜赤レンガ倉庫1号館が主催し、2月に東アジアを拠点とする振付家の12作品を上演しました。コロナ禍のため一部来日できなかったカンパニーもありました。
 HOTPOTを始めたのは、ダンコレと関係を築いてきた海外のダンスコミュニティに対し、日本をはじめアジアのダンスアーティストを後押しするようなプラットフォームが必要だと考えたからです。アジアだけではなく、ヨーロッパや北米からもディレクターやプログラマーを招いて、対話・交流する。他にも城崎国際アートセンターや、ヨーロッパ拠点の若手を世界に紹介するネットワーク「エアロウェーブス」との協働も始まっています。またアジアで同時代の実践に関わる同業者がコアメンバーとして活動する「AND+(アジア・ネットワーク・フォー・ダンス)」での対話や協働も積極的にやっていきたいと思っています。

──2011年に東京から横浜に移って以来、同時期に行われきたTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)とも緊密な連携を取ってきましたよね。
 TPAMは横浜の様々なステークホルダーとの連携を強化することを目指して、2021年12月に「YPAM - 横浜舞台芸術ミーティング」(仮称)として再スタートします。そのため、ダンコレも来年度から12月に会期を移して、さらに繋がりを深めたいと考えています。それぞれの持ち味を活かして、プログラムを多層的に重ねることでダンスをより社会に開く展開ができないか常に考えています。

──ちなみに、小野さんが館長を務める横浜赤レンガ倉庫1号館では2020年末に新たな「振付家制度」を始動させました。
 ヨーロッパのアソシエイト・コレオグラファー制度にイメージが近いかもしれませんが、国内外での活動実績のある振付家を公募で選出し2年間協働します。具体的には年上限200万円の創作・上演活動支援の他、当館の専門人材と相談しながら創作活動、上演活動、教育普及・社会包摂活動と、こうした活動の記録・公開を行います。40名ほどの応募があり、現在選考中です。ダンコレやHOTPOTで世界につながり、この振付家制度で横浜市内の文化拠点や地域コミュニティとの関係を深めることができればと思っています。


民俗芸能が出発点

──小野さんのバックグラウンドについて伺わせてください。コンテンポラリーダンスとの出会いはどのようなものでしたか。

 実はコンテンポラリーダンスとの出会いはとても遅くて。大学のときにプロデュース研究会というサークルの友人たちと活動する機会が多くあってプロデュースに興味を持ち、在学中にその友人達と起業をしたのですが、25歳の頃に違った方向に目を向けたくなりニューヨークへ行って、ミュージカル作品を観る機会に恵まれました。当時のブロードウェイでは『オペラ座の怪人』や『サラフィナ』など面白い作品が沢山上演されていて、何度も劇場に通いました。それが一つのきっかけになり、舞台に関わる仕事をしたいと思うようになりました。

──舞台芸術との出会いはミュージカルだったのですね。ニューヨークにはどのぐらい滞在したのですか。
 1年ほどです。ちょうど1989年(昭和64年)1月の昭和天皇崩御のあたりです。その後、ご縁があって日本民族芸能国際交流協会からお誘いを受けて、海外の民俗芸能を調査して招聘したり、日本の団体を海外に派遣したりといった国際交流事業に携わることになりました。様々なプログラムを通じて国際交流基金のみなさんにとてもお世話になりました。1980年代は国際文化交流が盛んになった時期で、世界各地の民俗芸能も注目され、リサーチはアジアが中心でしたが、スペインやフランスなどを含めて30カ国ぐらい調査に出かけたと思います。13年程そこで仕事をしていました。今、コンテンポラリーダンスを考える時に「ローカリティから独自の振付言語を立ち上げる」ことに挑んでいるアーティストに興味があるのは、この頃の経験が影響しているのかもしれません。

──10年以上にわたって関わった民俗芸能を今の視点で見直したとき、印象に残っていることはありますか。
 こういうコロナ禍の状況では特に、神楽等の民俗芸能の本質について考えます。観衆が一人もいなくても自分たちは舞うんだという神楽を継承する人たちの気持ち、その土地の芸能が本来持っている意味について改めて考えます。2000年代前半にスーザン・バージ(フランスのコンテンポラリー・ダンス黎明期に活躍したアメリカ生まれの振付家)と協働して石見神楽と太鼓奏者による作品を創作し、フランスと日本で上演したのですが、もっと深い考察ができたかもしれないと思うところがあります。

──その後、青山劇場に移られます。きっかけはどのようなものですか。
 ユネスコの公式諮問機関である国際組織CIOFF(International Council of Organizations of Folklore Festivals and Folk Arts)が主催する国際イベントに「ワールドフォークロリアーダ WORLD FOLKLORIADA」があります。世界80カ国以上の無形文化の継承者が参加する多様な民俗文化の祭典ですが、コロナ禍のため1年延期されて今年の夏にロシアのウファで6回目を開催する予定です。そのフェスティバルを2000年に東京・渋谷をはじめ全国8カ所で開催することになり、私もプロデューサーの一人として携わりました。青山劇場・青山円形劇場も主催に加わり、公演などのプログラムを行っていただき、当時、劇場事業部長を務めていた高谷静治さんと出会ったことがきっかけです。


プロデューサー高谷静治の存在

──高谷静治さんは日本のダンスに多大な功績のある方です。1986年に青山劇場で「青山バレエフェスティバル」をスタートし、権威あるローザンヌ国際バレエコンクールの決勝大会を誘致した。決勝大会がローザンヌ以外で行われたのは、長い歴史の中でたった3回、日本、ニューヨーク、モスクワだけです。コンテンポラリーダンス黎明期にバニョレ国際振付コンクールの日本推薦会を誘致し、また、東京ではほとんど唯一の国際ダンスフェスティバル「ダンスビエンナーレトーキョー」を始めるなど、日本のダンスの環境を切り開いてこられました。惜しいことに2010年にお亡くなりになりました。

 高谷さんは、スケールの大きなプロデューサーです。日本のコンテンポラリーダンスもアーティストのための創造基盤が重要だと考え、バニョレの日本推薦会(ジャパンプラットフォーム)を誘致して、1991年に青山円形劇場で実現しました。その後、2回目(1994年)は草月ホール、3回目(1996年)から横浜のダンコレに移った経緯があります。

──ジャパンプラットフォームは日本のダンスの新しい時代を開く、革新的なイベントでした。第1回受賞者は黒沢美香、第2回受賞者は竹内登志子や山﨑広太など、若い頃のH・アール・カオスや北村明子もここから出発しています。


青山劇場でスタートした「ダンスビエンナーレトーキョー」

──そうした背景がある中で、小野さんが青山劇場のプロデューサーになったのが2001年です。2002年に予定されていた「ダンスビエンナーレトーキョー」の開催準備中だったのではないですか。

 高谷さんとプロデューサーの平岡久美さんとの3人チームで準備を始めました。第1回のダンスビエンナーレでは、海外からオハッド・ナハリンやアマンダ・ミラー、ジョン・ジャスパース、日本から白井剛、黒田育世、山田うん、岩淵多喜子などが参加し、青山劇場と青山円形劇場を会場として11日間で24組の公演を行いました。

──東京で、これだけの規模の国際ダンスフェスティバルが行われたのは初めてで、社会的にも大きなインパクトがありました。若手ダンサーにすれば「やっと自分たちが活躍できる大きな場ができた」という、暗いトンネルを抜けたような開放感がありました。
 白井剛主宰のStudy of Live works 発条ト『Living Room』は、2000年にダンコレで受賞した作品を2年後にビエンナーレで上演するというもので、フェスティバル間の連携も意識していました。この作品を1200席ある青山劇場で上演しましたが、高谷さんはこのような挑戦を恐れない人でした。コンテンポラリーダンスをそこまで持っていきたいという強い思いがあったのではないでしょうか。
 少しずつ変わりはじめてはいましたが、アーティストの創造環境が不足していることは実感していました。公的支援を獲得しながら、まずはこのフェスディバルを持続していくことが私自身の役目かなと思っていましたし、様々な状況を考慮して開催サイクルを変えて、2006年からは3年に一度のダンストリエンナーレとしました。

──02年・04年がビエンナーレ、06年・09年・12年がトリエンナーレとして開催されました。公的なサポートが不足しているのは常に課題になるところですが、そんな中、青山劇場や横浜赤レンガ倉庫1号館等の限られた劇場が孤軍奮闘してきた。海外と交流できるチャンネルを開き、必要な場合は海外招聘されたダンサーにスタッフを随伴させて通訳などのサポートまでしていた。若くてスタッフのいない日本のダンサーは大いに助かったと思います。
 残念ながら、その状況は今もあまり変わっていないかもしれません。私自身の反省も含めて、日本やアジアで制度としてダンスのつくり手の創造環境をしっかり整備できているところは多くありません。横浜赤レンガ倉庫1号館では、多層的にプログラムを構成しながら、制度として定着できないか模索しています。もちろん制度はすぐに古くなりますので、社会状況に合わせて更新して運用していく必要があります。でもそういう取り組みを、日本をはじめアジアでも歩調を合わせて協働するパートナーがないとムーブメントにはならない‥‥。フランスのように国レベルで「創造活動やリサーチを行い、かつ普及やアーカイブ、学術的な活動も行う振付センターやダンスセンターのような機関」ができるといいのですが、なかなかハードルは高い。可能性があるとすると、横浜のような場所がイニシアチブを持って制度や機関を立ち上げて、国のサポートを受けるという進め方かもしれません。

──先に自力で実績を作らないと国は動かないということでしょうか。ダンスビエンナーレトーキョーでいろいろなアーティストとの繋がり、あるいは劇場同士のネットワークが生まれ、それが協会とまではいかなくても組織化されて創造環境の改善に立ち上がるといった機運は生まれなかったのでしょうか。
 そこが本当に反省点ですし、残念なところです。2014年の第2回ダンスビエンナーレから、同じ青山にあるスパイラルの小林裕幸さん(現在、スパイラル館長)と宮久保真紀さん(現在、ダンス・ニッポン・アソシエイツ代表理事)と相談して、このフェスティバルを共同して開催することになりました。ファッションをはじめ文化の発信地でもある青山という文化複合的なエリアでふたつの拠点が連携し、面的な広がりをつくってきました。ただダンスアーティストの活動を支えることはもちろん視野にありましたが、ダンスに携わる人が連帯する組織のような発想まではその当時はなかった。そのような連帯を組めなかったことが、今回このコロナ禍で大きな影を落としたと思います。

──青山劇場ではフェスティバル以外にもいろいろなダンスの主催事業を行っていました。
 劇場で創作して上演することが環境整備に繋がっていくと考えて、新作公演のシリーズ「TOKYO DANCE TODAY」を、年2回ぐらいのペースで行いました。また、日本と韓国の若手ダンサーたちの対話・交流の場として日韓の劇場が共同で企画して交互開催する「日韓ダンスコンタクト」、ソウル・モントリオール・東京の劇場がそれぞれで選んだアーティストと作品がツアーするプログラムも企画しましたが、劇場の連携だけではなく、アーティスト間の連携に繋がるよう意識して取り組んだつもりです。


こどもの城の閉館により横浜へ

──さてそれだけ重要だったこどもの城が、突然閉館することになりました。2012年9月28日に厚労省がいきなり「15年3月末をめどに閉館する」と発表。これを受けてこどもの城を運営していた児童育成協会が「15年1月23日で閉館」するとし、最終的には15年1月30日に閉館しました。

 厚労省の発表が新聞に載ったのは、ダンストリエンナーレトーキョー2012が開幕した翌日で、私を含めて現場はこのニュースで初めて知りました。協会の上層部は話し合っていたのかもしれませんが。

──ダンストリエンナーレで注目を集めている最中の発表で、社会の耳目を集めました。閉館理由にも曖昧なところがあり、反対の署名運動が起こってマスコミにも大きく取り上げられました。跡地利用に関しても噂が出ては二転三転し、2021年3月現在もそのままの状態です。
 当時はショックでしたが、今になって振り返ってみると、劇場としてもっと広い視野を持つことも必要だったのではないかと思っています。1985年の開館以来、演劇・舞踊・音楽のそれぞれの分野で際立った活動を展開していましたし、次世代育成のための活動も高く評価されていました。でも、もっと広く社会と繋がって活動の価値を伝えていくこと、様々なステークホルダーとコミュニケーションしていくといった視点が足りなかったかもしれない、という反省があります。

──閉館してから横浜に移るまではどのような活動をされていましたか。
 2014年からフェスティバルの名称を「Dance New Air(DNA)」としたのですが、青山を舞台にした国際ダンスフェスティバルは、コンテンポラリーダンスが発展していく首都圏の核になると思っていたので継続の方法を探りました。そこで2015年5月にこのフェスティバルの実行委員会を母体として一般社団法人ダンス・ニッポン・アソシエイツ(DNA)を立ち上げ、スパイラルとしっかりと協働して継続する体制をつくることができました。

──あらためて「フェスティバルによって創造環境を整える」とは具体的にどういうことでしょう。
 フェスティバルは既成の概念や境界を飛び越える装置と言うことができます。そして作品の上演だけでなく、多様な交流機会やワークショップ、観客創造のためのプログラムなどを行う他、新作の創作や領域横断型のコラボレーションのためのアイデアや場所・資金の提供などやるべき事は多岐に渡りますが、そのようなすべてのことがアーティストの創造環境を整えることに繋がる可能性があります。特に日本拠点のアーティストとは、フェスティバルでの実験や冒険を促しながらリスクを共有してきたつもりです。

──それから、横浜市が立ち上げた市民参加型の巨大なフェスティバル「Dance Dance Dance @YOKOHAMA(以下、DDD)」の事務局長に就任されます。
 青山劇場が閉館する3カ月程前に声を掛けていただきました。横浜とはフェスティバル間の繋がりがありましたし、2011年からダンコレのコンペⅠの審査員を務めていました。2015年3月31日まで閉館に関係する仕事をして、4月1日から横浜でDDDの仕事を始めました。DDDは2012年にスタートし、3年に一度の開催で、私が事務局長として携わったのは第2回の開催からです。会期は2015年8月1日から10月4日までという長丁場のフェスティバルです。

──DDDは、数百万人の来場者に200を超えるプログラムと桁外れで(*2)、これまで小野さんが携わってきたダンストリエンナーレ等とは全くコンセプトの異なるフェスティバルです。
 そうですね。もちろんダンスアーティストの上演プログラムが核にありますが、多くの市民が参加し、ストリートや商業施設の広場等で、アマチュアもプロも一緒になってジャンルレスにダンスを展開するステージや次世代育成のためのプログラムもとても重要です。広い意味で言えば、ダンスカルチャーを社会に浸透させていく活動だと思います。

──それは青山劇場の時に「もっと社会、住民や一般の人に開く努力をすれば良かった」とおっしゃっていたことと呼応しますか。
 はい。2015年に実際にDDDに携わってみて、本当に素晴らしいと思いました。アーティストが学校に行ってワークショップなどを行うプログラムも本当に数多くありますし、公共空間も活用して市民に開かれたダンスを2カ月にわたって展開する。毎週末市内の様々な場所でダンスが繰り広げられるという状況をつくるのは、ひとつの劇場の力では難しいことです。これは市役所の様々なセクションが協力し合って初めてできることなので、行政の力の大きさをあらためて実感しましたね。横浜市が特別なのかもしれませんが、みんなとても熱心に仕事をする。新しくDDDの担当部署に着任しても、自ら積極的にダンス公演を観に行ったりして3カ月ぐらいで一応の知識を備えて市民参加事業や公演事業、プロモーションを担当します。凄いと思いました。
 これから、横浜で定着している数多くのフェスティバルなどを横に繋ぐことが重要だと思っています。例えば、日本最大級のジャズ・フェスティバルである「横濱ジャズプロムナード」とダンスや舞台芸術のフェスティバルの観客が行き来するような機会をつくれないか。大学生やみなとみらい地域の企業の人たちの舞台芸術への積極的な参加を促すチャンスをもっと増やすことができないか。ダンスアーティストが企業や学生たちとゲームやICTを活用してコラボレーションできないだろうか、といった視点から対話を始めたところです。


足下から立ち上がってくるダンス

──そして2016年に、現在の横浜赤レンガ倉庫1号館の館長になられました。

 赤レンガ倉庫はもともと横浜税関が所有する新港埠頭倉庫でした。現在は横浜市港湾局所管の普通財産施設です。この辺り一帯のにぎわいの創出と文化の創造を目的として、1号館の2階を主に展覧会等を行うスペースとして、3階をダンスや演劇、ライブ等の公演を行うホールとして横浜市芸術文化振興財団が運営しています。

──横浜赤レンガ倉庫1号館では、冒頭に伺ったダンコレ、HOTPOT、AND+、さらにはDDDやYPAMとの連携など、さまざまなレイヤーでダンスの創造環境を整備する取り組みをしています。これからのビジョンをお聞かせください。
 日本拠点のコンテンポラリーダンスのつくり手は、独自の振付言語を持って内外で活躍している人が多いと思います。過去には「西洋から東洋へ」という影響が確かに大きかった時期もありますが、今後、日本舞踊や能などの伝統芸能や民俗芸能に学び、伝統や歴史を咀嚼して消化した上で振付言語を探求する振付家、社会課題や地域課題をしっかり捉えながら創作を立ち上げていくようなダンスのつくり手が増えたらと思います。そして、アジアのダンスアーティストや制作者も含めて同時代の実践を繰り広げる人たちと対話し協働できる関係を深めたい。そしてそれぞれの地域社会でダンスや振付芸術についての共通言語を豊かにして、対話・交流できる場を作りたい。HOTPOTやAND+の活動はそのあたりとリンクしています。

──民俗芸能など日本のローカルな地域に残っているものとコンテンポラリーダンスとのアクセシビリティが悪く、しかも民俗芸能はコミュニティのものでありホールで扱うことが限られている現実もあります。
 変わっていかないといけないと思います。日本では、民俗芸能や古典舞踊もそうですが、モダンダンスやポストモダンダンスなどの流れをつかんだ上で創造活動をしている人があまり多くないと感じます。伝統も含めて歴史的・文化的なところを捉え直すということも大切なテーマだと思います。

──日本ではコンテンポラリーダンスでも若い人が黎明期の名作などを知る術がないので、すでに断絶が始まっています。一方、30年前、ダンスのマーケットが欧米の寡占状態だった頃に比べると、今はアジア各国がそれぞれ盛り上がり、劇場やフェスティバルのネットワークも出来つつあります。ダンサーの交流も始まり、やっとアジアはアジアの歴史に立脚したダンスを作る端緒に付いたような気がします。HOTPOTやAND+が本当に重要になってきますね。創造環境を整えるためには、プロデューサーの人材育成も必要になります。
 何か新たなことをやろうとすると外部から即戦力の人材を登用するということが必要な場合もありますが、その組織や団体の活動の持続性を確保するために、プロパーの人材がプロデューサーとして自立できるような仕組みが必要だと考えています。横浜市芸術文化振興財団には舞台芸術系専門人材制度があり、研修・評価・実践の取り組みがはじまっています。財団が関わっている各専門文化施設にプロデューサーが配置されていて、ダンス分野のプロデューサーにはダンコレを共同プロデュースしている中冨勝裕さんと中祖杏奈さんがいます。


コロナ禍を越えて

──今年はダンコレもコロナ禍には大きな影響を受けました。この事態から学んだことなどありますか。

 感染症に対するリスクの評価と対策はこれからも続けていかなくてはならないと思います。今回の経験で再確認したのが「対話の重要性」です。コンペティションでは、レセプションなどの交流機会を持つことができなかったので、上演審査後にアーティストと審査員・制作者間で話す時間を設けたのですが、これが実に良かった。話すことで創作の視点・見る視点を交換してお互いの理解が深まりますし、将来の活動へのヒントも生まれてくる。また「振付家のための構成力養成講座」では、ファシリテーターやメンターと振付家との対話だけでなく、参加振付家が全員で再創作のための鍵を共有し合うといった機会が、とても豊かで貴重でした。こういう対話のプログラムはこれからも続けていきたいと思っています。
 また、コロナ禍がもう少し続く可能性を考えて、デジタルを活用した作品創作に対応できる準備を始めました。これはまだ構想段階ですが、映像やVR、アバターを使ったゲーム的なダンス作品などの創作に対応したプレゼンテーション環境を用意したいと思っています。これもAND+のメンバーと話し合って、香港やシンガポールなどのプレゼンターたちと一緒に取り組めたら面白いですよね。

──今回のコンペⅡ(若手)では、映像で参加した人も奨励賞を受賞しました。
 コンセプトが非常に明快で映像でも届けられる作品もありますが、舞台と客席一つの空間で一緒に体験することでしか伝わらないのもダンスの醍醐味と言えます。見る人がいて完成する芸術とも言われますが、観客が、様々なハードルを越えて劇場に来て空間と時間を共有したいと思えるよう、劇場の価値を高めるための努力を続けることがとても大切です。

──コロナ禍でダンス動画の無料配信が爆発的に広がり、劇場に行くモチベーションが下がることを懸念する声もあります。
 ダンス動画で人気のブレイクダンスが2024年のパリ五輪から正式種目に採用されますね。また日本でもダンスのプロリーグ「D.LEAGUE」が発足しました。このような素地は、2008年に学習指導要領が改訂されて、リズムダンスが中学校の授業で人気を集めるようになった頃からあったと思います。オリンピックもダンス動画も学校教育でのリズムダンスも、広い意味でダンスの裾野が広がることに繋がります。でも、それだけがダンスではない。オリジナリティに立脚して表現する多様なダンスが生まれる創造環境、才能や専門性を社会に繋ぐ環境づくりに力を注ぎたいと思います。
 
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